夜蝉と雷鳴のレガシー(1)
「この部屋、暑くない?」
サリナが文句を言いながら休憩室兼更衣室のドアを開けて入ってきた。壁のパネルを雑に操作して設定温度を下げる。ピピピと電子音が鳴って、空調機の動作音が少しだけ大きくなる。今日のサリナは通称ヨルハヤ番、私は昼番。私はあと二時間で上がりだった。
「サリナ、無駄だよ。どう頑張ってもこれ以上涼しくならない。むしろうるさいだけ」
季節は、いつ明けたか判然としないままの梅雨時期を過ぎて、本格的な夏へと突入していた。アスファルトを焦がすような日々が続き、店内の空調機は連日フル稼働だ。売り場の空調を強くすると、休憩室兼更衣室のエアコンの効きが悪くなる。もう慣れてはいたが、この店で働く店員にとってはあまりフレンドリーではない。従業員満足度なんて言葉は、町中の中規模以下のコンビニにはあってないようなものだ。
「ところでさ、みゃー。このネットニュースの写真、みゃーに似てない? 私、今朝からずっと気になっていたんだよね」
休憩室兼更衣室の長机に腰かけるや否や、サリナがスマホの画面を私に見せてきた。そこには、対局室で盤面を睨みつけるキリッとした女性の横顔が小さく掲載されている。まぎれもなく、あの日の私だ。
「ん、それ、私」
特に隠す話でもない。私はほとんど興味を示さずにあっさり肯定した。その言葉にサリナが鋭く食いつく。
「え? マジで? ホントにみゃーなの? なんで急に将棋なんか」
「ちょっとね、その対戦相手とは因縁があってね、昔から」
「えー、うそー、すごいじゃん! なんで黙ってたのよ! 『無名のアマ、現役女流タイトルホルダーを破る』だって。みゃー、いつの間にそんな有名人になったわけ?」
サリナは私よりも興奮気味だ。私はというと、見られてはいけない黒歴史のポエムを見つけられてしまったような感じ。その居心地の悪さから、私の答えは必要以上につっけんどんになる。
「別に有名人になんかなってないよ。ただの記念対局だって」
「でも、勝ったんでしょ? みゃーが将棋強いなんて知らなかったよ。料理が上手いのは知ってたけど。部屋にも将棋の本とか全然ないじゃん」
「昔、ちょっと習ってただけだって。サリナもピアノ習ってたって言ってたじゃん。それとそんなに違わないって」
「全然違うよ! 見てよこの顔、超かっこいい! いつものダルそうなみゃーとはまるで別人!」
スマホの画面に小さく映った私は、自分でも驚くほど気迫に満ちていて、全身全霊で盤上の一点だけを見つめている。今の私が失ってしまった何かを持っているようで、あまりにまぶしくて思わず視線をそらしてしまった。あの日の自分は、本当に私だったのか、自分でも自信がなくなる。
「ありがと。でも、私もうこれ以上将棋指す気、ないんだ。あ、言っとくけど、勝手に私の写真、インスタとかにアップしないでよね」
「えー、だめなのー? もったいない。『私の友達、プロ棋士に勝った』ってアップしたらマンバズ確定なのにー。でもさ、高城ナナって結構人気あるんでしょ? その人に勝ったんだから、もっと威張ればいいのに。私が勝ったんだったら速攻でインスタにもエックスにも上げまくっちゃうのに」
「威張るようなことじゃないわよ」
私が素っ気なく答えると、サリナは「つまんないの」と唇を尖らせた。彼女にとって、それは消費されるゴシップの一つでしかない。それでいい。私にとっても、もう終わったことだ。私のこれからの人生には微塵も関係ない。
そう。記念対局の後の私の生活は何かが劇的に変わったわけではない。
相変わらず、昼過ぎに重たい身体を起こし、サリナの気まぐれなシフト変更のリクエストに対してその時の気分で応じたり断ったりするだけの日々。
私はリビングデッド。それ以上でもそれ以下でもない。たった一回ナナに勝ったくらいで変わるもんじゃない。
あの雨の日の対局は、ただの夢の中の出来事だ。しかし、指先に残る駒の感触だけが、ふとしたはずみにやけにリアルに思い出されて、私を困惑させていた。
客の注文したタバコをレジカウンターに置くとき。商品棚にミニチョコレートの箱を並べるとき、奥の事務室でレジから持ってきた五百円玉を数えるとき、家に帰って冷蔵庫からビールのつまみに6Pチーズをつまみ取り出すとき。
