第2話 旅の武士

 春の山道に、しんと夕闇が迫りつつあった。


 カラスの鳴き声が遠く、山の稜線を越えて尾を引く。

 時折、獣の遠吠えがこだまし、木々の間を風が吹き抜けるたび、どこから飛んできたのか桜の花びらが音も無く舞い落ちた。


 迷いと悟りの狭間を知る、春の精のような…紫の蝶が1羽、ひらひらと今日の寝ぐらでも探すかのように舞っている。


 須藤大次郎は、袴に脚絆を締め、古びた道中合羽を肩に掛けて、重々しくも静かに歩いていた。


 笠の下から覗くその眼差しは鋭く、しかしどこか思いを抱えた影が漂っている。腰には無骨な拵えの二本差し、いずれも手入れが行き届いている。

 旅慣れた者の装いであった。


(なんとかして、日のあるうちに麓の村まで下りたいが……)


 心のうちでそう呟いた大次郎の足が、不意に止まる。


 ――広大深遠、無量無碍力……


 かすかに聞こえてくるのは、読経の声である。

 谷の向こうから風に乗って届いてくるその声は、どこか深く沈み、揺るがぬ念のような響きを持っていた。

 

 大次郎は笠を傾け、声の方角を探る。

 どうやらこの山中に、寺が一軒、あるらしい。


(ならば……)


 決めたように頷くと、道を逸れて脇の細道へと足を踏み入れた。

 人の踏みしめた痕跡のある、だが、滅多に通る者もなさそうな山道であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る