第30話 初めての任務
テーブルに置かれたスマホの着信が止み、しばらくの沈黙。
玖狼はぐいっとチューハイを飲み干すと、額を押さえてうめいた。
「……う~……頭いてぇ……」
「え、出なくていいの?!」
「どうせ、緊急じゃないやつだろ」
「緊急だったらどうするの!
い、今から出動とかあるかも」
環は手をぶんぶん振りながら、ソワソワと歩き回る。
心臓が早鐘を打ち、背筋に冷たい汗が流れた。
「お前……顔真っ青じゃねーか。緊張しまくってんな、うける」
ソファにだらしなく沈み込みながら、玖狼はニヤリと笑った。
「わ、笑いごとじゃないでしょ!私、今回が初めての実戦投入かもしれないんだよ!?」
「まあ……死ななきゃ大丈夫だろ」
「全然大丈夫じゃない!!」
環の声が裏返る。
その横で、玖狼はひょいとスマホを取り上げ、無造作に画面をタップした。
玖狼が片眉をぴくりとあげる。
そしてスマホを持った腕で自分の目を覆った。
「…っはー、だっる」
深いため息が、静かな部屋に溶ける。
「な、なんて来てたの…?」
おそるおそる環が問いかける。
玖狼はその声を無視して、しばし動かない。
だが次の瞬間、むくりと上体を起こし、目を細めた。
「今から出るぞ、たま」
その瞳は、鋭く光っていた。
夜の街。街灯の下に黒い車が停まる。
目の前には古い日本家屋があった。
玖狼と環が降り立つと、すでに規制線が張られ、制服警官たちが遠巻きに現場を見張っていた。
足早に歩きながら、玖狼が説明を始める。
環は小走りでその背中を追いかけた。
「今回の案件は、憑き物だ」
「憑き物……?」
環は小首を傾げる。
「――依頼では、動物霊が憑いたガキが夜な夜な暴れて手がつけられなくなってるそうだ」
「それを取り押さえるってこと…?」
「そういうこと」
玖狼は振り返らずに答えた。
「相手は一般人だから、なるべく穏便に済ませるように」
「う、うん」
環は説明を飲み込んで頷いた……が、ふいに思い出したように顔を曇らせる。
「……あっ。宿題終わってない……」
玖狼は呆れたように環を振り返った。
「明日誰かの写せ」
「明日の1限なのに!」
そう追いすがる環の頭を、拳で小突いた。
「馬鹿。俺だって明日1限から大学の講義入ってんだよ。こういうのは要領よくやるしかねえんだ」
くだらない口げんかをしていると――
突如、耳を劈くような獣の咆哮が夜を裂いた。
「ウオオオオオオオオオオオン!!!」
二人は一斉に声の方向を見た。
そこには、獣のように四つ足の姿勢で、血走った目をした少年の姿。やせ形で、茶色の髪はバサバサと乱れていた。
パーカーとジーンズ姿だが、ところどころ汚れている。
夜闇の中、目だけがギラギラと光っていた。
―――ヴヴヴヴヴヴ…
少年の口から犬のような唸り声が聞こえた。
そして、
足元から伸びるその影は黒く巨大な獣の形をしていた。
人の姿で牙を剥き、よだれを垂らし、唸り声を上げるその様は、異様だった。
「なに、こいつ…」
環は少年のその様子に、嫌悪感を覚え、後ずさる。
そんな環を横目に、玖狼は欠伸をしながらゆったりと少年に歩み寄った。
そして、恨みがましく呟く。
「人がいい気分で酔っ払ってるとこを、邪魔しやがって」
少年は玖狼に気づくと、獣じみた唸り声を上げて飛びかかる。
次の瞬間、乾いた衝撃音。
玖狼が、少年の懐に入り、顎に掌底を食らわせた。そして、間髪入れず、その頬に肘打ちを食らわせる。
骨が軋む音が響き、少年の体が崩れ落ちた。
脳震盪を起こしているのだろう。
よろよろと起き上がろうとして、出来ずに横転した。
玖狼はなおも追撃する。
倒れた少年の腹に蹴りを入れた。
「……がぁっ!」
少年はうめき声を上げながらうずくまった。
玖狼は冷ややかな目で少年を見下ろしていた。
環はその様子を凝視していた。
玖狼は容赦がなかった。
(穏便に済ませるんじゃなかったっけ…?)
