夜蝉と雷鳴のレガシー(2)


「お断りします。将棋はもうやめましたから。あの対局は気まぐれです。それに、父とはもう何年も会っていません」


 私は見知らぬ男の申し出を、これ以上ないくらい明確に拒否した。勝負を捨てて、家族と私までをも捨てて行方をくらました父。今さら父の言葉を聞いても私の生き方はもう変わらない。私は今のリビングデッドな生活で何一つ不自由していない。疑問も不満も持っていない。


「あなたの才能はくすぶらせるにはあまりに惜しい。明らかに日本の女流将棋界の損失です。そして何より、……先生が、一番悲しみます」


 桐山という男は場違いなまでに真剣な眼差しで食い下がる。

 しかしその言葉は、私の反発心をピンポイントで突いた。


「やめてよ! お父さんが私の何を分かってるって言うのよ! 勝手に将棋を捨てて、家族を捨てたくせに!」


 何言ってんの、この男。本当に頭に来る。なんでお父さんを悲しませないために、私が将棋を指さなきゃいけないのよ! あまりに理不尽で、思わず大声出ちゃったじゃない。


 桐山という男はそれ以上何も言わず、連絡先を記した名刺をレジカウンターにそっと置いた。そしてあやすように一段声を落として囁いた。それは聞きようによっては私の将来を人質にして脅迫しているかのようにも聞こえた。


「俺だけではない、たくさんの人たちが、あなたの将棋を待っているんです。先生もきっと……、いや、とにかくよく考えてみて、気が変わったら連絡をください」


 そう言い残して男は店を出て行った。店内に再び静寂が戻る。明るい店内BGMだけが、取り残されたように鳴り続けていた。ユウティンが商品棚の向こうからそおっと顔を出して、レジカウンターで立ち尽くしている私を覗き見ていた。


「メヤリさん、今のお客さん、なんだったんですか? 警察呼びましょうか?」


 ユウティンが心配顔で駆け寄ってくる。私はとっさに男の置いて行った名刺を制服のポケットに突っ込んで無理やり笑顔を作った。


「大丈夫、ただのセールスだったから。しつこいからどやしつけてやっただけだし」


 一生懸命平静を装ってレジの締めを済ませる。いまだに訝しげな顔でこちらを見るユウティンには「じゃ、あとよろしく」と告げて、足早に更衣室へ逃げ込んだ。背中に突き刺さる彼女の視線が痛い。私と男の会話はかなりの部分は聞こえていたはずだ。聡い彼女は私の咄嗟の出まかせだけでは、きっと納得できていないだろう。


 店の外は陽の長いこの時期でも、もうさすがに暗くなっていた。夏の夜の生ぬるい空気がまとわりついてくる。

 私は無意識にポケットに手を入れ、名刺の角の尖った感触を指先で確かめていた。今すぐにでも丸めてゴミ箱に捨ててしまえば、また元通りの、何も考えなくていいリビングデッドな日常に戻れるはずだ。


 こんなもの、丸めてぽいすりゃいいのよ。こんなもの……。

 

 ――先生はよく言っていました。「メヤリは攻め将棋に見えるが、本当の才能は受けにある。あの粘りは天性だ」と


 突然さっきの男の静かなしかし熱の入った声が耳の奥に蘇った。


 やめてったら! そんなの嘘よ。絶対に嘘。父が、そんなふうに私のことを誰かに話していたなんてありえない。私が知る父は、私の将棋を褒めてくれたことはない。盤の前に座る私を、見ることすらまれだった。ましてや私の対局中の指し手に対してコメントするなんて考えられない。


 ◇


 翌日の土曜日。今日はサリナと二人で昼番だ。制服に着替えて店内に出た私を見るなり、サリナが目を輝かせて詰め寄ってきた。


「ねえ、みゃー! 昨日の夜イケメンがみゃーのところに会いに来たでしょ? どうなったの!? 告白とかされちゃった? もしかしてお持ち帰られちゃったりしたの? やだー、みゃーったら、おさかんねー」


 サリナの好奇心満々の聞き込みに対して、私は怒るよりも先に呆れた。サリナったら、何一人で妄想爆発してんのよ。欲求不満なのかしら。


「何バカなこと言ってんの。ぜっんぜん違う。ただの、迷惑な、セールス!」

「えー、それ絶対嘘! あんな爽やかなセールスマンいるわけないじゃん。私だったら喜んで持ち帰られちゃうかも。タダシよりずっといい感じだったし」

「好きにすればいいんじゃない? 私にはまったく関係ない人だったから」

「みゃーってば、昔っから変なとこでコンサバだよねー。せっかくだから狙っちゃいなよ。超いい感じじゃん!」

「サリナ、ほら、お客さん来てるよ。今日はサリナがレジ担でしょ?」


 鬱陶しいことこの上ないので適当にあしらったが、サリナのこの無邪気な騒がしさが、今の私にはむしろ一種の救いだった。彼女と馬鹿な話をしている間だけは、桐山という男のことも、父のことも、頭の隅に追いやっていられる。


