第11話 蜂起
蒲郡で船を降りると、本城・岡崎までは目と鼻の距離だった。 一行は急ぎ足で進むが――『梅』は船酔いの影響で、ついに歩行不能となる。
戸板に縛り付けられながら、顔色は未だ蒼く、目は半ば閉じていた。 その姿を見た三河守の部下たちは思わず含み笑いを漏らした。 「まさか、天下に響く弁の使い手が、船で倒れるとはな」
そこへ、『竹』が『松』とともに駆けつけて来る。 息を荒げ、表情は沈痛。
「『梅』よ、大変だ」
「……どうした?」
『竹』が声を下げて告げる。
「城下で、一揆が起こったらしい。 それも、京での変事の前から……!」
空気が重くなった。
「なんという……。 混乱の兆しが、あそこにも――」
『梅』は戸板の上で、静かに瞳を開けた。
「それが……武蔵守の評判に繋がっているかもしれん。 真実を見なければ、何も語れぬ……」
船酔いの体を押してまで、その言葉を絞り出す姿。 それは忠義でも名誉でもなく、「民の乱れ」に対する切なる気配であった。
堤の道を歩きながら、『竹』がふと語調を低めた。 「右大臣は、あの武蔵守──いや、玄武の調略の才を、極めて高く評価していたらしい」 その声には、ただの情報ではない複雑な感情が潜んでいた。
「しかもだ」 『竹』は一呼吸置いて続ける。 「占領地の、半分近くを玄武に呉れてやるとまで言ったらしい。贔屓、という水準を越えておる。あの右大臣が、あそこまで一介の新参に肩入れするなど異例だ」
『松』が眉をしかめた。 「それが、反感を招いたんだろうな。京での変事の火種は、もしかするとそうした不安や嫉妬かも知れん。元々、玄武はその場しのぎの策だけは巧みだったが、情と理の間の道は歩まぬ奴だった」
「ーー身の丈に合わぬ大出世が奴を惑乱させたのだろう」 『松』はそう言って木片を蹴った。 「普通ならば、占領地というものは民を懐柔し、数年かけて兵や役人を増やして安定を図るものだ。ところが玄武は、いきなり徴用だ、調略だ、重税だと居丈高に押し通した。強引すぎて、反発を招いたのは明らかだ」
『竹』が頷きながら言葉を補う。 「その反発が、あの城下一揆につながったのだろう」
『梅』は足を止めて空を仰いだ。 雲が低い。どこか重く、何かを覆い隠しているかのようだった。
「皮肉な話だな」 『竹』がぽつりとつぶやく。 「俺たちが、あの地に築いた十年の誓い。善政に馴れていた民草にとって、玄武のごり押しは耐えきれなかった。だが、その地に彼を迎え入れたのは右大臣であり──結果として俺たちも、それを止めなかった。責任がないとは言わせんぞ、『梅』。勿論、俺達にもだが」
その言葉に、『梅』は深く息を吐いた。 「……あぁ。あの時、踏み込めば良かった。 だが、今は遅すぎるか?」
『松』が前へ一歩出た。 「どうする? 三河守の兵を借りて討ち入るか?」
『梅』は首を横に振る。 「京の混乱が収まるまでは、三河守も動けまい。助けは……借りられぬ」
「では、どうする。見殺しか?」
『梅』はゆっくりと剣の柄に手をかけた。 「三人で、討ち入るまでよ。 十何年か前に戻るだけだ。いや、違うな── 今回は、領民が俺達を憶えていてくれる。彼らの中に、灯はまだ残っている筈だ。だから、幾らかは、あの頃より恵まれているとも言える」
『竹』が顔を上げる。 「……だが、玄武の元には、鳳凰と朱雀もいる」
『梅』は唇を歪めた。 「あんな腰巾着どもは、俺達の敵ではない。 尻尾を振る者に牙はない。問題は玄武だ。策だけで塗り固められたその仮面の下に、何があるのか──それだけだ」
その一言に、『松』が歓喜の雄叫びを上げた。 「その言葉を、待っていたぜ、『梅』!!」
