10. 狩猟祭1
***
布製の面隠しは、基本的に皇宮内で使用する品である。
外での祭や催し物のときは、TPOに合わせて毎度新たに誂えさせている。なんとかの角を削ったとかいう、皇宮お抱えの職人が作った面に付け替えることが多い。
落としてしまった時や外れてしまった時など、その場をしのぐためにと持っていくことはあるが、出番のないまま終わることが大半だ。
理由は簡単で、風なりなんなりで布だと簡単にめくれ上がってしまうからだ。
普段から職人の面をしていればよいのだろうが、布と比べるとどうしたって重みがあり、首が凝ってしようがないのだから仕方ない。
そして今日はその、首の凝って仕方ない日だ。
視界が狭まるのも窮屈で仕方ないのに、皇帝もままならぬものだな、とルシアンはたまに思う。高貴な方とはそういうものです、とリアムにいくら言われても、死ねばみな同じように土に還るのに、顔なんて隠してなんの意味があるのだか。
退位さえすれば顔を隠す必要もなくなるので、皇帝は先先帝の顔をよく覚えている。だが、その座を譲る前に儚くなった先帝の顔に関しては、実はあまり覚えていない。
それから眺めた肖像画では、堅苦しい正装に身を包んだ父帝はいつも澄まし顔をしていて、邪魔だと上着を脱ぎ捨てては、冗談ばかり述べて抱きあげてくれた生身の父の印象とはほど遠かった。
(もしよく似た別人が描かれていたとしても、私には区別がつかないかもしれない)
と、ルシアンは時々父に申し訳なく思うなどしている。
それもすべてはこの面隠しのせいだ、とルシアンは半ば本気で思っていた。もし自分に子どもが出来たら、早めに譲位して顔をよく見せてやろうとも思う。
人間いつ儚くなるかわからないのだ。あれほど健康であった父帝でさえ、急に体調を崩されたのだから。大切な相手には、見せられるうちに見せておいた方がいい。
子どもを産むどころか、異性と夜を共にすることすらイマイチ想像できずにいるのに、そんなことばかり真剣に考えている自分は滑稽だった。
そろそろ時間である。
愛馬のブラッシングを終え厩舎を出ると、無意識に手に息を吐きあてていた。手袋越しなのにこんなことで温まるものか、と皇帝は自分で自分が嫌になっていると、ルシアンが出てくるのを皇后が待ってくれていた。
皇后と並んで会場へと戻ると、あちこちから視線が向かってくるのを感じた。おかしな噂の火消しをすべく、仲睦まじい姿を見せるのが今回の我々の仕事だ。
「――陛下、こちらを」
皇后は懐からなにやら取り出すと、恭しく差し出した。この時期になるといつもくれる、丁寧にも繊細な刺繍の施された巾着に詰めた温石である。
皇后は配慮の人であった。これなら、周りには手製のハンカチでも渡したようにしか見えないだろう。
皇帝はいつものごとく、礼を述べありがたく受け取った。細かな刺繍は皇后のお手製で、巾着からは灰と炭の燻る匂いがした。きっと、直前まで焚き火なりで暖めておいてくれたのだろう。
「今日はとりわけ冷え込みますゆえ、成果よりも何よりも、陛下のお身体にさわりがございませんよう」
「そなたにはお見通しだな」
その心遣いにいつも感謝しているぞ、とその頭を撫ぜると、皇后はパッと頬を染めた。
ごく近しい者しか知らないが、実は皇帝ルシアンは極度の寒がりである。
夏場でも袖をまくることすら稀であった。それは女人である事実を隠すためでもあったが、皇帝が冷えやすい体質であることがなにより大きかった。
冷えたせいでどれほど重い月のものが来ても、強き皇帝であることを示すためルシアンは公務を休むこともできず、かといって青い顔をして唸って過ごすわけにもいかず。
常に心身健康に過ごすことが責務でもあるルシアンにとって、冷えは文字通り大敵だったのだ。
教えてもいないのに、寒さに弱いと気付いたのは皇后だけである。月のもの云々は当然知りようもないだろうが、もともと皇后はそういったことを察することのできる細やかな娘であった。
そっと寄って来て、陛下のお顔の色が優れない、と皇帝の冷えた指先を、自らの小さな掌で温めてくれたこともあった。
皇帝が持つ優しく美しい思い出の大半は、たいてい皇后リュシーによってもたらされたものである。
小さな頃などは『この春、さいしょに咲いたものです』と花を摘んできてくれたり、勉強が行き詰まってきたころに茶菓子と共に現れ『さみしくて来てしまいました』と休憩に誘ってくれたりした。
皇后は幼い頃から心まで美しいから、人にも優しい思い出を作ってやれるのだろうとルシアンは思う。
「最近とみに思うのだが、そなたはつくづく優しいな」
「それは、私には過ぎたるお言葉かと」
陛下にだけです、と赤くなってそんなことを言うので、あまりの愛らしさに皇帝はその場で高笑いしてしまい、余計に注目を浴びた。
「それは良いことを聞いた。ならば私は、ずいぶんな得をしているようだな」
照れて赤くなった頬と、最近伸びた身長により距離の近くなった顔。
昔はその成長をただ微笑ましく、愛らしく思っていたものだが、ここ数年、皇帝は皇后と接するたびに沸き起こる、この相反する感情で胸を痛めていた。
本当に、手放さずにすむ方法はないものか。
ハンカチを手に、こちらを見ている令嬢らが目についた。記憶にある限り、どの令嬢もたしか未婚である。嫌な予感がした。
