第2話 姫神子、分かれ道に立ちて

あの雷の夜から、まだ一日も経っていない。

祭りは続き、神殿の座を降りた姫神子は、今夜も村へ降りてきていた。


夜の帳が、ゆっくりと村を包み込んでいく。さっきまで響いていた太鼓の音も、笛の高い音も、もうどこにもない。代わりに残っているのは、風に揺れる提灯のかすかな触れ合う音と、焼きそばの鉄板が冷えてゆく匂い、そして遠くの山肌を撫でる風の、草を渡るささやきだ。

 昼の熱が残った石畳は、靴底越しにまだ温かい。明かりの下に立つと頬にやわらかな熱が返ってきて、影の帯に足を踏み入れると、ひと呼吸でひやりとする。村全体が、明るさと暗さのあいだで、ゆっくり体を横たえるみたいに呼吸していた。


 広場の中央では、屋台の主たちが片付けをしている。木枠をたたむ乾いた音、油の鍋を移す慎重な足取り、氷箱を傾ける水のこぼれる音。積まれた箱が揺れると、瓶と瓶が当たって小さな鐘のように鳴る。

 親方が若い衆に「手をはさむなよ」と声をかける。返事は短いが、どれも柔らかい。大鍋の底を布で拭うと、焦げの匂いに甘いソースの名残りが混じって立ちのぼる。誰かが残った紙皿をまとめて、縄でくくる結び目を指先で確かめている。


 遅れて帰る村人が、二、三組、広場を横切った。肩に子を背負った母親が、小さな声で「ほら、起きないの」と囁く。老夫婦が「今年は舞が立派だったな」「ああ、よく通る声だった」と、歩幅を合わせて行く。

 耳に入るひとこと、ふたことが、昼の賑やかさの余韻を横切って、すぐに夜の方へ吸い込まれた。残るのは、足音のあとに落ち着く沈黙で、その沈黙のほうが、今夜の主役のように思えた。


 僕は広場の隅、灯りの届かない端の石畳に腰を下ろす。石は熱を手放しきれず、指先にぬくもりを残している。袖の中に入り込んだ風が、汗の跡を探して、そこだけうすい寒さを置いていく。

 遠くで犬が一声だけ鳴き、すぐに黙る。たったそれだけの音が、かえって、広場全体の静けさを際立たせた。祭りの夜は、終わったあとの空白が、いちばん長く感じられる。


「……帰らないの?」

 背後から、小さく澄んだ声がした。


 振り返る。提灯の光の中に、姫神子が立っていた。白い装束の裾が夜風にふわりと揺れ、髪は冠を外して肩へ落ちている。昼の舞台の光に照らされていた時よりも、ずっと穏やかな顔だ。光の輪郭が頬を薄く縁どり、目元は静かな水面みたいに見える。

 言葉が見つからず、僕はただ視線を合わせた。姫神子は小さく微笑むと、音を立てないように近づいてきて、僕の隣にそっと腰を下ろした。石畳の冷たさが、彼女の袖を通してすこしだけ伝わる。


「今日は、いつもより静かだね」

 僕がそう言うと、姫神子は小さくうなずいた。

「祭りが終わったから。みんな、疲れて眠ってるの」


 淡々とした声に、深く息を吐いたあとの安堵がわずかに混じっていた。風が通るたび、袖口から香の匂いがほのかにこぼれる。舞の最後に焚かれていた香の名残りだろう。

 広場の真ん中では、最後の提灯の火が一つずつ落とされていく。火が弱る直前、炎が小さく背伸びをするように揺れて、ふっと消える。暗くなるごとに星が増える。暗闇は怖くない。今夜の暗さは、耳にやさしい。


「喉、乾いてない?」

 姫神子が囁く。

「少しだけ」

 僕が答えると、彼女は袖の内側から小瓶を取り出して、蓋を開けた。

「舞の前にもらう水。もうぬるいけど」

 瓶口が月をひとすじ映した。ひと口含むと、井戸の水の味がした。冷たさはないのに、口の中が洗われるようだった。僕は瓶を返す。彼女は礼を言って、ほんの少しだけ口に運ぶ。