あのパチリという音、すべらかな木の表面、そして、勝利を確信した瞬間の、心臓が跳ね上がるような高揚感。それらが亡霊のように私につきまとっている。
私は、心の底からいつもの平凡な日常へ戻りたいと思っている。
そういう私の意に反して、久しぶりの真剣勝負の残像たちは、日々の暮らしの目立たないところで、しきりに何かをアピールして来ていた。
今日もそうだ。私は自分の指をそっと見つめて、それを振り払うように立ち上がって、髪を直すサリナに声をかけた。
「さあて、最後のひと踏ん張り、頑張ってレジ打ちますかね」
◇
そんな日々を過ごしていたある日、今日も私はサリナとシフトに入っていた。
しかし今日のサリナはどうも様子がおかしい。レジの合間に流し目で私を見て、ニヤリと唇の端を歪める。
昼番のサリナはあと一時間で上がり、私は通称ヨルハヤと言われている夕方からのシフトだった。昼番とヨルハヤは二時間だけシフトが重なっていて、多客の時間帯に対応している。
「ありがとうございました。また来てね」
サリナが赤いランドセルを背負った小学生の女の子に向かって丁寧にお礼を言った。ちょうど近くの学習塾の終了時刻にあたるこの時間帯は、塾帰りの小学生とそのお迎えの父兄で店内が一時騒然とする。それを過ぎるとオフィスの退社時間まで束の間客足が途絶える。今のうちに、とサリナは配送品の荷出しと陳列に取り掛かろうとしていた。なんだかんだ言ってサリナはこういう細かい仕事はサボらない、そういう人間だった。一見ギャル風に見える言動でかなり損をしているんじゃないかと思うときもあった。
本人にはそんなことは言う気はない。彼女の人生は彼女が決めるものだ。サリナは今の生活に特段不満はなさそうだった。そういう私も今の生活に疑問も不満も抱いていない。まったく、抱いていない。
私はレジを離れようとするサリナを呼び止めた。
「サリナ、ちょっと」
「ん?」
「あんた、なんか私に隠してるでしょ? さっきからなんなのよ。私のこと盗み見してニヤニヤ笑ったり」
「えー、隠し事してるのはみゃーの方なんじゃない? でも、まあ、今晩楽しみにしておいてよ、ふふふふ」
また変な笑いを残してサリナは店のバックの倉庫へと消えていく。
「なんなのよ、気味悪い」
サリナの含みのある笑いの薄気味の悪さは、私がいくら考えたところでどうせ解消しない。仕方なく私も背後のタバコの陳列棚に少なくなった銘柄を補充していった。
店内が暮れかけの夏の西日で静かにオレンジ色に染まっていく。
◇
その日の夜、店の混雑も終わった二十二時すぎ。この時間になると来客は近所の人か、車で通りかかる人だけになる。今日の仕事はほぼ終わったも同然だ。あとは深夜番、通称ガチヨルのシフトの人に引き継ぐだけだ。
私はぼーっと時間が過ぎるのを待っていた。ここ三十分ほど人の出入りはまったくない。今日のガチヨルは台湾人留学生のユウティンだ。二十三時からのシフトなのであと三十分もすれば来るだろうと思っていた。
ところがユウティンはは始業時刻の一時間も前に制服を着て店内に出てきた。
「おはよう、ユウティン、早くない?」
「うん。サリナさんからちょっと早目に出てあげてってメールが来たから」
はい? なんでサリナがユウティンに早出の要請をかけるのよ。意味が分からない。
「なんかメヤリさん、今晩とっても大事な用事があるんでしょ?」
ユウティンは流暢な日本語を操る。見た目からして日本人と区別がつかないが、彼女の場合は面と向かって話をしても全然分からない。
「いや、ないけど?」
「でもサリナさんが、メヤリさんは大事な用事がある、早く帰りたいだろうから早めに行ってあげてほしい、って言ってましたよ。おかしいなあ」
彼女は「まあ、私は給料さえ貰えれば別にどっちでもいいんですけどね」と言ってモップをもって商品棚の掃除を始めた。
そこへチャイムの電子音が鳴って男性の客が自動扉の向こうから店内に入ってきた。
ユウティンの「いらっしゃいませ」という快活な声が聞こえる。きれいな日本語で、最近のコンビニで耳にする多国籍感っぽさはまったく感じられない。客はまっすぐレジに向かって歩みを進めてきた。