皇帝皇后の離婚間近説を信じている者も、実はそれなりにいるのである。特にふたりと同世代の令嬢令息や、その世代の子を持つ家門の人間たちである。
理由は、まずふたりがまだ閨を共にしていないこと。そして皇后の成人を待っているという皇帝の発言は真っ赤な嘘で、子を成せないほど皇后が虚弱だからだとか、政治的に後ろ盾としてもっと勢力の強い家門もあるため、離婚まではしなくともこれから皇妃を迎える予定なのだとか。
皇帝皇后のふたりがなにを言ってどう否定しようと、信じたい話を信じるのが結局は人間というものの性のようだ。
だが、受け取ってやるほど私は隙のある人間ではないぞ。
ルシアンはちらりと護衛騎士隊長と侍従に視線をくれると、慌てて寄ってきた隊長に耳打ちした。
「未婚で婚約者も恋人もおらず、現在進行形で相手を探している騎士どもを呼んでこい、今すぐだ」
「? かしこまりました」
首を傾げながら去る騎士団長を見送ると、遅れて辿り着いたリアムに耳打ちした。
「いまから私が述べることを、一字一句違わず声を張って述べろ」
「? はい??」
皇帝は令嬢らに向かって、口角を上げた。
それっぽい屁理屈を捏ねさせて、皇帝の右に出るものはいない。
困惑しつつも、リアムは皇帝の言う通り口を開いた。
「『愛らしい娘たちよ。今日も健やかそうで、この皇民の父は嬉しく思っている』――と、陛下は仰っております」
そなたらを女として見ることはない、という皇帝にしては丁寧な牽制である。
「『だが年頃の娘なら悩みもあることだろう。せっかく刺繍したハンカチを、渡す相手に困っているのではないか? まだ相手が決まっていないなら、せめて良い男に渡したい、と思うのが乙女心だろう』――と仰っています」
令嬢方はそれを勝手にポジティブに受け取り、浮き足だって歩み寄りかけたが、皇帝もリアムも手で制した。
「『だがなにも心配はいらぬ、全皇民の父たる私に任せておけ。
花形な職、実力は騎士団長が保証済み、仕事に誠実そして忠実。剣に励むがゆえに、令嬢らとの交流を疎かにしてしまった恋人募集中の未婚の騎士たちが、なんとここに』」
えっそういうあれで呼ばれたのか、と若い騎士たちは慌てて髪を直し姿勢を正した。
皇帝はとうとうと続けた、なにが始まるのかを完全に察したリアムは、死んだ目をしていた。
「『花形な職ではあるが、この楽しい狩猟祭に警備としてしか参加できない、名誉すぎる職でもある。令嬢らに自ら獲物を捧げる実力も充分にある中、彼らは我々の安全を優先する忠義者たちなのだ。
褒められたくてやっているわけではないだろう。だがそれでももし令嬢らからハンカチを渡されればこれ以上の励みはない、と、この皇帝は考えたのだが、実際そなたらはどうなのだ?』」
突然呼び出され、さらに相槌まで求められた騎士らは慌てて頷いた。
皇帝にハンカチを渡すのは、いくら皇帝が権力者でついでに美形と聞いていたとしても、身の程知らずにもほどがある。しかも今その隣には、皇帝の寵愛を独り占めする皇后がいる。
もし渡そうとすれば、既婚者に横恋慕するはしたない令嬢にされてしまうが、ここで騎士に渡せば、もっと現実的で素敵な縁に繋がるかもしれない。
無理だろうけどあわよくば、と皇帝を夢見た令嬢たちが、こんな優良職の未婚男性を放っておくわけがないのである。
皇帝は令嬢らの顔を見て、その心の揺らぎに畳みかけた。
リアムに代弁させるのも面倒になり、皇帝は声を張った。
「まぁ、気負わず渡してみるがいい! 令嬢らのなけなしの勇気に砂をかけるような無粋な騎士は、宮にはまずいないゆえ。少しでも話してみたい者がいれば、ハンカチでなくとも手紙の宛先や名を記した紙でもよいかもしれんな。
もし良縁に繋がれば、この皇帝が皇后と共に仲人になってやろう!」
なぁ皇后、と見やると優しく微笑んでいた。
令嬢らが誰に渡したがっていたかくらい、皇后とてわかっていただろう。そしてそんなことを本当にしでかせば、皇后は彼女たちを決して赦さなかったはずだ。
隠しているつもりだろうから皇帝も知らぬ振りをしているが、皇帝は皇后の潔癖さをよく知っていた。うっかりルシアンに見惚れでもしたメイドは、みな即日で解雇とされるほどである。
「さようでございますね、とても素敵なご提案かと存じます。
ですが、令嬢らにだけ勇気を奮わせるのもいかがでしょう、騎士らからも気になる相手に名乗るくらいはしてもよいのでは?
陛下の仰る通り、互いにあまり気負いすぎず、後日ハンカチや挨拶の礼をしたためるのがよいでしょう」
「どちらにせよ、狩猟祭が開始するまでのほんの短い時間だ。名を訊くくらいのことしかできないだろう。後日、縁があれば改めて話してみるがよい」
急に恋人にはなれずとも、得がたい友ができるかもしれませんね、と皇后は綺麗にしめた。
皇帝のフォローなぞ、皇后にはお手の物である。
皇帝が未婚の男女に苦し紛れにさせたこの集団見合いのようなものは、後に、
『なんだか普通の縁談より、物語の恋愛のようでドキドキした』
との当事者たちの感想と共に成婚率も話題となり、祭が始まる前の恒例行事になるのだが、皇帝皇后のふたりはまだ知るよしもなかった。
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