第9話:魚と骨
火曜日の朝。
タスクは昨日の時点で全て決まっている。出社すれば自動で同期される。
けれど彼は、目覚めてすぐ端末を開いた。
“確認”というより、“確かめ直し”に近かった。
柏木との予定──「新プロジェクトについて」
書かれていたのはそれだけ。
だが、昨日とまったく同じその文言が、なぜか少し違って見えた。
人は、選ばれたあとにも確かめたくなる。
本当に選ばれたのか、あるいは──
もう誰にも見られていないのではないかと。
通勤路の途中、コンビニ壁面のARディスプレイが視界を裂いた。
画面の中で、アイドルが笑っていた。
「Singularity⭐︎Smile」が上半期の再生回数1位──再生数、100億回超。
キャスターは興奮を押し殺し、解説者は慣れたように頷く。
「いまやユナは、“国境なき感情インフラ”です」
アイドルの笑顔がアップになる。
光が跳ねる。カメラの向こう側まで、熱が滲み出してくるようだった。
瞬間、街の空気が変わった気がした。
理屈など通用しない。
見た瞬間、周りを笑顔にさせ、鼓動が速くなる。それは才能というより...
触れた瞬間に、こちらの意志が沈黙させられる。甘美な暴力のようだ。
ふと、画面下部のニュースティッカーの小さなヘッドラインに目線が下がった。
「ドバイ、ログ格差解消進まず 反EX運動再燃の兆し」
「EU、EX4.0構想を発表。加盟国数は9カ国へ」
視界の端にノイズのように映る文字列。それらに一瞥し、ジャケットの背を伸ばした。
出勤途中の人々たちが端末で何かを流し見している。同じ速度で歩いている。誰も表情は変えない。ただ、表示された情報だけが濁流のように流れていた。
彼はその横を通り抜けながら、一人歩幅を広げる。
オフィスに着くと、手に持っていたstrawsの缶をデスクの上に置いた。
以前、彼女が持っていた缶コーヒー。
(今日は、濃い目だな...)
一口飲むと、確かな苦味が舌に残る。
けれど、それが妙に心地よかった。味が良かったからではない。“選ばされた”ものではなく、“選んだ”ものの味だったからだ。
ただ、選んだのは彼女の影響なのかどうか──
考える前に、通知が届いた。
柏木からだった。
『本日13:00の資料参照を送付します』
添付ファイルの表紙には、こうあった。
《GAIH Ethics Architecture|Phase-EX4.0》
硬質なフォント、整列された罫線。見た瞬間、背筋がわずかに引き締まる。
災害対応、金融アルゴリズム、教育ログ──
表層には「公共性」の単語が並ぶが、“人間がどう定義されるか”には、一行も触れていなかった。
彼は頬杖をついたまま、しばらくその文言を眺めていた。
「とんでもないな……」
誰に聞かせるわけでもない声だった。
ファイルを閉じたあとの空気が、わずかに重くなった気がした。
午前中、オフィスの空気は静かだった。
けれど彼の頭の中は、やけに冴えていた。
思考が滑らかに転がり、タスクの優先順位や構成の組み換えが、まるであらかじめ設計されていたかのように整っていく。
(...なんか調子いい?)
心の中で呟く。違和感はあるが不快ではなかった。
10時すぎ、カトウが資料を持ってやってきた。
「アキさん、前に言われたとこ、直してみました。…ちょっと見てもらってもいいですか?」
ファイル名は、“最終案_0328”。ようやく“仮”が取れていた。
彼は無言で数ページめくり、要点だけを確認した。
説明過多だったグラフは削られ、必要な要素が短く配置されていた。
「……いいんじゃないか。整ってるよ」
カトウの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
彼は短く頭を下げ、「ありがとうございます」とだけ言って席に戻った。
やり取りの直後、小鳥遊がモニター越しにちらっと視線を寄越す。
「あの顔……“ちゃんと評価された”って顔だな」
「……そう見える?」
「ああ。だいたい、うまくいったときの人間のリズムだな」
「リズム...?」
「そ。リズム。」
マグカップのコーヒーを啜りながら、何でもない調子で言う。
彼は、ふと自分のキーボードの打鍵音を聞いた。いつもより、少しだけ、リズムが速い気がした。
13:00。会議室の空気はどこか粘ついていた。
冷房の静音モードが微かに唸り、ARディスプレイの光だけが会議室の机を染める。
柏木はディスプレイ越しで座っていた。スーツの皺ひとつなく、視線は、光の屈折すら測っているように見えた。
「──例の件、資料を拝見したよ。順調にすすんでいるね」
