第5話 静かなる命令

朝の空は、まだ鈍い灰色に包まれていた。


官邸の執務室のドアの前で、内務長官と広報宣伝部長は黙って立ち尽くしていた。

背筋は自然と伸び、呼吸は浅くなる。

ふたりの間に交わされる言葉はない。

時計の針が午前6時をわずかに回ったところで、扉が内側から静かに開いた。


「……どうぞ、お入りなさい」


執務室の中には、すでにリュー大統領が着座していた。

完璧に整えられたスーツに皺一つなく、机上も乱れはない。

だがその表情は、昨夜のそれとは明らかに異なっていた。


凍てつくような沈黙が、室内に張り詰めている。

「……おはようございます、閣下。お呼び出しにより参上しました」

内務長官が低く頭を下げた。


リューはスマートフォンを手に持ったまま、静かに微笑んだ。

だがその微笑みは、どこか皮膚の表面にだけ貼り付いたような冷たさを帯びていた。


「おはようございます、長官、部長。早朝からお呼び立てして申し訳ありません……が、差

し迫った懸案がございますので、どうかご理解ください」


丁寧な言葉遣い。

だが、言葉の背後にある緊張は、ふたりの背中にじわじわと汗をにじませた。


リューはスマホの画面をふたりに向けて掲げた。


「ご覧いただけますか?」


センドゥの画面に映っていたのは、

プーアが警察官の制帽をかぶり、「粛清開始」という文字を掲げている画像だった。


「──おわかりですね?」


しばし無言。

広報宣伝部長が口を開いた。


「……これは、明確な、政治風刺であります……と、解釈できます」


「はい。私もそのように感じました」


リューは頷いた。

その動作は、まるで部下の正解を確認する教師のようだった。


「そして、このような風刺──中傷──愚弄が、国家の最高指導者に対して堂々と行われているという事実は……極めて由々しき事態です」


彼は笑っていた。

目は笑っていなかった。


「よって、内務省と広報宣伝部におかれましては、ただちに本件に関する“是正”を行ってください。お願いしますよ」


「具体的には……」と、内務長官が慎重に言葉を選び始める。


だがリューは、その言葉を軽く遮った。


「“プーア”というキャラクターに関する画像、映像、文言──すべてを、人民の前から「消して」ください」


しん……と、空気が凍った。


「SNS、動画サイト、検索エンジン、テレビ、新聞……小売店のポスターも含めて。公然と“プーア”が存在すること自体が、国家秩序への挑戦であると、私は判断いたしました」


内務長官が、無言のまま頷く。

広報宣伝部長も、唇を引き結んだまま、わずかに頭を下げる。


「……ご命令、確かに承りました」


「ええ。信じておりますよ、両名とも。……ご健闘を」


言葉は優しかった。

だが、その「信じておりますよ」の一言が、まるで首に冷たい縄をかけられるような重みを持っていた。


ふたりの男は、無言のまま部屋を後にした。

ドアが閉じた瞬間、リューはスマホをテーブルに静かに置いた。


窓の外では、夜明けの光がようやく広がり始めていた。


──プーアは、今日から消える。


そのはずだった。

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