晩酌を邪魔された、個人的な恨みもこもっているんじゃないかと疑いたくなる。
それほど圧倒的な制圧。
力任せに暴れる少年の動きは、玖狼にとっては予測しやすいものだったのだろう。
「があああああっ!」
怒りに任せて吠える少年は、再度玖狼に飛びかかる。
だが玖狼は一歩も動かず、逆に少年の胸ぐらを掴み、そのままみぞおちに膝蹴りを食らわせた。
少年は地面を転がりながら、うめき声を上げる。
蹲りながら、玖狼を睨みつける。
その目には恐怖が宿っていた。
玖狼に勝てないと悟ったのか、彼はそのまま後方の壁を蹴って屋根へと駆け上がる。
玖狼は舌打ちし、後ろで攻防を見守っていた環を振り返った。
そして、親指で少年の方向を指し示しながら言った。
「おい、たま。あいつ引きずり下ろしてこい」
「ええ!?私!?力加減上手くできないかも」
「取り憑かれてる間は、多少荒くしても大丈夫だ」
玖狼は人差し指に銀の指輪を嵌めながら、そう言い切った。
その横顔には、先ほどまでの酔っぱらいの気配などまるでなく、ただ鋭く冴えた狩人そのものだった。
「わ、わかった……!」
環は、近くの塀へ跳躍し、それを足場に屋根に飛び乗った。
身体が思い通りに動く。
少しは訓練の成果が出ているのかもしれない。
少年は瓦屋根の上を四つ足で駆け、環たちから逃げようとしていた。
環は風を切って走る。
足を踏み込むたびに、瓦屋根が音を立てた。
逃げる少年の背にぐんぐんと近づく。
(あと少し!)
思い切り踏み込んだ。
「おりゃああっ!」
渾身の飛び蹴りで、少年を屋根から叩き落とした。
――ドサッ!
屋根から蹴り落とされた少年が地面に叩きつけられる。
環は屋根から飛び降り、玖狼の近くに着地した。
少年が体勢を立て直そうとしたその瞬間。
玖狼が低く呟く。
「アモン、やれ」
指輪を嵌めた人差し指で少年を指し示した。
指輪が紅く光り、指先に魔法陣が展開する。
そこから現れたのは、見覚えがある姿だった。
炎を纏った漆黒の狼。
鋭い瞳を光らせ、吠えるや否や――少年に炎を吐きつけた。
「ギャウンッ!!」
炎に包まれた少年の口から、犬のような悲鳴が響き渡る。
「え…?!」
環は目をむいて声を上げる。
「し、死んじゃうんじゃないの!?」
だが玖狼は肩を竦め、冷静に答えた。
少年を見つめる瞳に炎が反射して映っていた。
「大丈夫だ。大人しく見てろ」
断末魔の叫びをあげながら、少年が暴れまわる。
そのまま環の方に向かって突っ込んできた。
少年の爪が閃く。
「――っ!」
迫りくる影に、環の呼吸が止まった。
次の瞬間。
玖狼が、目の前に飛び込んできた。
鋭い爪が玖狼の背中を裂く。
上着が破れ、鮮血が散った。
「玖狼…!」
環が叫ぶ。
だが玖狼は微動だにせず、少年に向き直ると、片手で少年の顔を鷲掴みにした。
氷のように冷たい声音で吐き捨てる。
「……おとなしく寝とけ」
少年がもがく、その一瞬。
環の目に、玖狼の背中が映った。
裂けた上着の隙間から、何かの紋様がちらりと覗く。
それはただの入れ墨ではなかった。
幾何学模様のように複雑で、不気味な輝きを帯びていた。
環はそれに見覚えがあった。
(魔法陣…?)
その背中から、目が離せなかった。
玖狼は振り返らない。
ただ環を庇うように立ち続け、血を流しながらも少年に意識を向け続ける。
炎は一瞬、少年を舐め尽くすように燃え上がったが――やがてすっと消えた。
少年の身体から力が抜け、倒れ込む。
「い、生きてるよね…?」
環は少年の顔を覗き込みながら、おそるおそる聞いた。
そこには火傷一つなく、気を失った少年が横たわっている。
玖狼が静かに言う。
「ああ。アモンの火で、取り憑いた獣だけ痛めつけた」
「そんなことできるんだ…」
環は玖狼の傍に控えるアモンに目を向けた。
どことなく環の目を見返して、胸を張っているように見える。
もしかして、会話に参加してる…?
環は、はっとして尋ねた。
「背中…大丈夫?」
「ん?ああ、鈍臭い後輩を持つと苦労するぜ」
玖狼は大げさにため息をつきながら言った。
環は口をとがらせる。
ふい、と横を向き、
「…ごめん」
と呟いた。
玖狼は環の頭を、こつんと拳で小突く。
「気にすんな」
いつものような憎たらしい笑みはなかった。
代わりに、労るような穏やかな笑みを浮かべていた。
(こういう時だけ、そんな顔するのずるい)
胸がぎゅっと苦しくなる。
環は、玖狼の足を引っ張っていることに対して歯がゆさを感じ、唇を噛みしめた。
背中の魔法陣のようなものについては、なんとなく詮索するのが憚られた。
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