第12話 球技大会とゆずの噂

球技大会編


 翌朝、校庭にはいつもと違う高揚した空気が満ちていた。

 ななも学院恒例の球技大会。校舎から引きずり出された体育用のパイプ椅子がずらりと並び、教員たちが白線を引き直している。晴れ渡る空の下、生徒たちの笑い声や歓声が早くも飛び交っていた。


 体育が苦手な拓真は、始まる前から憂鬱だった。

 運動神経がよいルリやゆずと違い、彼にとって球技大会は「自分の無能さを再確認させられる日」でしかなかったからだ。


「薄井は何出るんだっけ?」

 クラスの男子に声をかけられ、拓真は苦笑いで答える。

「ボクは……卓球」

「お、楽そうじゃん!」

 軽く背中を叩かれたが、拓真にはその言葉が慰めに聞こえなかった。


 結局、予感は的中した。

 初戦の卓球。緊張と不器用さでサーブはネットに突き刺さり、相手の打ち返す球にラケットを振り遅れてばかり。

 点差は開く一方で、あっけなく敗北。応援席からもほとんど声が上がらないまま、試合は終わってしまった。


(……やっぱりな)

 拓真はラケットを机に戻し、ひっそりと体育館の隅に腰を下ろす。自分が勝ち進む未来なんて、最初からなかったのだ。


 そんなとき。

「おい薄井!」

 背後から陽気な声が飛んだ。振り返ると、クラスのムードメーカー、小山が立っていた。汗で髪が濡れているが、その顔にはいつもの笑顔。

「なに一人でくさってんだよ。せっかくだから女子の応援行こうぜ! ルリさんもゆずちゃんも、マジやばいぞ!」

「えっ……応援?」

「そうだって! 男子の負け試合見ててもつまんねーし、女子のとこ行こう!」

 強引に腕を引かれ、拓真は渋々グラウンドへ連れ出された。


 ◇


 最初に目に飛び込んできたのは、体育館横のバスケットコートだった。

 ルリがいた。

 白いユニフォームを着た彼女は、スラリとした体をしなやかに動かしながらドリブルを進め、ディフェンスを軽やかにかわす。そして、跳躍。

 金色の髪が宙に舞い、リングにボールが吸い込まれる。

 ――スパァン!

 綺麗な音が響き渡った瞬間、観客席から「キャーッ!」と歓声が上がる。


「すげぇ……」「あれ芸能人だろ」「動きがモデルみたい」

 ざわめく声が次々に聞こえる。

 拓真も思わず見入ってしまった。普段は優雅で隙のないルリだが、今は勝負の熱に輝いている。切れ長の瞳に宿る炎のような強気さは、彼女の本当の姿なのかもしれなかった。


「な? あれは推すしかねぇだろ!」

 小山が横で興奮気味に叫ぶ。拓真は曖昧に頷きながらも、胸の奥が少しだけざわめいた。


 ◇


 さらに移動した先はテニスコート。

 そこにはゆずがいた。

 ピンク色のヘアピンで前髪を留め、小さな体でラケットを構える姿。

 だが彼女のスイングは鋭く、ボールは軽やかに相手コートへ飛んでいく。

「ナイスサーブ、ゆず!」

 前衛の佐野明日香が声を上げると、ゆずはえへへと笑って駆け回る。


 そして――。

「うぉおお!」

 周囲の男子たちが一斉にどよめいた。

 サーブを打つ瞬間、胸元が大きく揺れる。そのたびに観客席から感嘆の声が上がるのだ。

「マジで反則だろ……」「いやでもフォームも綺麗だしな」

「佐野も可愛いけど、やっぱ宇都宮だわ」


 試合は白熱し、互角の攻防が続いた。しかし最後の一本で惜しくも敗北。結果は準優勝だった。

 それでも、ゆずは汗を拭きながら笑顔で「ありがとー!」と応援席に手を振っていた。


 ◇


 観客席の一角で、男子たちが密談を始める。

「宇都宮って彼氏いないんだろ?」

「そうらしい。俺、告白してみようかな」

「やめとけって。野球部の山田だって玉砕したんだぞ」

「この前告白したやつもダメだったらしいぞ。理由が“好きな人いるから”だって」

「でもまだ片想い中らしいぜ。相手は誰なんだろうな」


 その噂話が耳に入った瞬間、拓真は思わず息をのんだ。

(好きな人……? 片想い中……?)

 ゆずが笑顔でラケットを掲げている姿を見つめながら、彼の心に妙な違和感が芽生える。


 知っている。ゆずが本当に想っている相手はルリだと。

 けれど今の噂は、それだけでは説明できない気がした。もしかして――別の誰かを、彼女は想っているのではないか?


 その考えが胸に居座り、試合の歓声も遠くに霞んでいった。

 ゆずが声援に応える笑顔。その隣で輝くルリの姿。

 二人の光の中で、拓真はただ影のように立ち尽くしていた。


(……宇都宮の好きな人って、いったい誰なんだ?)