柏木が口火を切った。声の調律も人工的なほど静かだった。彼は反射的に姿勢を正す。
「LOG-OMXの件ですね。セキュリティ側の整備は進んでいますが、UI/UX側と噛み合っていません。部署間の連携にもややラグがあります──」
柏木は頷くでもなく、微かに視線だけを動かした。
「さすがだね。君は、構造の歪みをよく捉えている」
柏木の目が、意味深に細められた。
「ただ今回のフェーズ3は、改善点のとりまとめまでしてくれれば問題ない。続けることに意味のあるプロジェクトだからね。」
柏木は一呼吸置いて、ディスプレイをスワイプした。新しいプロジェクトの資料が空中に広がる。
「──今回のメインは、これだ」
空間に浮かび上がったのは、新しいプロジェクト資料。
表紙に書かれていたのは、
《GAIH Ethics Architecture|Phase-EX4.0》
今朝も見た表紙。見るたびに背筋に氷のような緊張が走る。
災害時意思決定プロトコル、信用流動性最適化アルゴリズム、情動準拠型教育ログ、予後予測ベースのナノ医療オーケストレーション、自己修復型都市同期制御、共感連鎖シミュレーション、感性フィードバック型行政合意フレーム、意思偏差式ブロックチェーン、感情スコア連動型インフラ稼働制御、技能再配置による都市適正マッチング、行動信頼スコア経済、個別最適化された再生医療分配AI、関係性再構築サーバント設計、そして共通意識アーカイブ最適記録プロトコル──
だが、そのどこにも「個人」という単語は存在しなかった。
倫理は、もはや原則ではない。配線だった。
──どれも正しい。
──どれも、論理としては整っている。
だが、そのどれもに、“人間”がいなかった。
この設計群が何を目指し、どこに着地しようとしているのか、まだ全く理解できなかった。
ただ、これは倫理じゃない。
──これは、“倫理という名の順路”だ。
「GAIHの倫理基盤設計」
柏木は静かにそう言った。
ARウィンドウが一枚だけ開かれ、そこには「EX4.0設計支援・選定要請」の文字列。
詳細は最小限。要件らしきものはなかった。
「記述はあるが、定義はない。
──つまりこれは、選別だ」
彼の声には、わずかな苛立ちすら含まれていた。
それでも淡々と続ける。
「対象は広い。
災害判断、信用アルゴリズム、教育ログ、医療データ、都市同期、意思決定支援……
倫理を埋め込むだけじゃない。“調律”するプロジェクトだよ」
柏木はアキを一瞥したあと、データを閉じた。
そして、少しの間を置いて言う。
「半年前のLOG-BX──
フェーズ2の終盤で、仕様と運用の前提が乖離した。
UX設計と監査ログが食い違い、全体の整合性が崩れた。
設計責任は明確でなかった。プロマネも黙った。誰も修正に入れなかった」
椅子に背を預け、指先を組みながら続ける。
「君だけは、動いた。
正式なタスクじゃない。誰に言われたわけでもない。
“勝手に動いた”はずだった」
「周囲からの反発や非難もあったはずだ」
「……が、結果的に、
君の非公式フローは“暫定手順”になり、三週間後には正式化された」
「それは逸脱だ。けれど、結果として適応に至った。
この両立は、ほとんどの人間にとっては矛盾だ。だが、君はそれを一度通した」
柏木は立ち上がり、出口に向かいながら言葉を続ける。
「そういう人間が、このプロジェクトに必要だと判断した。君がどう受け取るかは、自由だ」
ドアの前で、わずかに振り返った。
「……正しさを“守る”のは、簡単だ。
だが、正しさを"作る"には、捨てる勇気も要るものだ。
提案...。楽しみにしているよ」
そして、音もなくドアが閉まった。
執務室に戻ると、空気の層が微かに厚かった。
柏木との対話を経た身体が、そのわずかな粘度を正確に感じ取っていた。
カトウが端末を睨みながら、小さく唇を動かしている。
昼に出したレポートの手直しか。もしくは、“提出済み”という名の未完成品を、形だけ整えているのかもしれない。
カトウのキーボードの音が妙に軽く響く。
小鳥遊がその隣で、静かに笑った。
「……それ、上っ面の数値じゃバレるぞ」
相手を見ず、画面越しに刺すような助言。
彼はそれを横目に着席する。
椅子の背に体を預けると、昼には気づかなかった背もたれの歪みが、なぜか今日は気になった。
端末に関口部長からの通知が入っていた。
──「おつかれさまです。GAIHの話はログで確認しました。 木曜、技術部とのMTG設定済。参加メンバーの選定は監査部に依頼済。 適正配置はログ解析にて行う予定です」
とんとん拍子にコトが進む。関口はこういうタイミングでの仕事は誰よりも早かった。
(監査部...ログ...)
