第七話 台風の日は幽霊と遊ぶ
残暑が厳しい九月だった。
「寝不足……」
瑠佳は机に倒れ込んだ。
「異常な暑さだね」
みおりは平気な顔で微笑んでいる。
「雨がどーっと降ればいいのに。そしたら少しはマシでしょ」
瑠佳は手振りをしながら言った。
その数日後、大型台風が町に直撃した。
生徒たちは教室に閉じ込められた。
「警備員が浸水や倒壊などの可能性はないと言ってるから、台風が過ぎるまで無理して帰宅しないように」
久那杜は珍しく真面目な表情で言った。
「わたくしのリムジンでみなさんをお送りします」
犬神が立ち上がったが、久那杜が授業用のテレビを操作してニュース特番を映した。リポーターが強風に耐えながら叫んでいる。
『自動車が吹き飛ぶ風速です! みなさん外へ出ないでください!』
次の瞬間にはリポーターも空を舞った。画面が『しばらくおまちください』のテロップと花畑の映像に変わる。
「無理ですわ」
犬神がさめざめと泣いた。
黒井戸が立ちあがった。
「食料を確保しよう」
生徒たちは売店へ移動する。
売れ残りの総菜パンが四個、自動販売機ではラーメンとうどんと焼きおにぎりを確認した。
「朝まではしのげる」
「なんでここだけ田舎のサービスエリアみたいなんだろ」
瑠佳が首を傾げる。
「黒井戸、見てくれ!」
笠井が飲み物の自動販売機を指した。『売り切れ』の表示が並んでいる。
「バケツに水を貯めておこう。いつ断水になるかわからないからな」
全員の小銭を集めて食料を買い占め、掃除用具からバケツを取り出して水道水を貯めた。
「蒸し暑い……」
瑠佳はぼやいた。
室温は三十度を超えていた。教室は空調が効きづらい。
「寝ているうちに脱水症状になる可能性があるな」
各々が水場に集まって水筒を満たしていた、その時。
電灯が一斉に消えた。
「きゃあっ!」
「停電だ」
スマートフォンを明かりにして互いの無事を確認する。
ぐうう、と誰かの腹が鳴った。
「……申し訳ありません」
犬神が謝った。皆は教室に戻って、食料を均等に分けて夕食にした。
黒井戸はうどんをすすりながら、提案する。
「スクエアをやろう」
「スクエア?」
瑠佳がオウム返しをする。彼が横文字を口にする時は、大抵オカルトに関係することだ。
「部屋の隅にそれぞれ人間が待機する。そして、隣の隅へ突き当たるまで移動するんだ。そこにいる人間に触れて、触れられた人間は歩き出す。これを繰り返すことで眠らずに夜を明かせる」
「ちょっと待ってください、それは成立しません」
小埜寺が手を上げた。
「角の数に人間の数が対応する場合、最後の人間は誰もいない隅に到達することになります」
「その通り。四角形の部屋で四人でやると、それぞれが角へ移動するだけで循環しない。そのはずなのに循環してしまうというのがこの降霊術の肝だ」
「降霊術なの?」
遭難にかこつけて儀式を試したかっただけか。瑠佳は落胆する。
「しかし、先生を含めて十一人でやれば絶対に循環する。四隅には先生と、そうだな、舟森と原田と笠井でいいだろう。残りは壁で待機してくれ。本来の目的である眠気覚ましにはなるはずだ」
つまらなそうに黒井戸は言った。
時刻は午後六時ちょうど。
「日の出が四時として、あと十時間か」
黒井戸が呟く。
「みんな水筒を持て。スクエアを実行する」
電力を節約するためにスマートフォンの画面を消して、生徒たちは手探りで壁際へ移動した。
「準備できました」
「オレも」
「わたくしもですわ」
次々と声が上がる。最後に久那杜の欠伸が聴こえて、全員が壁際についたのがわかった。
「皆、壁に手をついてるな。やるぞ」
黒井戸が歩きはじめた。上履きがフローリングを叩いていく音が、雨音と雷鳴にかき消される。
瑠佳の背中に手が当たった。それを確認して、瑠佳は水筒の水を一口飲んだ。壁に手をついて歩く。誰かの背中に手が当たった。瑠佳はその場で止まる。