 ◇


 その夜も、私はアパートの狭いベッドの上で、なかなか寝付けずにいた。エアコンのタイマーはとっくに切れ、蒸し暑い空気が部屋に満ちている。目を閉じると瞼の裏に九×九のマス目が浮かび、そこを飛ぶように駒が舞う。


 ああ、この局面は私が最後に父と指した将棋だ。


 母が出て行った後のことだ。私が今までの人生の中で一番将棋に乗っていた十五歳の梅雨時。父がある夜突然「メヤリ、ちょっと指してみないか」と将棋盤を持ち出してきたことがあった。


 私が先手で、7六歩、3四歩のよくある出だしから角換わりになった。平凡に腰掛け銀にした私の指し手を見て、父は8三銀と出て一直線に棒銀で突っ込んできた。まさか父がそんな初心者みたいな分かりやすい速攻策で来るとは思わなかった。数十手後には早くも私が劣勢になって、受け続ける形になった。


 父は自分の陣地を固めることまで省略した速攻でぐいぐいと攻めてくる。その指し手は鋭く、私はほとんど選択の余地のない受け手を続けなければいけなくなる。

 でも、久しぶりに父と将棋盤に向き合えて、私は心の底から喜んでいた。父の将棋は熱く、そして大きい。盤面全体を見て、え? と思うような遠くから駒が狙われたり、流れるような手順で守り駒をはがされたり。せっかくの対局のチャンスに自分から崩れてしまわないように踏ん張り続けているうちに、私は父の陣地の中のある一マスが、忘れ去られたように極端に守りが薄くなっていることに気が付いた。


「どうだ、メヤリ。苦しいか?」

「うん。超苦しい。だってお父さん、いきなり棒銀なんかで攻めてくるとは思わなかったんだもん」

「これが棒銀の威力だ。角換わり棒銀は攻めている方に選択肢が多いから、受けきるのは大変だろ? 早めに飛車を浮いて棒銀にさせないのが一番いいが、そうでなければ我慢して受け続けるんだ」


 そういいながらも父は手持ちの駒を目いっぱい使って攻め続ける。父の歩が5筋を進み、ついにと金になった。もうこれ以上、受けきれない。と金を取ると玉の側の守り駒の左金が吊り上げられてしまう。俗に5三のと金に負けなしと言われている急所のと金。

 私は意を決して父の作った5三のと金を手抜いて、つまり黙殺して、父の伸ばしてきた歩の裏に香車を打ち付けた。

 父はその日初めて手を止め、私の打った香車をじっと見つめる。そして数分した後、穏やかに表情を緩めて、私に話しかけてきた。


「メヤリ、よく気が付いたな。ここに香車を打つのが急所だ。いつから気が付いていた?」

「え? えーと、お父さんが十六手前に桂馬を跳ねたとき。その桂馬を跳ねた跡は無防備になっちゃうな、って。そしたら端の取り合いから香車が持ち駒になったから」

「そうか」


 父は短く頷くと満足げに駒台に手をかざした。投了の合図だった。


「よく覚えておくんだ、メヤリ。攻め手を続けると必ずどこかに隙ができる。そこに打ち込む駒があれば受けている方が有利になる。だから受けている時は相手のどこに隙があって、いつ何を打ち込めば一番の反撃になるか、それを考えながら受けていれば必ず勝負は自分に有利になる」

「え? お父さん、これで投了するの? まだ私の方が悪い局面じゃない!」

「いや、この局面でここに香車が打てたのなら、もうメヤリが有利だ。寄せ間違いさえしなければな。さ、明日も学校だろ? もう寝なさい」


 そういって私を寝室に追い立てた。


 次の日、朝から大雨だった。そして、父が運転していた車が事故を起こし、乗っていた人が亡くなったと、学校で聞かされた。


 その日を境に父は家から姿を消し、私が父の顔を見ることはなくなった。私が父と将棋を指したのも、父の顔を見たのも、それが最後になった。


 ◇


 昔の将棋を思い出していると余計に目が冴えてしまった。ぼんやりと父はあの将棋が最後になると知っていたのではないか。そんな気がしてきた。

 時計が秒針を刻む音を聞きながら天井の木目を数えるのにも飽きた頃、魔が差したように私は枕元のスマートフォンを手に取った。

 そして、ここ数年、意図的に避けてきた行為に手を染めてしまう。

 検索窓に、私は震える指で文字を打ち込んだ。


 ―――『尾道 メヤリ 将棋』


 エンターキーを押すと、画面にはおびただしい数の情報が一瞬で表示された。そのほとんどが、先日の高城ナナとの対局に関するものだ。私は麻薬にやられたジャンキーさながらに、将棋ファンが運営する掲示板、個人のブログ、SNSの投稿を一つ一つ除いて行った。まるで他人の人生を覗き見るような奇妙な感覚で、そこに並んだ文字の羅列を指でスクロールしていく。


