第十一話 眠鯰忌憚
瑠佳は気付いた。みおりと撮った写真が一枚もないことに。
犬神との写真はある。遠足で撮った黒井戸と舟森と一緒に映った写真もある。
みおりはカメラに映るのを避けているようだった。
「娘の写真、ですか」
みおりの母親、
「すみません、無理にとは言わないので」
「いえ、ぜひとも協力させてください。あの子を探してくれるなんて」
母親は埃をかぶったアルバムを出した。黒い表紙に『MIORI & TAKUMA』と箔押しされている。
「沢馬が亡くなる前の写真です」
「みおりですか、これ」
そこには歯を見せて笑うみおりが居た。うつむきがちに微笑むか、嘲笑う彼女しか見たことのなかった瑠佳は意外だった。
「こんな顔で笑うんだ」
アルバムのフィルムをめくって、母親はみおりの写真を取り出した。
「……ありがとうございます。必ず返しますから」
「いいえ、持って行ってください。見るのもつらいから」
瑠佳は写真を貰った。
「あの、みおりが行きそうな場所に心当たりって、ありますか」
「心当たり、ですか」
母親は記憶を辿るように指先を顔に当てる。やがて、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「す、すみません」
「いいえ、いえ、あの子と本当に色んな所へいったと、幸せだったと、思い出してしまって」
生前葬を済ませたというのに。母親は震える声でそう言った。
「もう、諦めたというのに……」
「諦めないでください」
瑠佳は思わず、その言葉を口にしていた。
「みおりは、必ず帰ってきます。ウロをやっつけて帰ってきますから」
「……」
少女の言葉に根拠はなかったが、みおりの母親は、泣くのをやめた。
瑠佳は旅に出た。
瑠佳が駅で料金表を見ている時だった。
「おい」
無遠慮な声で呼ばれた。黒いダウンジャケットを着た黒井戸が背後にいた。
「一人で行く気だったのか」
「うん」
黒井戸は眉間を抑える。
「お前一人で見つけられるわけないだろ」
「でも、私が行かないとみおりは」
「せめて犬神に声をかけろ」
「家族が心配する」
「お前の家族はいいのか」
電車が到着する。アナウンスが響く。
「私が彼女の過去を見たから、みおりは消えたんだと思う」
瑠佳の両目に涙が浮かんだ。
「……先に言え、そういう大事なことは」
黒井戸はため息をついた。
二人は電車に乗った。そこで、トイレの花子さんに見せられたみおりの過去を、瑠佳は話した。
「その過去は未練に直結している」
黒井戸は断言した。
「古蛇の未練とは弟の弔いだ。それが深い未練となっている」
「未練って、やり残したことだよね」
「死者を正しく弔えなかったことほど、深い未練はない」
黒井戸は俯く。思うところがあるようだった。しかし、瑠佳は深く追及はしなかった。
みおりの母親の、消え入りそうな姿を瑠佳は思い出す。
最初の目的地は郊外にある渓谷だった。
古蛇一家は長男を亡くすまで、休みの日によくキャンプをした。みおりは弟と川遊びをするのが好きだったらしい。
電車とバスを乗り継ぎ渓谷へと向かう。一日二本しかないので、乗り遅れた分は歩いた。
切り立った崖壁に地蔵が並んでいる。
歩いていると川縁に釣り竿を持った人影が見えた。
瑠佳は河原へと降りる。
「あの、すみませーん。こういう女の子見ませんでしたか」
男はこの寒さだというのに、麦わら帽子をかぶり、ほつれたジーンズと薄手の長袖Tシャツを着ていた。足元は下駄を履いている。絆創膏を貼った顔は幼いが、壮年を越えているのは瑠佳にもわかる。
「おう、すまんちょっと、手を貸してくれねえかい」
「あ、はい。これを持てばいいんですか」
男が釣り竿を渡した。竹から削って途中に丸環ねじを打った竿は五メートル以上はある。リールに巻かれた釣り糸も通常より太く頑丈だ。
「なにを釣るんですか」
瑠佳は自然な流れでたずねた。
「これでな、
男は釣り竿の鞘尻に石を積みながら、当然のごとく言った。
「じしんなまず」
聴きなれぬ言葉を繰り返す。
「ああ、地震鯰はその名の通り地震を起こす。川底で眠ってんだ」
黒井戸が走り寄って来て瑠佳の首根っこを掴む。
男から離れた。