生徒たちと教師は順番に教室を回る。
雨が窓に叩きつける音が響く。
「明かりをつけろ」
黒井戸の声が響いた。
スマートフォンの青白い光が次々と灯る。
「循環していなかった」
お互いの顔を見合わせた。
「俺は壁に突き当たったが、そこには誰もいなかった。どういうことだ。突然部屋が十一角形になったのか?」
「なったのかも」
「馬鹿を言うな」
すぐそばにいる瑠佳の言葉を一蹴して、黒井戸は眉間を抑えた。
「説明が不十分だったのかも知れない。先生と舟森と原田と笠井は隅へ。それ以外の皆は、壁にくっ付いていろ。誰かに触られたら歩け。それ以外はその場で待機していろ」
「……」
みんな納得しない表情だったが、明かりはもう一度閉ざされた。
壁際へ移動する。十一人の声が上がる。
「やるぞ」
黒井戸が歩きはじめる。
瑠佳の背中に手が当たる。水筒の水を飲む。歩きはじめる。
誰かの背中に手が当たる。
生徒たちと教師は順番に教室を回る。
雨が窓に叩きつける音が響く。
「いやぁあ!」
窓際から女子の叫び声が響いた。村前閑だ。
「今、今誰かに触ったばかりなのに、すぐ触られた!」
彼女はスマートフォンの明かりをつける。壁に寄り掛かってうずくまっていた。
「どういうことだ……?」
わずかな明かりの中で、黒井戸は言った。
久那杜の欠伸が聴こえた。
「あー、点呼取るか。時宗」
久那杜が瑠佳を呼んだ。
「はい」
瑠佳は答える。
「舟森」
「はーい」
「村前」
「はい……」
「行木」
「はい」
「犬神」
「はい、ですわ」
「小埜寺」
「はい」
「笠井」
「はい!」
「黒井戸」
「はい」
「原田」
「はい」
風雨がバチバチとガラス窓を叩く。
「……みおり」
最後は久那杜の代わりに、瑠佳がみおりを呼ぶ。
「いるよ」
みおりの声は答えた。
欠けた人間はいない。
突如、廊下を懐中電灯の強い明かりが横切った。
「きゃああ!」
犬神の声が響いた。瑠佳は思わず目を瞑る。
「よろしいでしょうか」
瑠佳が目を開くと、教室の入り口に懐中電灯を持った老女が立っていた。
「ひいやぁ!」
舟森が叫んだ。
「あっ、保険医の」
「
瑠佳と行木には見覚えがあった。この学校の保健室に常駐している坂秦
「スクエアを、やっておられるのですね」
坂秦は見抜いていた。
「ああ、降霊が目的ではないが」
「でしたら、一度明かりをつけた状態でやってみましょう」
懐中電灯を構えたまま、坂秦は部屋の中央へ移動した。
コピー用紙を取り出して簡易の行燈を作り、光を拡散させる。
十一人の教師と生徒たちは壁に手をついている。分布は固まっている所と離れている所があり、ばらつきがあった。
「どうぞ」
「……」
黒井戸は水筒の水を一口飲んで歩きはじめる。
彼の手が瑠佳の背中に触れる。瑠佳は水を一口飲んで、歩く。
拡散した光によって、瑠佳の影が天井へ伸びて別の生き物のように蠢いている。
その時、もう一つの影が動いた。
「そこ、なんで動いた」
黒井戸が指摘した。歩き出したのは舟森だった。
「えっ、だって、えっ」
彼はしきりに背後を気にしている。後ろにいるのは犬神だった。
「わたくしは触っていません」
「だけど、確かに感触が……」
「降霊です」
坂秦は言った。
「この儀式は霊を呼ぶようになっている。そう、皆が信じておられます」
「……」
黒井戸は言葉に詰まり、顎に手を当てた。
「ちょっといい?」
みおりが手を上げた。
「私、最初から参加してないんだけど」
沈黙。
「みおり?」
「みおりさん、どういうことですの」
話せる瑠佳と犬神が同時にツッコんだ。
「だってさ、祟り殺しちゃうじゃん」
河童の代役ならともかくさ、とみおりは笑った。
瑠佳は頭を抱える。