風が吹いた。 どこか遠くで鳥が鳴き、空がかすかに開き始めた。 『竹』は深く頷いた。 「十年経っても、この火は消えていなかったということだ」
それは、失われた地への帰還ではなく、 誓いを取り戻す戦の始まりだった。
与次郎たちは憔悴しきっていた。 体力だけでなく、心までもが擦り切れていた。 『武蔵守』による苛烈な圧政に抗うべく、彼らは一揆を起こした。だが、彼らの目算は甘かった。 武蔵守の配下には、“鳳凰”と“朱雀”と呼ばれる、まるで悪鬼のような使い手がいたことを見落としていたのだ。
その二人はただ強いのではなかった。 仲間の心を砕き、団結を引き裂くことに長けていた。 鮮やかで冷たい殺戮は、次第に村々に恐怖を広げていった。
京で起こったという「変事」──右大臣討死の報――が一時、武蔵守の攻勢を鈍らせたように見えた。 だが、それも束の間だった。
「足許を固める」と言い放った武蔵守は、むしろ攻勢を強めた。 兵を増派し、包囲網を締めあげ、各地の反抗勢力を分断した。
(前の『山城守』よりも、残虐だ……あの男は――)
与次郎は槍を杖代わりにして、村落の隅に立っていた。 一揆の首魁として名を挙げながらも、統率は崩れ、仲間の命が次々と奪われ、 連絡線は切れ、信濃守旧臣の動きも掴めなくなっていた。
(仕掛けを、間違えた。 『山城守』様なら、兵力を一点に集中させた筈だ……)
膝が笑っている。口は干上がり、唾も飲み込めぬ。 自らの将才のなさが、皆を死地に誘ったと悔いた。 もはや突出するか、籠もりきるかすら判断の余地がなかった。 誰もが、終わりを覚悟していた。
その時だった。
大地が震えた。 どこか遠くから来たはずの音が、なぜかすぐ足元で響いたように感じられた。
火柱が天に立ち上がった。 包囲していた侍たちが悲鳴を上げながら崩れてゆく。
乾いた枝を折るような音―― それは弓でも銃でもない、“急所を断ち切る音”だった。 一人、また一人と侍たちが倒れていく。 何が起きているのか、誰にも分からなかった。
「何だ……何が起こった!?」 与次郎は朦朧とした意識のまま、槍を頼って外へ踏み出した。
そして、見た。
煙の向こう。 倒れ伏す侍たちの背後に、見慣れた影が立っていた。
「――与次郎、見事だ!後は任せろ」
その声に、膝が折れた。 何度も夢に見た、あの人物。 『山城守』が、そこに立っていた。
そしてその隣には、いつも彼を支えていた『松』『竹』の姿もあった。
与次郎は泣き崩れた。 「すみません……すみません、すみま――」
言葉にならなかった。 涙だけが、過酷な日々を洗い流すように流れ続けた。
『山城守』は、そんな与次郎の肩を優しく抱いた。 手は老いたが、握力は変わらない。 そして、静かに言った。
「いや――お前たちを、餓狼の群れに放り出した俺たちの責任だ。 だが今度は、俺たちが戻ってきた。 『武蔵守』の奴に、きっちり引導を渡してやる」
「ですが、恐ろしい手下が……」
与次郎の声は震えていた。 頭の中には、鳳凰の槍、朱雀の刃が浮かんでいた。
『山城守』が目を細めた。
「“鳳凰”と“朱雀”か。 ……俺たちよりも強いと思ったか?」
与次郎は目をそらした。 「いえ、決して……そんな」
『松』がにやりと剣の柄を叩いた。 『竹』はすでに火縄の残り火を手入れしていた。
「だったら、大丈夫だ。 死ぬのは奴等だ」
その言葉は、ただの鼓舞ではなかった。 それは誓いの再点火であり、義の断言だった。
風が生まれた。 血の匂いの中に、確かに民の歓喜と、怒りと、希望が混じっていた。
この村に、再び“戦う者の灯”が戻ってきたのである。
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