第10話:共犯の苦味

水曜日の朝。

何かのほうが先に目覚めている。彼は天井を見上げた。6:13。


昨日の柏木の声が、まだ体内に沈んでいる──「正しさを“作る”には、捨てる勇気も要る」。


冷蔵庫を開け、反射でナノミールを取る。キャップの手前で止める。数秒、そのアルミのパウチに問いを向けてから、棚に戻した。


代わりに保存食のご飯を温め、フライパンで卵とベーコン。じゅっと音が立ち、油がはぜる。塩の匂いがキッチンに広がる。


“最適”からは遠い。けれど、口に運んだ瞬間に内側が温まった。


誰にもログされない、ささやかな逸脱。たぶん、それで十分だ。


音声ニュースが流れる。小さな見出し。

《ログスコア、資本市場にさらなる影響──適合人材の採用難、上場基準に波紋》


読み上げるように目が滑る。

「“優秀さ”より“正しさ”」「EX3.0より自己補正能力を重視」「法人評価は倫理適性に連動」。

声の向こうで、誰かが“正しさ”に点数を付けている。


気づけば、優秀さはもう評価項目ではなかった。ここから先の一日も、その続きを生きるだけだ。


午前8時32分。

人の少ない時間帯のオフィスラウンジには、空調の音と自販機の電子音だけが響いていた。


その音が、天井の隅々にまで均等に行き渡る。

まだ少し手に冷気が残っていることに気づき、指を軽くこすり合わせた。


彼は、ひと呼吸置いてから、自販機の方へ歩き出した。

自販機の壁面に埋め込まれたAI連動型のモニターが、彼のログを一瞬でスキャンする。


直近の睡眠データ、昨夜の夕食の摂取内容、今朝の体調──

すべてを“考慮”した上で、画面にはひとつのラベルが浮かび上がった。


《推奨ドリンク:α-Clear(無糖・高電解質)》

──“意思決定の集中力を高めます”


あらかじめ“最適化”された選択肢。

彼は、ほんの1秒だけ画面を見つめた。


右手で缶コーヒーのStrawsを選ぶ──これで14回目だ。

缶が落ちる音と、続けざまに──もう一つ、同じ音がした。


(……?)