画面の通知は、ただ整っていた。柏木との会話もあった。文脈も、接点も──ある。
けれど、それでも「ログがすべて」なのだとしたら。
自分の“関与”が、“最適化の外側”だったとしたら。
それは、拒絶ではない。ただ“記録されなかった”というだけ。
責任者の判断でもなく、能力でもなく、
ただ無言の数式が「別の誰か」を選んだのだとしたら──
彼は、ほんの一瞬、息を忘れた。
選ばれないことは、否定ではない。ただ、最初から“なかった”ということだ。
自分が、ログの中に“存在しない側”になる。その想像だけが、静かに冷たかった。
そのとき──
執務室の奥、彼女の背がすべった。彼は自然と認識してしまっていた。
緩く束ねられた髪。淡いベージュのトップス。
歩幅も、肩の揺れも、均一。
まるで静けさが形をとって、廊下を流れていく。
彼女は業務用の輪郭を纏っていた──けれど、その下に潜む生身の温度が、わずかに滲んでいるような気がした。
背中には一切の感情も視線も残さない。そこを“通り過ぎる”ための身体。
ただ、彼女の歩幅が均一に続くはずの中で、一拍だけリズムが乱れた。
ほんのわずか。けれど、その軋みを彼は掬い取った。
軋みが布地を揺らし、腰骨の上でわずかに波打つ。布と皮膚の間に入り込んだ空気が、呼吸ごとに震え、布越しの肌が応えているように見えた
その小さな振動が、衣服を“透かし”、素肌の熱を外に漏らしていたのだ。
彼の視線は倫理の膜をすり抜け、皮膚の奥に入り込んでいた。
──それは観察ではなかった。
それを自覚した途端、胸の奥で何かが膨らむ。
彼は顔を上げずに、画面に戻った。
その後しばらくのあいだ、ファイルは白紙のままだった。
指先だけが、触れもしない肌の温度を、残像ごと撫でていた。
帰宅後、彼は端末を充電台に置き、部屋着に着替えた。
LiMEのリンクがまだ残っていた。
例の週末に開いた、“あの”リンクだ。何度見ても、画面は静止したまま。
何も変わらない──と思わせて、何も変わっていない。受信するだけでは動かないかもしれない。
夜も23:00をすぎた頃、端末から通話通知が鳴った。イズミからだ。
宛名を見た瞬間、喉の奥に乾いた熱が走った。5秒の間を開けて通話に出る。理由はない。
「──あ、アキくん? いま大丈夫?」
「はい。少しだけなら...」
「よかった〜。ねえ、アキくんは魚派?肉派?」
「あ、仕事の話ですか?」
「アキくんっておもしろいね(笑)11時に仕事の話するわけないじゃ〜ん」
「そうですか...。天然かDフードかにもよりますね」
「そりゃ、天然だよ」
「だったら魚ですね。天然の魚は珍しいので」
「え!私も魚派!皮まで食べる?それともほぐす?」
「……ほぐすよりかは、そのままですかね」
「うそ〜。結構そこは男の子って感じだ」
「イズミさんは、ほぐすんですか?」
「そうだね。骨も取って。ほぐして、じっくり食べたいかも」
「なるほど...ただ、一口の食べる量を調整すれば、じっくり食べられますよ」
「私、口が小さいからすぐスタックするのよ(笑)」
「……じゃあ、じっくり食べるしかないですね」
「でも、ガブっといくのも悪くないよね!たまに、骨がひっかかるけど」
「その時は、唾を飲み込むといいらしいですよ」
「……へえ。じゃあ、今度やり方教えてくれる?」
「...はい。30秒あれば誰でもできます」
「ちょっと...さりげなく上から?一応、私も取引先だよ」
「...まぁ。今は仕事じゃないので。気にしてません」
「ふーん…まあ、そうだけど」
「それに、“取引先だから気を遣う”って、イズミさんらしくないと思って」
「っ...アキくんって私の何を知ってるの?」
「“自分のことを話さない人”──くらいなら」
「……なにそれ(笑)」
「でも今日、“口が小さい”って初めて聞けました」
「……」
「それは、ちょっと嬉しかったです」
「……ちょっと、ずるいよね」
「いえ、イズミさんが話してくれたからですよ」
「そう読み取っただけでしょ」
「言葉にしたからですよ」
「……ねぇ、なんか“慣れ”ない?」
「そうですか?...たしかに、普段の仕事とは少し違いますね...」
「……普段しないこと。私にはするの?」
「たぶん、イズミさんは大丈夫かなと思いました」
「……なんで」
「こうして、電話かけてくれましたし」
「……それは深読み」
「たしかに。でも、どっちにしろかけてくれたのは事実なので」
「……ふうん、ロジックで返すんだね」
「いえ。ただ、事実だけ拾ってるだけです」
「……なるほど。そういう返し、得意なんだ?」