「無視しよう。関わるとまずい人だ」
「でも、みおりのこと知ってるかも」
ぼそぼそと小さな声で応酬する。
「最近地震が多いだろう!」
男は急に大声を出した。
二人は肩を揺らして恐れおののく。
「おれっちの名前は
宇尾哲は親指で麦わら帽子を上げてポーズを決めた。なにかのスイッチが入ったのか、声のトーンが一段階上がっていた。
「で、地震鯰を」
「そんな魚はいない」
黒井戸は容赦なく言った。
「ああ、地震鯰って名前はおれっちが付けたからな。知らなくて当然だい」
宇尾哲は説明する。
「釣りは楽しいぜ、見ていきない」
「……」
「いえ、急いでるので」
「見ていきない」
二人は地震鯰釣りを見学することになった。
「いっくぜーっ!」
宇尾哲は竿を振った。
ゴカイが刺さった巨大な釣り針が輝き、川の中ほどへと飛ぶ。
バシャンッ、と水飛沫が跳ねた。
細長い魚が釣り針に口を貫かれて揚がった。
「わーすごい、一発で地震鯰」
瑠佳が手を叩いた。
「ニジマスだ」
黒井戸が説明した。
「そういうことにしとこうよ、本題に入れないよ」
「しまった」
瑠佳に言われて黒井戸は頭を抱える。
「まだまだぁーっ!」
ニジマスを付けたまま宇尾哲は第二投を行った。
今度はさらなる深みへと投げる。リールの押さえをはずして釣り糸を送っていく。
「エビで鯛を釣る! でかい獲物を釣るにはこうするんだい!」
巨大な釣り竿を動かしながら興奮している。瑠佳は河原に座り、黒井戸はスマートフォンを操作しはじめた。
「きたきたきたーっ!」
当たりを感じて竿を引く。巻き取っていた糸の勢いが、ガツン、と止まった。
「根がかりだい」
宇尾哲はぐいぐいと竿を持ち上げながら言った。
黒井戸は石の上に座っている瑠佳を見る。
「……なあ、先を急がないか」
「みおりのこと聴いてないよ」
「うおーっ、スカイフィッシュだーっ!」
宇尾哲が網を持って走り出した。
「スカイフィッシュ、UMAの一種だ。一説にはシャッタースピードの遅いカメラに映り込んだハエの類とも言われている」
黒井戸は冷酷に言った。
「フィッシュと名がつくからにはおれっちの獲物だい!」
宇尾哲はしばらく網を振るっていたが、やがて息が切れて座り込んだ。
「ぜー、はー、ぜー」
体力は中年並みらしい。
「大丈夫ですか」
瑠佳は声をかけた。
「黒井戸、手伝おう」
「は?」
手伝うことになった。
「まずスカイフィッシュだが、ライトトラップを使う」
黒井戸は白いシーツを木々の間に渡した。
「虫が光に集まる性質を利用して、シーツに光を当てて拡散させる。これでスカイフィッシュを集める」
完全にスカイフィッシュが虫という前提で進めているが、宇尾哲は黙って聴いていた。
「次に鯰だが……」
「瑠佳さあああああん」
上空から声が聴こえた。
パラグライダーを操作する二つの人影が瑠佳たちに向かってきている。
ジャンプスーツを着込んだ犬神と小埜寺だった。
「助けてぇえええ」
崖に生えている木に引っかかった。
釣り竿とシーツを使って助けた。
降りてきた犬神は真剣な表情で嘆いた。
「置いていくなんて酷いです。わたくしたち友達でしょう、瑠佳さん!」
「ごめん」
瑠佳は謝った。犬神は宇尾哲を見やるが、顔を背けられる。
「あら、どこかで見たような……」
「き、気のせいだい」
「待ってください、上に立つ者としてお顔を覚えていないというのはよろしくないですわ」
「それよりも釣りだい、釣り!」
シーツを丸めてもう一度木の間に渡しにいく。
「地震鯰という、でかい鯰を釣る」
「鯰ですの」
「ああ。成り行きでそうなった」
犬神が腕をまくった。
「わたくし、釣りには心得があってよ」
黒井戸は小埜寺と顔を見合わせる。瑠佳も不安だった。
犬神の身体から白い狼が現れる。夕暮れの赤い空気の中、煙のように膨らんでいく。
「守り神に地震鯰を探してもらいますわ」
守り神をそんなふうに使っていいものだろうか。瑠佳は疑問だったが白い狼は水中へと潜った。水しぶきが上がる。
気付けば空は暗くなっている。
「ライトトラップにいい時間になった。明かりを設置する」
黒井戸は瑠佳の電気ランタンを持っていった。
数分後、犬神が呟いた。