「眠気覚ましの方法は他にいくらでもあります。暗闇の中を歩くという行為は、意外に体力を使うものですよ」
坂秦は柔らかな声で諭した。
「……いいや、続行する」
黒井戸は宣言した。
「瑠佳と犬神に挟まれていれば古蛇も参加できるだろう。死者は出ないはずだ。それと、次は異常が起こっても止めない。明かりがあるなら好都合だ。壁に突き当たっても曲がって歩き続けろ」
「なぜ、降霊術にこだわるのですか」
坂秦の言葉に黒井戸は答えた。
「化け物なんかに馬鹿にされるのは、気が済まないんだ」
明かりをつけたままスクエアは再開された。
黒井戸が水筒の水を飲んで歩く。今度はすぐに二人目の走者が現れた。小埜寺だ。彼は怪訝な顔をして前に居た原田に触れた。そしてすぐ歩き出す。見えない何者かに押されて。
やがて、十一人全員がぐるぐると教室の壁際を歩くようになった。
「馬鹿にされている」
黒井戸が吐き捨てる。
「絶対に面白がっている」
「霊は悪戯好きですから」
中央に座る坂秦が呟く。
「みおり、みおりも押されたの」
背中にくっついて歩いてるみおりに瑠佳はたずねた。
「ううん。どうも祟られるってわかってるみたい。私には触れてこないよ」
それにしても面白いね。と、みおりはこの状況を嘲笑う。
「みんなー、水分補給は忘れるなよー」
久那杜が気の抜けた声で言った。生徒たちは次々と水筒に口をつける。
時刻は午後十一時になった。
「もう無理……」
村前がへたり込んだ。
「このままでは埒が明かない。何か、除霊する方法はないか」
「成仏させるというのでしたら、念仏でも唱えましょうか」
苛立っている黒井戸に坂秦は手を合わせてみせる。
「いや、生半な行動は霊を逆上させる危険がある。これ以上体力は消耗したくない」
舟森が手を上げた。
「ひとりかくれんぼ!」
全員が舟森を見た。
「急に何?」
「いや、昨日動画で見たんだよ。降霊術だろ。これも」
意味を解って言ってるのか。瑠佳は呆れたが、黒井戸の反応は違った。
「霊に人形という身体を与えるわけだな」
理科室の人体模型を持ってきて内臓の模型を取り出した。
「名前はどうする」
黒井戸に言われて、犬神が手を上げた。
「ジョナサンがいいですわ」
「ジョナサンだ」
黒井戸は自分の髪の毛を一本抜くと人体模型の腹に入れた。それから米の代わりにうどんを入れた。縫い閉じることができないので、黒井戸は小学生から使っているナップサックをばらして人体模型の腹に巻いた。
ラーメンスープとうどん出汁を空のバケツに入れる。かぐわしい匂いが立つ。
「テレビがつかない。停電してるからだ」
笠井がリモコンのボタンをぐいぐいと押す。
「これでいいだろ」
黒井戸はスマートフォンで砂嵐の映像を検索した。
「ひとりかくれんぼは一つの建物の中で、一人でやる必要がある。俺はジョナサンと一緒に移動する」
「お気をつけて」
生徒たちは見送った。
黒井戸は二つのバケツとジョナサンを抱えて、体育館へ移動した。
「あの子も移動しました」
坂秦が呟いた。彼女が言うあの子というのが、幽霊であることは明白だった。
黒井戸は東側の更衣室にだし汁が入ったバケツを、北の準備室に水の入ったバケツを置いた。
準備は整った。時刻は午前三時。
「最初の鬼は黒井戸だから。最初の鬼は黒井戸だから。最初の鬼は黒井戸だから」
黒井戸は同じフレーズを三回唱える。
準備室に抱えていき、水を張ったバケツにジョナサンの頭を沈めた。
スマートフォンを取り出して砂嵐の動画を再生する。電機店の広告が流れた。
「しまった」
広告が終わるまで待つ。
黒井戸は目を閉じる。砂嵐と、風雨がガラス窓を叩く音だけが続く。
十秒後、彫刻刀を手に持って準備室へ入った。
「ジョナサン、見つけた」
ジョナサンの腹に彫刻刀を突き立てた。布とうどんを裂く感触を黒井戸は感じる。