『あのアマすごすぎるよ。ナナ一撃粉砕されてたじゃん』

『高城ナナ、油断してんじゃねーよ』

『アマに負けるとか、タイトルホルダーとしてどうなの?』

『あのアマチュア、何者?』

『さすがに女相手に悩殺肉弾攻撃は効かなかったなw』


 ありふれたが感想が画面を埋め尽くす。私は感情を殺したまま、指先で無機質にそれらの文字を弾いていった。私への賞賛、憶測、やっかみ、ナナの不甲斐なさを糾弾する声。どれもこれも、無責任な言葉の礫だった。


『この尾道メヤリって、少し前に有名だった天才少女だぞ』

『真理峰桜の再来かと思った』

『小学生名人戦で見た記憶がある。まさかこんな形で名前を見るとは』


「天才少女」、その言葉が、ひどく耳障りだった。過去の栄光を鞭のようにしならせ、今の私を打ち据えてくる。

 違うって、あの頃の私と今の私は地続きの人間ですらないんだよ。それぐらい分かってよ。そう心の中で毒づいた時、ひとつの辛辣な書き込みが目に飛び込んできた。


『結局プロになれなかった落ちこぼれが、一発当てて調子に乗ってるだけだろ。すぐ消えるよ』


 呼吸が、一瞬止まった。それは、他ならぬ私自身が、鏡の中の自分に向かって毎日のように投げつけている言葉だったからだ。

 私はプロになれなかったんじゃない。ならなかったんだ、と虚勢を張ってみせたところで、心の底では自分自身が一番よく分かっていた。私は選ばれなかった側の人間。勝負から逃げた卑怯な小物。棋力が十分あったとしても、選ばれなかったという結果自体が変わらなければ、原因の違いは些末な問題だ。要するに、ただの「落ちこぼれ」。

 鋭い痛みが胸を走り、スマートフォンの画面を消そうと指を動かす。嫌なものは見なければいい。そうやって生きていけるのがリビングデッドのメリットだし、実際そうやって生きてきたのがこの私だ。


 しかし私はそうしなかった。デジタルデータの海をさらに深く潜っていく。検索結果の3ページ目、4ページ目と進んだ先で、私は古びたデザインの個人ブログに行き着いた。父の現役時代を知る、相当高齢の将棋ファンのブログだ。

 そこには、私の知らない父の姿が、熱のこもった文章で綴られていた。


『――尾道先生の将棋は、決して派手ではない。むしろ泥臭い。だが、その将棋には魂があった。どんなに不利な状況に追い込まれても、決して諦めない。盤上の隅に追いやられた玉が、たった一枚の「歩」を頼りに、絶望的な状況から活路を見出す。あの姿こそ、プロの根性だと私は思う』


 私は、寝返りを打つと、頭からタオルケットをかぶり直し、息を詰めてその文章を読み進めていった。父が、そんな将棋を指していたなんて。私の記憶の中の父は、いつも鋭く、鮮やかな切れ味で相手を圧倒する棋士だったはずだ。

 そして、私のスクロールする指は、決定的な一文の上で完全に停止した。その記事は、先日の高城ナナとの対局に触れて、こう締めくくられていた。


『先日の高城ナナさんとの記念対局で、尾道メヤリさんが指したという終盤の5八香。あの絶体絶命の局面から、歩と香車で反撃の狼煙を上げたあの一手は、まさしく尾道先生を彷彿とさせた。公式には何も言われていないが、メヤリさんこそ尾道先生の実の娘さんなのだろう。盤の上で、時を超えて親子が再会したようで、不覚にも涙が出た』


 ――盤の上で、親子が再会した。

 その言葉が、脳の中心で桐山の声と重なった。


『あれは、まさしく先生の指し手でした』


 私が捨てたつもりでいた将棋は、私の知らないところで、私と父を固く結びつけていた。私が逃げ出したはずの世界で、私の一手にかつての強かった父の姿を見出した人が、世の中に確実にいる。


 私がこれまで必死に守ってきた「父からも将棋からも断絶された、リビングデッドな私」という仮面が、音を立てて吹き飛んでいく。

 スマートフォンの画面が暗転し、そこに映る自分の顔が、ひどく頼りなげに見えた。


 お父さん、あなたは一体、誰なんですか。

 そして、私は…………、仮面を脱いだ私は、一体誰なんだろう。


 答えの出ない問いが、夏の夜の熱気の中で、ぐるぐると渦を巻いていた。 

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