「苦手です。でも、“ビジネスの場”では必要なので」
「……じゃあ今も“ビジネスの場”ってこと?」
「それは、イズミさんのご判断次第です」
「──そう。やっぱり仕事じゃん。“仕事じゃない”と、こういう話し方はしない?」
「……どうでしょう。イズミさんの話し方が変われば、僕も変わるかもしれません」
「……あのね、アキくん」
「はい」
「私、コンサルやってて、それなりに修羅場もくぐってきたの」
「知ってます。1年間プロジェクトにご一緒しているので」
「……じゃあ、わかるよね?」
「なにをですか」
「私が“何も考えてない"わけじゃないってこと」
「……はい、もちろん」
「……だったら、軽く流されると、ちょっとムキになるよ」
「すみません。それでも、かけてきた理由までは訊かないようにしてます」
「どうして?」
「訊いたら、イズミさんのペースになるからです」
「……」
「それは、ちょっと怖いので」
「……ふふっ、正直だね」
「はい。怖いです。でも──」
「でも?」
「いま、少しだけ余裕があります」
「……どういうこと?」
「……ちょっと話が詰まりました?喉、乾いてませんか?」
「……そうやって、話変えないでもらえる?」
「変えてましたか?」
「変えてたよ。わざと。今の“営業”だったらNGなやつ」
「はは...勉強になります」
「小手先の会話はなんて、すぐバレるよ」
「はい。でも、これはプライベートの電話なので」
「そこでそれ持ってくる?」
「ええ。困っている人は放っておけない性分で」
「……あっそ。じゃあ、どうするの?」
「おすすめは、strawsですね。缶コーヒーです」
「コーヒーね...私苦いのはイヤ」
「たしかに。少し苦いかもしれないです...。でも、僕のおすすめです」
「……ふーん、味は、美味しいの?」
「クセはあります。でも慣れると結構いけます」
「……うーん」
「...」
「……わかった。飲んでみる。今度ね」
「はい。また感想教えてください」
「……まずかったらクレーム入れるから」
「その時は責任取りますね」
「ふふっ、そこは即答なんだ?」
「おすすめしたのは、僕なので」
「じゃあ、美味しかったら──私のおすすめ、紹介してあげる」
「それは……検討させてください」
「……なにそれ、ズルい(笑)」
「ほんと、今日、調子狂うなぁ。アキくん、いつもと違うよ」
「そうですか?」
「いつもは、もうちょいビジネスの顔、崩さないじゃん」
「崩した覚えはないですけど...」
「今のアキくんって、すごく静かに懐に入ってくるよね」
「そうですか?」
「うん。今なら、聞かれたらなんでも答えちゃいそう。そういう空気」
「イズミさんの声が、そうさせたのかもしれないですね」
「ほら。やっぱり"慣れてる"」
「すみません。でも、本当のことです」
「もう、やめて。そういうの...」
「はい。もう12時までなので、今日はこのあたりで」
「え」
「また、よろしくお願いします」
「うん...えーと..また」
「はい。失礼します」
「……っ」
──プツン、と。
通話の終わる音だけが、耳に焼きついた。
その“音のない支配”が、彼女の中にずっと残っていた。
そして──
飲まされてもいないはずの苦味が、舌の奥で、なぜか離れなかった。
思い返すたびに、喉が熱を帯びて震えた。
彼の次の「おすすめ」が、どんな味か──
今夜だけは、考えてもいいと思った。
通話が終わり、彼は数秒そのまま画面を見つめ、端末をそっと伏せた。
自分じゃない何かが話していたような気はした。
ただ、それは不愉快ではなかった。むしろ血液が身体中を巡って、心臓を熱くさせた。
けれど──それでも、あの時の彼女との会話で感じた熱さとはベクトルが違っていた。
…彼はベッドに身を預けた。
都市の光が、遮光ブラインドの隙間から静かに侵入している。
strawsの缶が、デスクの上で二本並んでいた。
端末は沈黙している。
LiMEのリンクもすべて“処理済み”の顔をしていた。
整った日常、社会と個人、心と体、あらゆるモノゴトに倫理の配線が張り巡らされている。
社会のすべてが、静かに前に進んでいた。明日も同じく回っていくだろう。
では──
**なぜ、新たな“倫理基盤設計”が必要なのか?**
何かが“足りていない”のか。
それとも、“足りすぎてしまった”からなのか。
誰かが決めた“次の段階”。
けれど、そのどこにも「理由」は書かれていなかった。
それは、“記録されていない問い”だった。
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