「次はジョナサンが鬼だから。次はジョナサンが鬼だから。次はジョナサンが鬼だから」
三回唱え、黒井戸は更衣室へ向かった。そこにはだし汁が入ったバケツが置いてある。
体育館は広かった。
移動まで、十秒以上かかったのだ。
カタカタカタ、と雨音とは違う異質な音がした。
黒井戸は振り返る。
「黒井戸さん、大丈夫でしょうか」
犬神は心配していた。
「死んでるかも」
みおりが心無い言葉を言う。瑠佳は肘で小突いてたしなめる。
「それにしても、聴きそびれちゃった」
瑠佳は呟く。
「何を?」
「黒井戸が化け物嫌いな理由」
瑠佳が言うと、みおりは自分の膝を抱えた。
「いや、大好きでしょ。あれは」
「馬鹿にされたくないっていうのは?」
「対等で居たいって意味じゃないかな。人間ごときが化け物とね」
みおりはうつむきがちに微笑む。
ずぶ濡れの人体模型が黒井戸の後ろにいた。
『クロイド、ミツケタ』
黒井戸は跳び退って彫刻刀を逆手に構える。異様なスピードで人体模型が走り寄ってきた。
彫刻刀が閃いた。布が裂けて内臓に見立てたうどんが飛び散る。足の裏で蹴って、距離をあけた。カタカタとバランスを取りながら人体模型が下がる。
走る。今度は黒井戸の周囲を。走り回る姿は教室でのスクエアを想起させた。
黒井戸は彫刻刀を握ったままじりじりと更衣室へ近付く。人体模型はそれを一定の距離で囲む。
壁に激突した。
黒井戸は走った。すこし足がもつれたが、転ぶのを堪えた。
人体模型は右腕が肩から落ちたが、壁に身体全体を擦りつけながら黒井戸へ向かっていく。
「みおりは化け物なんかじゃないよ。ウロに憑かれているけど、人間だ」
左腕が黒井戸の肩へ伸びた。しかし間一髪のところで、黒井戸は更衣室の扉を閉めて鍵をかけた。
ドンドン、と叩かれる。黒井戸はバケツのだし汁を口に含む。扉が蹴破られた。
人体模型が飛び掛かる。
黒井戸はバケツの中のだし汁を浴びせかけた。かぐわしい匂いが立つ。
バケツが人体模型の頭にかぶさり、黒井戸へ一直線に向かっていた軌道がずれた。
更衣室のベンチに膝を打ち付け、人体模型はその上に倒れる。黒井戸はすかさず口に含んでいただし汁を吹きかけた。
「俺の勝ちだ! 俺の勝ちだ! 俺の勝ちだ!」
制服の袖で拭って、口の中に残った汁を吐き出した。
「こんな儀式で降りてくるな、幽霊が!」
黒井戸は怒りに任せて叫んでいた。
みおりは意外そうな顔をして、瑠佳の顔を覗き込んだ。
「そんな話、した?」
「みおりは時々、私たちを馬鹿にしてる。そうでしょ」
瑠佳は正直に言った。
「ウロの祟りはみおりの力じゃない。ウロとみおり自身とは違うものだよ」
みおりは微笑むのをやめて、冷たい視線で瑠佳を見つめた。
「偽善者」
「なんとでも言って」
瑠佳は真直ぐに見つめかえす。
黒井戸が人体模型を抱えて帰ってきた。
「スクエアを再開する」
「黒井戸、今って何時」
瑠佳はたずねた。スマートフォンを取り出して黒井戸は確認する。
「午前四時だ」
「じゃあ、やる必要ないんじゃない」
台風は通り過ぎていた。空が白んでいく。
各々は家族に連絡して迎えを呼んだ。犬神がリムジンでの送迎を再度提案したが、小埜寺以外は断った。
黒井戸は裏手の焼却炉にジョナサンを持っていき、燃やした。
「学校の備品だよね、それ」
瑠佳が呆れている。
「ひとりかくれんぼに使った人形はこうすることになっている」
「ねえ、なんで化け物をそんなに恨んでいるの」
たずねられて、黒井戸は振り返った。
「恨んでいない。ただ、馬鹿にされたくないだけだ」
「どうして」
「人間だからだ」
黒井戸は答えると、教室へ荷物を取りに行った。
「タノシカッタ」
焼却炉からした声は、誰にも聴かれなかった。
つづく
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