驚いて音の方向を探る。


どうやら、それは左からだった。彼は少し首を左に向けて視線をやる。


視界の端に、髪の光沢と柔らかい色彩が入り込む。

それがゆっくりと輪郭を結び、次の瞬間、吸い込まれるように目が合った。


その瞬間、視線は思わず背をなぞった。

髪の流れ、肩の角度、缶を持つ指先。

触れもしないはずの輪郭が、眼差しの中で形を持ちはじめる。


──牙が、立つ。

だが、彼女の瞳の透明さがそれを鎮めた。


「...おはようございます」

アサノの声だった。

同じくStrawsの缶を手にして。


彼の視線は、黙った。

彼女の指先が、ほんの少しだけStrawsの缶を強く握った。

──偶然。そう心で打ち消して。


「…おはようございます」

一拍。間を置いて言葉を返す。こんな時間に会うのは初めてだった。


「あの……それ、Strawsですよね?」

彼女は少しだけ眉を上げる。


「はい。strawsです。」

「珍しいですね。お好きなんですか?」

「...たまに飲みます。好きかはわからないです」

彼女は缶を軽く持ち上げた。

「でも今日は、これが良くて」

彼も、手にした缶を掲げて、少しだけ口角を上げた。

「Strawsって、絶対“おすすめ”されないんですよね。

 この自販機で13回も買ってるのに、1度も提案されたことがないです」

「13回も...それより、知ってたんですね」

「なんとなく、気になって。最初は些細な反抗のつもりだったんですけど...」


彼女は少し口元が緩んだ様子で彼に言った。それは普段の仕事では見せない、温度のある声だった。


「やっぱり、変です。アキさん。

 提案されたドリンクを13回も断るなんて」

彼は少し照れたように言う。


「...やっぱりですか?」

彼女は目の奥を覗き込むような視線で彼に言った。


「ふふ..。倫理違反です」

言葉は軽やか。ただ、声の温度だけが、意図せず緩んでいた。彼はそれに気づいていない。


──その瞬間、彼の内側でも、また1つの大きな揺れ。

けれど、“違反”という一言が、鋭く抑え込む。

その意識は、すっと剥がれ落ちていった。


仕事という枷がまだつけられていない彼女の表情。

それは、ただ美しかった。


少女のような無邪気さとも、大人の女性としての余裕さとも、どちらにも解釈ができた。

彼は、初めて見た彼女の表情を、忘れることはないだろう。


 「たしかに...。

  でも、アサノさんが持ってるのを見て、ちょっと安心しました。共犯ですね」

その一言に、彼女の唇がかすかに笑んだ。


「...ですね」


言葉のあと、彼はStrawsの缶を開けた。そして数秒置いて、彼女もStrawsの缶を開ける。

そのズレは、まるで秘密の合図のようだ。


「アサノさんは朝が早いんですね。冴えてるんですか?」

彼が軽く聞くと、彼女は小さく首をかしげた。

「……今日はなんとなく。

 でも、今日は気分は悪くないですよ」

それだけ言うと、彼女は軽く会釈して歩き出す。

彼はその背を見送りながら、指先に残るStrawsの冷たさを感じた。


一瞬だけ、胸の奥で“無意識”が立ちかけた。

だが、彼女の美しさがそれを黙らせた。


足音が遠ざかる。

背中に、わずかに視線の熱を感じた気がした。

彼女は振り返りかけて──やめた。

──振り返ることは、良くないことのように思えた。


「倫理違反、か……」


口の中に残った苦味が、思ったよりも甘く感じられる。

気づけば、ひとりで笑っていた。

それはたしかに“最適”ではなかったけれど──

彼にとっては、“最善”に近い朝だった。


オフィスでの業務は驚くほどスムーズに進んだ。昨日からやけに冴えている。


ふとデスク右前のカトウに視線をやる。カトウの目は熱を宿していた。


どうやらカトウからは"仮"が取れたらしい。

いつもよりリズムが早い。余白に自信が滲んでいた


午後、資料を読み返す。

EX4.0のコンペは、明日の会議で選定される。


“倫理設計”という概念は、未だ掴みきれないままだった。


だが──彼の中で、何か引っかかるものが増えていた。

たとえば、カトウの端末のカーソルの揺れ。

午後は午前よりも入力に迷い、タブを何度も往復する指の動きをしている。

小鳥遊が、それに気づいていながら何も言わない仕草。他人を見つめているようで、見透かされることを避けている視線。


人の“正しさ”は、言い切りではなく、その躊躇に滲む。

──観測する。今日の収穫は、その小さなひっかかりだけ。


信号待ちの列に、彼は静かに並んでいた。

交差点。夕陽は斜めに差し、舗装の地面をオレンジ色に染めていた。


信号が変わり、群れは一斉に歩き出す。

右前方にいたスーツの男性が、瞬間群れの動きから遅れた。すると、焦りからかバランスを崩した。


少し足元を滑らせ、隣にいた女性の肩に、触れるか触れないか──ぎりぎりの距離。

次の瞬間だった。

 「ピッ──」

短く、鋭い警告音が鳴った。

女性の手首の端末が赤く点滅し、ARスクリーンが浮かび上がる。


 【逸脱係数:0.73|感情フレア値:0.12】

 【推奨対応:後退/無視/通報(任意)】


女性は反射的に一歩、後ずさる。

何も言わず、何も問いたださず。


ただ、表示された“選択肢”の中で、最も穏便な対応を選んだ。

男性は謝る間もなく、少し戸惑った表情を浮かべた。

だが──その“表情”が、許されているのかどうかも、もはや誰にも分からない。


彼の端末は何も反応しない。

だが、彼の中で、何かが明確に反応していた。


足がもつれただけ。悪意も意図もない。

けれど「0.73」という表示が出た瞬間、出来事は“逸脱”として固定される。

倫理はもう、問いではなく、計測結果だった。


男性はそのまま去っていった。

何もなかったように。だが、記録は残る。

──すべて“記録済み”として。

“記録済み”は、安堵ではない。反論不能という意味だ。


彼は、彼らが群れの中に消えていくのを、じっと見届けた。

そして、自分の手首にある同型の端末を一瞥する。


記録されるのは、行動ではなく“生理反応”のはずだ。


それは誰にも制御できない。

そして誰にも、抗弁できない。

「倫理違反」は、もはや行為の問題ではない。


帰宅後、彼は無音のまま壁面ディスプレイをつけた。

自動再生されていた政府広報のアーカイブが、そのままニュース映像に切り替わる。


──《速報:企業ログスコア要件 引き上げ》

青と白のコントラストが強いビジュアル。

淡々としたナレーションが流れる。


「倫理基盤の透明性向上の一環として、法人企業に対してログ制度が再設計されました」

スライドが表示される。


《上場維持要件(2045年5月1日より適用)》

プライム市場:社員 1,850点以上 20名以上 在籍

スタンダード市場:社員 1,800点以上 10名以上 在籍

グロース市場:社員 1,800点以上 3名以上

継続要件:取締役会基準スコア:2,000点以上(全市場共通)


「非達成企業は段階的な非上場措置、または課税強化対象とされます。

なお、税制は“倫理貢献度”に応じた逆累進構造を維持」


画面下に小さくスクロールされる文言:

「※税率下限:個人スコア2,300点以上保持者在籍企業のみ適用可能(法人)」


都市景の映像に切り替わる。倫理社会の中枢機関。新宿倫理特区。都庁前の映像だった。

そこから、サラリーマンの列、ビルの看板、撤去される企業ロゴ。


「新要件適用により、上場停止企業は、全市場の14.2%に及ぶ見込みです」

彼は小さく息を呑んだ。


──頭の中に数字が浮かぶ。

読み上げられた基準は、多くの人間が一生追いかけても届かない。


一人分のスコアが、会社の上場を繋ぎ止める。

画面は静かに「データ基準達成企業一覧」へと切り替わっていく。


彼は表示を見ないまま、ディスプレイの電源を落とした。

端末は沈黙したまま。

代わりに、彼の内側だけが反応した。


倫理とは何か。

正しさとは何か。

それはもはや、個人の選択ではなかった。

定義するものが、定義されるものを外へ押し出す。


正しさを作るとは、何かを捨てることだ。

彼の中で、何かがゆっくりと──変わっていた。

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