第3話 常灯の庭
分かれ道で別れてからも、白い点は胸のどこかで瞬きを続けていた。家の戸を閉め、横になっても、まぶたの裏に常灯が浮かぶ。眠りの手前でいちど消えて、息を吸うたびにまた灯る。朝になればただの朝になるはずだ――そう思いながら、夕暮れが来るころには、僕の足はもう山道の方角を向いていた。
石段は夜露を吸って、昼よりもやわらかい匂いがした。苔の色は濃く、指で触れれば水がにじみそうだ。踏むたび、靴底の音が短く途切れ、次の段へ移る。村の灯りは遠く、風の音が少し変わる。畑を渡るざわざわから、木々の隙間を抜ける細い音へ。夜が深まるほど、音は整っていき、僕の足音だけが余計なもののように思えた。
やがて鳥居が現れる。白い常灯が二つ、左右で同じ明るさの輪を地面に置いている。境内は玉砂利が淡く光り、回廊の柱は影をまっすぐ落としている。虫の声がしないのは、ここでは普通なのだろうか。耳が空になると、肩の力が勝手に整列していく感じがした。村の静けさは、人の気配を薄く延ばしたような温度がある。ここは、音の置き場所が最初から決まっている。
鳥居の前で足を止めると、回廊の影から姫神子が現れた。昨夜と同じ白い装束。けれど冠はなく、髪は低く結ばれている。常灯の光に馴染むせいか、村で見たときより色が少ない。僕が言葉を探すより先に、彼女は短く会釈をした。
「来ると思ってた」 声は低くはないのに、回廊に反射しない。不思議と、ここだけの高さで止まる。 「どうしてわかったの」 「昨日、分かれ道で振り返らなかったでしょう」 「うん」 「振り返らない人は、だいたい来るの」
少しだけ、笑ったように見えた。笑い声はやはり出ない。出そうとすれば、回廊がそれを真っ直ぐにしてしまいそうだ。
「ここから先は、誰でも入れるところ」 姫神子は鳥居の先を指で示した。「少しだけ、見せたい場所があるの」
玉砂利に足を入れると、砂利は思っていたより軽い音を立てた。板敷きの回廊は白く、常灯の反射でところどころ薄い水の膜を張ったみたいに見える。柱と柱の間に置かれた灯が、同じ間隔で息をしている。僕と姫神子の影が時々重なって、すぐに分かれる。重なる瞬間は、影の方が先に歩く。
境内の隅に、小さな庭があった。池は丸く、縁の石は背の低い椅子みたいに並んでいる。水面に常灯が映っていて、風が通るたび、光は丸いはずみをつけて広がった。姫神子は何かを確かめるみたいに、片手を胸の前で返し、指先を揃えた。舞の所作の始まりに見えたが、そこで止める。彼女の視線は水面のほうへ、僕の視線はその視線の先へ続いた。
「ここは、忘れ物が戻ってくる場所」 姫神子が言った。 「戻ってくる?」 「うん。たとえば風。村では角を曲がるたびに形が変わるけど、ここに来ると、最初の形にいちど戻るの」 「最初の形……」 「最初に、どんなふうに吹こうとしていたか。ここだと、それがわかる」
僕は池の縁の石に腰をおろした。石はどれも同じ高さで、手を置く場所も、指先が迷わない。村の井戸端の石は、だれかが座ってすこし低くなったり、角が削れて丸くなったりしている。ここは、座る前から座り方が決まっている気がした。
「昨日、村は『置きっぱなしが好き』って言ったよね」 「言った」 「ここは、置きっぱなしが生まれない。置きたくても、置く前に元の場所がわかるから」 「元の場所がわかるのは、いいこと?」 「いいこと。……でも、少し苦しいこと」
姫神子は言い切ってから、小さく息をした。池の縁に片足の指だけを乗せ、重さを移さない。水面の輪が一枚、彼女の足先まで届いて、そこで薄く消えた。
「村は、置きっぱなしの形に手の温度が残るって言ったね」 「うん」 「ここは、温度が残らない。残らないように、最初からできてるから」 「それが役目?」 「たぶん」