「ヒットですわ」
水しぶきを上げて白い狼が飛び出した。その口に三メートルを超える体長の、巨大な魚がくわえられている。
「嘘、本当に地震鯰っ?」
「いや。これは違う」
顔にタオルを巻いた宇尾哲が言った。
「錦鯉だい。誰かが違法に放流したんだろい」
確かに、魚は見事な三色の鱗をまとっていた。
「鯉は何でも食いつくす。生態系のためにリリースはやめとけい」
低い声で言って、宇尾哲はライトトラップの確認に行った。瑠佳もついていく。
「わっ、すごい」
大小さまざまな形の虫がシーツに群がっていた。瑠佳は若干引いたが、目が離せなかった。
「それクワガタ? うわー。わっ、蛾でっかい、うわー」
「虫は苦手だったんじゃないのか」
「見る分には平気。うひゃっ」
顔にコガネムシが飛んできて瑠佳は両手をばたつかせる。
「スカイフィッシュはかかってないな」
蛾やクワガタを撮影しながら黒井戸は言った。
「奴は時速二百八十キロで飛ぶんだい」
「……」
黒井戸はスマートフォンを構えなおした。
ライトに集まる羽虫を撮影すると、それを宇尾哲に見せる。
「うおーっ、スカイフィッシュの写真だーっ!」
「来てはいる。あとは根気だ」
「なるほど、ありがとうな!」
黒井戸はなにかを学習していた。
河原に戻り、小埜寺と宇尾哲は協力して鯉を捌いた。
切り身を焚き火でよく焼いていく。
「いただきます」
「いただきますわ」
四人は相伴に預かった。
「写真の女の子だけどな、昔会ったぜ」
宇尾哲は話し始めた。
「あの時のおれっちは、失業した上に女房に逃げられて、川にでも飛び込もうかって思ってた。そん時に話しかけてくれたんだ」
おじさん、なにかやりたいことないの。そう、宇尾哲はたずねられたらしい。
「その一言でおれっちは釣りを思い出した。あの子には感謝してもしきれない」
目元を拭って鯉の身に箸を入れる。
その時、カタカタ、とコンロのフライパンが揺れた。
「地震だ」
崖の上からパラパラと小石が落ちて来る。やがて大きな横揺れとなった。
「きゃっ」
座っていられなくなり瑠佳は手を突く。
揺れは二分間続き、収まった。
「ダムが決壊するかもしれない。皆、避難するぞ」
「お前たちだけで行きない」
「宇尾哲さん」
宇尾哲は釣り竿を手に取る。
「おれっちは、地震鯰を釣り上げて皆を助けたいんだい」
「馬鹿を言え。逃げるぞ」
黒井戸が袖を引こうとした。
しかし、遅かった。
水が空気を打ち鳴らしている。土石流が流れ込んできたのだ。
「みなさん!」
犬神が白い狼を出した。瑠佳たちをくわえて崖の上へと跳ぶ。
宇尾哲は河原に残って釣り竿を振っている。
「宇尾哲さん!」
一瞬、川の水が盛り上がった。
地震鯰が顔を出し、土石流が河原を飲み込んだ。
白い狼にくわえられながら四人は、土と倒木が流れ込む渓谷を見た。
安全を確保した後、四人は白い狼に乗って下流のバス停へ向かった。
そこには、大きな黒い鯰が打ちあがっていた。三階建てのビルほどはある。異様な光景だった。
「本当に、地震鯰がいたとはな」
「宇尾哲さん……」
瑠佳は呟いた。
車のライトがガードレールを照らす。バス停にとまったのは犬神のリムジンだ。
「みなさん、お送りしますわ」
犬神が近付いた。
その時だった。
「ぶへっ、ごほっ、死ぬかと思ったい」
大鯰の口元から声がした。四人は顔を見合わせる。声がする方へ降りてみる。
ぬるぬるの宇尾哲が出て来ていた。
「生きてたんですね」
「おう、釣り上げてやったい」
全員で、笑った。
「ところで宇尾哲さん」
犬神がしゃがんだ。
「へへっ、なんだい」
「あなた、犬神グループ傘下の元社員で、会社のお金を持ち逃げなさいましたね」
宇尾哲が固まった。
「地震鯰も釣り上げたことだし、自首してくださいな」
「あ、あい……すみません」
犬神にやさしく諭されて、宇尾哲は思わず承諾したようだ。
土砂の中から這い出てきたスカイフィッシュが、空へと飛び立った。
みおりは結局見つからなかった。
四人は次の目的地、吸血鬼伝説のあるという古城へ向かう。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます