第27話 Side:Noel

50年ほど前、ノエルは「吸血鬼と人間の共生」を掲げた機関に所属していた。

シエラともそこで知り合った。


人間を無闇やたらに襲う吸血鬼は処罰されなければならなかった。

吸血鬼による吸血鬼の粛清。


ノエルは、同胞を裁く役目を担い、人間を襲った吸血鬼を自らの手で粛清してきた。

同胞を斬るたびに胸の奥が冷えていったが、それが正義だと信じ込むしかなかった。



――環を襲ったあの男も、かつてノエルが葬ったはずの吸血鬼だった。

当時もあの男は何人もの人間を手に掛けていた。

抵抗したため、片目を潰した。

命乞いする姿を無慈悲に切り捨てた、確かにその瞬間を覚えている。

確かに息の根を止めたはず。

しかし、灰になるところまでは見届けていなかった。


なぜまたノエルの前に姿を現したのか。

もしかしたら、やつを蘇生させた何者かがいるのか?

胸騒ぎが拭えなかった。




***



ハンター組織の車に揺られながら、

ノエルは環と出会った日のことを思い返していた。


寒い冬の日、夕暮れ時だった。

買い物を済ませ、喫茶店の開店準備をしていると、店の前に人影が見えた。


黒いセーラー服を着た高校生くらいの少女が、店の看板をまじまじと見ていた。

「…?」

店に入ろうか悩んでいるのだろうか?

ノエルは少女が深刻そうな顔をしていることに気づく。

(気になるなぁ)

好奇心に負けて声をかけた。


少女は最初警戒していたが、ノエルが店に入ることを促すとおずおずと入ってきた。

どうやら押しに弱いみたいだ。

そんなことを考えながら、少女を席へ案内した。


少女は少し緊張しているようだった。

カフェオレを出すと少し表情が緩んだが、まだ居心地悪そうにしている。

その日はすぐに帰ってしまったが、

「また来てね」と声をかけると頷いた。


***


数日後。

少女が店の近くを行ったり来たりしていた。

何日か前にも、店に入ろうとしては諦めて帰っていく姿を見ていた。

ノエルは少女の背後から声をかけた。

少女は驚いたようだが、今度はすんなりと店に入ってくれた。


ロイヤルミルクティーを彼女の前に置く。

もし次に彼女が来たなら、これを出そうと決めていた。彼女は気に入ってくれたようだ。

まだ少し緊張している少女を観察した。

鞄に下がったキャラクターのキーホルダーに気づき、ノエルは話題を振ってみた。

思いがけず弾む会話。

少女の顔がぱっと明るくなった。

ノエルは暇つぶしに本を読むことが多い。

吸血鬼の寿命は人間よりもずっと長い。

基本的に、暇を持て余しているのだ。

漫画でも小説でも、気になったら読むことにしていた。



この時間帯はちょうど退屈している。

ちょっとした遊び心のつもりで、

「僕と友だちになってくれると嬉しいな」と口にした。

少女は困った顔で頷いた。

新しい退屈しのぎができた。

その時はそれくらいに考えていた。


それから、ノエルと少女のささやかな時間が始まった。



夜が更け、喫茶店に人ではない者たちが集まってくる。

「いらっしゃい」

彼らは普段は人間社会に紛れて生活している者が多い。

吸血鬼はもちろん、狼男や化け猫、怪異に詳しい専門家。

ここはそういった者たちが、情報交換をしたり、日頃の愚痴を言ったりする場所だ。

自然と色んな情報が集まってくる。

その日も様々な声が飛び交っていた。


***


少女はその後も店に来てくれた。

人見知りをしていたのか、最初は堅い感じがあったが、だんだんと笑顔を見せてくれるようになった。

彼女の悩みを聞いていると、今の時代の子供たちも大変だなと思う。

生活自体は昔より格段に豊かになっているが、悩みは尽きないようだ。

ここで過ごす時間が、少しでも彼女の慰めになればいい。そう思った。


***


ある雨の日、彼女がびしょ濡れで喫茶店に入ってきた。

そのただならぬ様子に最初は驚いたが、同時にノエルを頼ってきてくれたことを少し嬉しくも思った。

濡れそぼって、冷たくなった彼女の髪を拭くうちに、今まで感じたことのない感情が湧き上がってきた。

親愛の情か、庇護欲か。はたまた別の感情か。

ノエルは、自分を頼ってきた弱々しく、いじらしい存在を愛でるようにその頭を抱きしめた。

ノエルは自分が変わり始めていることを自覚した。




彼女はノエルの好きなコーヒーや紅茶、映画の話など他愛のない話も目を輝かせながら聞いてくれた。

乾いたスポンジのように、どんどん新しい知識を吸収していく。

それが面白くて、ノエルは夢中になって話をした。


いつしか、彼女との語らいがノエルの心を満たすようになっていた。

まさか、自分に人間の友人ができるとは思いもしなかった。


***


ある日、彼女がティーカップで指を切った。

突然のことに、ノエルは戸惑った。

わずかな血に、本能が顔を覗かせる。

こんなことなら、日頃から吸血衝動を抑えるものを摂取しておくべきだった。

彼女はノエルの様子がおかしいことに気づいたかもしれない。

でも、深くは追求してこなかった。


それをいいことに、ノエルは真実をはぐらかし続けた。

そもそも、吸血鬼だなんて言っても信じるわけがない。


ほんの一瞬、「彼女も吸血鬼になれば、ずっと一緒にいられるのでは」とさえ考えてしまった。


ずっと同じ土地にいると怪しまれるから、世界中を転々としながら。

2人の思い出がどんどん増えていく。

それはきっととても楽しいことだろう。


けれど――それは叶わぬ夢。

流れる時間の速さが違う以上、彼女を縛ってはいけない。


***


連続通り魔の噂が流れ始めた。

店に来る客が、こんな噂を持ってきた。

犯人は「ノエル」という名を口にしたらしい。

犯人は、どうも吸血鬼のようだ。

片目が潰れている。

ノエルには心当たりがあった。

遠い昔にノエルが粛清したはずの男。

「生きていたのか」

知らず、口からこぼれていた。


彼女を巻き込むわけにはいかない。



もう潮時かもしれない。

彼女にもう店に来ないほうがいいと伝えなければ。

どうせ人間と吸血鬼では流れる時間が違うのだから。ずっと一緒にいられないのは分かりきっている。

なのに、どうしても君との時間を手放したくなかった。

ノエルにとって、彼女はとても大きな存在になっていた。


***


「しばらくここには来ないほうがいい」

そう告げたときの彼女の表情を、今も忘れられない。

きっと彼女はノエルが何かを隠していることを悟っていた。

彼女はずっと見ないふりをしてくれていたのだ。


僕は愚か者だ。


君は店を飛び出した。

その日はひどい雨だった。



血の匂いがした。

雨を裂いて走った。

血溜まりに横たわる君を見つけた瞬間、

何も考えられなくなった。

どうして、どうしてこんな――。


すぐに君の後を追っていれば。

友だちになってなんて言わなければ。

あの時声をかけなければ。

君はこんな目にあわずにすんだのに。


君の弱々しい呼吸に、胸が張り裂けそうだった。

けれど、それは一部の希望でもあった。



とにかく君を失いたくなかった。

今にも命の灯火が消えてしまいそうな君を、この世に繋ぎ止めることしか考えていなかった。

ただそれだけで、禁忌に手を伸ばした。


人間を吸血鬼にするのは罪だ。

でも、そんな事はどうでもよかった。

ただ、君に嫌われてしまうことだけが怖かった。

吸血鬼の"子"と"親"はある種の主従関係のような絆で結ばれる。

僕の言葉に君は従わざるを得なくなる。

君に僕を忘れるように、暗示をかけた。


***


君の前から姿を消して、奴の痕跡を必死に追いかけても、何も見つからない。

彼女に危険が及ぶ前に、やつを排除しなければならないのに。

苛立ちが募った。



ずっと君のことが気がかりだった。

国のハンター機関に昔の同胞がいると聞いたことがあった。

ノエルはその機関に連絡を入れ、匿名で彼女の保護を依頼した。


一度喫茶店に戻った時、君が飲んだコーヒーカップが目に入った。よかった、ちゃんと飲んでくれて。

ノエルはカップを手に取った。


未練たらしく君の様子を見に行っては、会わずに帰った。


君がハンターと一緒に喫茶店に近づくのが見えた。

君はずいぶんとハンターの男と親しそうだった。僕といた時とはまた違う表情を見せた。

心がささくれ立つ。



あの吸血鬼がまた君に襲いかかった。

君の近くにいたのは正解だった。

いつでも君を助けに行ける。

しかし、君は僕の想像よりもずっと強く成長していた。

僕はもう彼女には必要なかった。

彼女のそばから完全に姿を消そう。

そう思ったとき。



ハンターの男が君を傷つけた。

自分を抑えられなかった。

あのハンターが彼女を本気で殺すつもりはないのはわかっていた。

でも許せなかった。


すべてが終わって、いよいよ君と向き合う瞬間がやってきた。


君はすべてを思い出していた。

僕は拒絶されると思った。


しかし、

こんなにどうしようもない僕に、君はありがとうと言った。


君が僕を抱きしめてくれた時、僕はやっと許された気がした。


涙を流したのは何十年ぶりだろう。



「待ってる」


君が言ってくれたその言葉だけで、僕はこれからも生きていける。


嬉しくて、彼女の額に口づけをした。

耳まで赤くなっていたのが、愛らしく、思わず笑ってしまった。


どれくらい時間がかかるかはわからない。


けれど、約束する。


必ず君のもとに帰るよ。


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