「……来年も、やるのかな」

 僕が空を見ながら言うと、姫神子は迷いなく答えた。

「やるよ。ずっと、続いてきたから」

 その言い方は習い覚えた言葉のようで、けれど、そこに自分の重さを乗せているようにも聞こえた。


 僕も同じ方向を見る。高く澄んだ空に、細い月が浮かんでいる。月明かりが村の屋根や山の稜線を淡く縁どり、煙突の先の白い息のような雲が、風の筋に沿って薄く伸びていた。

 彼女の横顔は、提灯の灯りよりも白く見えた。目の縁に、ほどけかけの疲れがある。口元は静かで、声を出さなくても、明るさと静けさのどちらにも触れていられる人の口元だ。


「舞、どうだった?」

 姫神子のほうから問う。

「よかった。足音が、ちゃんと石に残っていくみたいだった」

「足音?」

「うん。音が残って、でも消えて、また次の音が来る感じ」

「……そう。消え方も、見てくれてるんだね」

 彼女は少しだけ笑った。

「お腹、空いてない?」

「少し。焼き団子の匂いがまだする」

「わたしも。終わったら食べようって思ってたけど、いつも終わると、忘れちゃう」


 屋台の片付けが大方終わり、広場の真ん中に空き地が生まれた。さっきまで人の流れが渦を巻いていた場所に、風だけがゆっくり降りてくる。木の枝が触れ合い、葉の裏の銀色が裏返る。

 遠目に、山の中腹の黒さの向こう、木々の隙間から、わずかに白い光が覗いた。神殿のほう角にある常灯かもしれない。目を凝らすと、光は確かにそこに在って、こちらに向けて合図をしているようにも見えた。


「……帰らないと」

 姫神子が小さく言った。立ち上がると、裾が夜に溶けるように揺れた。

 僕も遅れて立つ。石畳から離れると、地面は土に変わり、靴に柔らかい感触が戻る。提灯の明かりがひとつ、またひとつと風に揺れて、道の上に長い影を作った。影は揺れて、重なって、はがれていく。


 広場を抜ける手前、井戸端に四、五人が残っていた。桶を伏せる音、縄を巻き取る音、乾いた井戸枠に指が当たる爪の小さな音。

「今年は雨が少なかったから心配したが、無事に終わってよかった」

「神殿の方も、これで胸を撫で下ろすだろう」

 そんな声が耳に触れて、流れていった。言葉にとがりはなく、広場の風のほうが強かった。


 道に出る。家々の窓はほとんどが暗く、軒先に吊した短い風鈴だけが、時折、金属の芯で軽く鳴る。路地は昼よりも狭く感じられ、壁と壁のあいだを風が駆け抜けると、紙が擦れる音がした。

 誰かの家の縁側に、祭りで使った布の端が干されている。布の端は夜露を吸って重く、下に垂れた雫が庭の砂に小さな黒い点を打っていた。

 戸口の前で、猫がいちどだけ背を伸ばす。こちらを見るが、何も求めず、また丸くなる。夜に馴染む動きだ。


「疲れてない?」

 歩きながら姫神子が聞く。

「少しだけ。君は?」

「大丈夫。歩いてると、舞のあとが体から抜けてく」

「舞のあと?」

「うん。手を下ろしても、まだ手の先が広がっている感じ。足を止めても、次の足の場所を探してしまう感じ」

「それは……少し、わかる気がする」

「ほんと?」

「祭りを見てる間、音の終わり方が気になって。終わっても、終わらないみたいな」

「似てるね」

 姫神子は、前を見たまま、うすく笑った。笑い声は出さない。笑い声のかわりに、足取りがわずかに軽くなる。


 路地を抜けると、小さな祠の前に出た。石段に苔がうっすらと生え、燈明台の小さな火が、ほぼ残り火だけになっている。姫神子は足を止め、燈明の前でほんの一拍、目を伏せた。

 僕も立ち止まる。足をそろえ、息を静かに吐くと、胸の奥のざわめきがひとつ、床に落ちたみたいに静まった。

 祠の屋根をかすめるように、夜風が一筋とおる。鈴守りが触れ合って、ほとんど音にならない音がした。


「村は、やっぱり、あったかいね」

 祠を離れながら、姫神子が言う。

「神殿は?」

「静かで、広くて、忘れものがない場所」

「忘れものがない?」

「うん。置きっぱなしをすると、たちまちわかるの。だから、置きっぱなしが生まれない。時間のほうが整っていく」

「村は、置きっぱなしだらけだ」

「知ってる。だから好き。置きっぱなしの形には、誰かの手の温度が残るから」


 分かれ道が近づいてきた。右は村の家々へ、左は神殿へ続く山道だ。分かれ道の手前で、土に小石が混じり、踏むたびに乾いた音を立てる。

 山道の方角は、暗く、しかし真っ黒ではない。木々の隙間の向こうで、白い常灯が小さく呼吸している。道のはじめの石段は露でしめり、苔の色が夜にしっとりと濃くなっていた。


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