年の頃は私より三、四歳上だろうか。糊のきいた白いシャツに細身のスラックスを合わせた、涼しげな青年だった。コンビニの客としては、少しだけ場違いな雰囲気をまとっている。コンビニの店員をやっていると、客の年齢、身長、服装などの特徴は一瞬でインプットされる。職業病のようなものだ。
青年は店内を一瞥すると、商品棚には目もくれず、レジの私のもとへ迷いなく歩いてきた。
「あの、尾道メヤリさん、ですよね?」
静かだが、よく通る声だった。私は訝しげに彼を見上げる。記憶にヒットしない、ということはこの人は知り合いではない。名札を見られたのだろうか。
「そうですけど。何か?」
「俺、桐山蒼と言います。突然すみません。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
桐山と名乗る青年は、そう言って深々と頭を下げた。その丁寧な所作にも見覚えはない。セールスか、あるいは何かの勧誘か。
「すみませんが、私、今バイト中なので」
私は冷淡に答える。面倒ごとに巻き込まれるなんてまっぴらごめんだ。バイト中のレジで話しかけてくる男なんてロクなもんじゃないに決まっている。
「存じています。実は今日の昼にも一度伺ったのですが、こちらの時間にいらっしゃると、同僚の方にお聞きしまして」
ああ、そういうことね。今日の夕方のサリナの変な態度はこの男のせいだったのね。昼間にこの男が来て、サリナが何かを盛大に勘違いして、お節介を焼いたんだ。ユウティンへの早出要請も、私の「大事な用事」も、全部この男のことだったのか。まったく、勘違いも甚だしい。私はこんな男、見たこともない。
「実は、尾道さんにどうしてもお伝えしたいことがあって。……俺は、昔、尾道先生に、大変お世話になりました」
先生、という言葉に私の眉がぴくりと動いた。「尾道先生」が指す人物は一人しかいない。
「父を知っているんですか? 父の、知り合いなんですか?」
思わず食い気味に聞いてしまった。私にとって父の話を持ち出すのはナンパの手口としては反則だ。でも聞かずにはいられない。
「はい。昔、先生に道場で将棋を教わっていました。奨励会にいたこともあります」
奨励会。選ばれた天才だけが入会を許され、その天才の中のさらにごく一部の超天才だけが生き残ることができるプロ棋士の養成機関。あの道場から奨励会に入った人間がいたなんて、聞いたことがなかった。桐山は私の警戒心を察したように、少しだけ寂しそうに笑った。
「先日、高城女流龍将との一局、配信動画で拝見しました。素晴らしい将棋でした。特に終盤の……5八香。あれは、まさしく先生の指し手でした」
桐山という男のその言葉を聞いて、心臓が跳ねた。父の将棋を知る人間が、まだいたなんて。そして、私のあの将棋を見て、父の面影を見出した人間がいたなんて。嬉しさというより驚きと戸惑いの方が勝った。
「先生はよく言っていました。『メヤリは攻め将棋に見えるが、本当の才能は受けにある。あの粘りは天性だ』と」
桐山は力を込めて語り続ける。その眼差しは、真夏の太陽よりも真っ直ぐで、熱を帯びていた。
父が、私の将棋を才能ある受け将棋と評していたなんて、そんな風に私の将棋を見ていたなんて。
桐山の口から語られる父の姿は、私の知らない、優しくて、誇らしげな父親の顔をしていた。
「尾道さん。あなたに、出てほしい大会があります。アマチュア竜叡戦に是非出てほしいのです」
彼の口から出たのはアマチュア将棋界で最も権威のある将棋大会の名前だった。
店の外で夜蝉がジイと鳴いている。私の耳にそれは遠い雷鳴のように響いていた。
面倒だ、と切り捨てたいのに、できない。胸の奥で、消したはずの熾火が、再び小さく爆ぜるのが分かった。
私は、その微かな熱を無理やり心の奥に押し込めて、即座に、きっぱりと言い放った。
「お断りします。将棋はもうやめましたから。あの対局は気まぐれです。それに、父とはもう何年も会っていません」
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