たぶん、という言い方が、姫神子には珍しく思えた。彼女はいつも、用意された言葉の上をまっすぐ歩く。今、その板の端に指先が触れて、ほんの少し柔らかさを確かめているようだった。
回廊の角を曲がると、小さな社が見えた。扉は閉じられていて、前に供えられた器はきちんと揃っている。砂の上には足跡がない。人が通ったはずなのに、通り抜けるときに足跡を置かない歩き方が、ここにはあるのだろうか。姫神子は社に背を向けて立ち、僕の肩越しに境内の入口の方を見る。その目は、村では見たことのない距離に焦点を合わせていた。
「ここから奥は、わたしだけ」 「一人で行くの?」 「うん。そういうふうにできてるから」 「できてる、って」 「道が、最初からその幅でしか続いていないの」
彼女は言葉を並べ、どれも短く置いた。僕は頷く代わりに、玉砂利を一歩だけ踏んだ。軽い音がひとつ。そこに別の音が重なることはない。村なら、どこかの戸が開き、どこかの犬が鳴き、誰かの笑い声が遠くで混ざる。ここでは、音は自分の形だけで止まる。
「門まで、送るね」 「ううん、門の手前まででいい」
回廊を戻る間、二人ともほとんど話さなかった。話さないことが、話すことよりもここでは合っている。常灯は相変わらず同じ間隔で息をし、柱の影は僕らの影よりも先に角を曲がる。鳥居の前、玉砂利から石段へと境目が変わる場所で、姫神子は立ち止まった。
「また、村で」 昨夜と似た言い方。でも今度は、返事を待つ時間が少し長い。風がその間に二度、境内の隅を通った。 「……うん」
それだけ言って、僕は鳥居の外へ出た。石段の最初の段は、村の土の匂いに近い。足の裏に戻ってくる重さが、少しだけ乱暴だ。振り返ると、姫神子は鳥居の影のところにいて、常灯の輪の外に立っている。光に包まれたほうが彼女には似合うと思っていたが、今は輪の外にいるほうが自然に見えた。
山道を下りはじめる。足音は短く、間は長い。木の間の暗さは真っ黒ではなく、薄い灰色の層をいくつも重ねたみたいだ。層と層の間を風が通る。さっき庭で見た波紋を、暗闇の中で反転させた感じ。ひとつの輪が広がって、どこにも触れずに止まる。
分かれ道まで降りて来ると、村の灯りが思ったより近くに見えた。軒先の風鈴は、昨日より少し高い音で鳴る。今日の風は、昨日より乾いているのかもしれない。家々の影は角が丸く、壁をすべる風の音が紙の擦れる音に戻る。ここでは音同士が勝手に寄り合って、知らないうちに別の音になる。
戸口の前で立ち止まり、振り返る。山の中腹、白い点はやはり息をしている。昨日の夜と同じ明るさ。けれど、僕の目の中に入ってくるときの重さが少し違う。光は眼から胸へ、胸から足の裏へ降りていき、そこで止まった。
戸を開けると、木の匂いと、煮物の残り香がかすかに残っていた。居間の空気は、整っていないぶんだけやわらかい。棚の上に置きっぱなしの湯飲み、半分まで巻いてある紐、壁にもたせた箒。どれも“元の場所”を忘れている。忘れている形の端に、昼間の手の温度がまだ乗っている。
灯りを落とす前にもう一度だけ、窓の向こうを見た。白い点は、そこにある。今度は、まぶたを閉じても、眼の裏に移ってこない。代わりに、足の裏のほうで小さく灯った。明日の朝になれば、ただの朝が来る。けれど、朝の始まり方は、昨日より少し早く、少し静かになる気がした。
床に横になると、耳が自分の家の音を拾い直す。梁が乾いた音でひとつ鳴り、外の風が戸の隙間を短く撫でる。遠くの常灯は、ここまで来ない。ここは置きっぱなしの場所で、光は勝手な形で止まる。止まる場所があるのは、悪くない。
目を閉じる。光は消えたまま、足の裏で小さく呼吸を続けた。翌朝、たぶん僕はいつもより早く起きて、少しだけ静かな歩き方を覚えている。そう思いながら、眠りの手前で、石段の最初の段の高さをもういちど踏み直した。
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