 胸の奥に残った疑問は、消えるどころかますます大きく膨らんでいくのだった。



放課後・駅前にて


 午後の球技大会が終わる頃には、陽射しは少し傾き始めていた。

 グラウンドに響いていた歓声も次第に小さくなり、片づけをする生徒たちの声が残るだけ。


「ふぅ……やっと終わったね」

 ゆずが手を大きく伸ばしながら言う。まだ額に汗が光っていて、髪がほんのりと湿っていた。


「ゆずはテニス準優勝やったろ? すごいやん」

 ルリが笑顔で隣に並ぶ。白いハンドタオルで首筋を拭きながらも、余裕の雰囲気を漂わせている。


「いやぁ、最後の一本が惜しかったなぁ……でも、楽しかった!」

 ゆずはけろりとして笑った。


 三人は駅へと向かう途中、商業施設の一角にある自販機の前で立ち止まった。

「喉乾いたな。ボク、お茶買うけど、二人は?」

 拓真が財布を取り出すと、ゆずとルリも「じゃあうちも」「ゆずも!」と並ぶ。


 ペットボトルを三人分取り出し、ベンチに腰かける。夕方の風が心地よく、試合の熱気を少しずつ冷ましてくれるようだった。


「そういえばさ」

 拓真がキャップを開けながら口を開く。

「ボク、午後は女子の試合の応援に行ってたんだ」


「へぇ? どうせ胸目当てでしょ」

 ゆずがにやりと笑う。


「えっ⁉ ち、違うよ! ほかの男子はともかく、ボクは純粋に応援しただけだって!」

 慌てる拓真に、ゆずは「はいはい、そうですかぁ」と軽く流した。


「まあでも、ルリのバスケはほんとにすごかった。あのシュート、映画みたいだった」

「うち? そんな大げさやないよ。けど、ありがと」

 ルリは少し照れたように笑い、金色の髪を耳にかけた。


「二人とも運動得意ですごいよな。ボクなんて、一回戦負けで……ほんと運動はからっきし」

 拓真は自嘲気味に肩を落とした。


「何言ってんの」

 ゆずがむっとした顔をする。

「一生懸命頑張ったら、それで同じだよ。楽しんだもん勝ちだし」

「そやそや。勝ち負けより、自分が楽しんだかどうかやな」

 ルリも真剣な表情で言葉を重ねた。


 二人のまっすぐな眼差しに、拓真は思わず視線をそらす。胸の奥が、ほんのり温かくなるのを感じた。


「……でもさ」

 拓真は、少し声を潜める。

「今日の試合見て思ったけど、ゆずって大人気だよな。男子が告白しては断られてるって、すごい数みたいだし」


「えぇ~、それはルリだって同じでしょ」

 ゆずは唇を尖らせる。

「でも最近はルリに彼氏ができたから、その分うちに回ってきてる感じ? とりあえず告っとけ、みたいな軽いのばっかで嫌になるんだよね」


「……なるほど」

 拓真は納得したように頷いた。


 けれど、次の瞬間、好奇心が勝って口を滑らせる。

「じゃあ……好きな人がいるって、あれは本当なの? 片想いの相手とか」


「えー、ちょっと拓真くん」

 ルリがすかさず横から突っ込む。

「うちら両想いやのに、なんでそんなこと訊くん」


「ちょ、ちょっと気になっただけで……」

 拓真がうろたえていると、ゆずがふと真顔になった。


「鈍いね」

 淡い茶色の瞳が、まっすぐに拓真を射抜く。

「わたしの片想いの相手、誰だと思ってるの?」


「え……片想いの相手が、本当にいるの?」

 拓真が戸惑うと、ゆずはにっこりと笑った。


「拓真くんに決まってるでしょう」

 不敵な笑みを浮かべながら、さらりと告げる。


「えっ……!」

 拓真は思わず声を裏返した。


「好きじゃなかったら、キスなんてしないよ」

 ゆずの声は柔らかいのに、確かな重みを持って響いた。


「えー、ちょっと待って。拓真はうちの彼氏やで?」

 ルリが目を丸くして言う。


「だからこそだよ」

 ゆずは肩をすくめ、意味深な笑顔を浮かべる。

「好きな“設定”の方が、盛り上がるでしょ? 友だちの彼氏に片想いしてる設定って、わくわくするのよね」


「……そういう設定もありなんか」

 ルリは妙に納得したように頷いた。


 一方の拓真は、頭の中がぐるぐるしていた。

 本当に“設定”なのか? でも、自分に惚れる女の子なんているわけがない。――そう思うと、やっぱり遊び心で言ったのだろう、と結論づけるしかなかった。


 ペットボトルを飲み干し、三人は駅へ向かって歩き出した。

 ルリと拓真が並んで歩き、少し遅れてゆずがついていく。


 夕焼けに染まる拓真の背中を見つめながら、ゆずは小さくつぶやいた。

「……ほんとに、鈍感なんだから」


 その声は、雑踏の中に溶けていった。

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