第2話:LPS28
朝、端末からニュース音声が流れていた。
スイッチを入れた覚えはない。
窓辺の薄い光と同じくらい、そこにあるのが当たり前だった。
朝のニュース音声は、昨日と同じトーンで、別の非日常を告げていた。
「新制度“LPS28”の運用ガイドラインが、今週中にも閣議決定される見通しです。
“LPS28”は、胎児のログスコアが社会許容下限値を下回った場合、妊娠28週未満までの中絶を無償で支援する制度であり、従来の“22週制限”を大幅に緩和したかたちとなります。」
「本制度では、“高度適性判断AI”によって将来的な教育・就労・社会統合の困難性が予測された胎児について、
“保護的選別”を認めることで、母親、家族、社会の損耗を最小限に抑えることが狙いです。」
「保護的選別」
口の中のナノミールを、ゆっくり飲み込んだ。
誰を、何から、保護するつもりなのか。
誰が、誰の代わりに、損耗を決めるのか。
彼は音声を止めなかった。
止めないことで、何かがマシになるわけじゃない。
でも、止めたらもっと悪くなるような気がした。
彼は気分転換にカーテンを開けた。ただ空は曇り。
中途半端なまま滞留する空に、自分の“感情”と重なる。
ベッドの端に残る体温は、もうほとんど消えていた。
渋谷駅前。今日の午前中はクライアントとのMTG。
こんな時代でも、まだ足を運ばないと進まないこともある。
朝の雑踏に紛れるように、ビル壁面の巨大なディスプレイが点灯した。
画面に映るのは、笑顔のアイドル。このアイドルを見ない日はないくらい、有名ではあるらしい。
白いシャツが風に揺れる。
陽だまりの中で無垢なまなざしをこちらへ向けている。
その笑顔は、ビルのエッジに切り取られ、わずかに歪んで見えた。
「今日も、笑顔でログ整備。」
ナレーションが空に響くように流れ、周囲の人々の歩調がわずかに整う。
それは、誰かが誰かを見ているという構造の中でだけ成立する、無言の秩序だった。
「提供:通信省/ログ均衡推進局」
小さく表示された文字は、当たり前のものとして風景に溶け込んでいた。
だが彼は、そのディスプレイを一瞥することもなく足を進める。
周囲が”視線を合わせてスコアを得る”構造に乗る中で、彼だけがその文脈から外れた。
足音のテンポは変わらず、呼吸も乱れないまま。
昼過ぎ、出先からの帰社途中によく立ち寄る喫茶店。
コーヒーは、わずかに焦げていた。焙煎の誤差か...。
湯気は壁に吸われるように、静かに薄れていった。
「……まあ、これしかないしな」
この店には選択肢がない。ただ立地がいい。それだけで、足が向く。
店の前の通りは濡れている。雨はもうやんでいたが。
ガラス越し、小さな子どもと母親が並んで立っていた。
何を見ていたのかはわからない。
“立ち止まる理由のなさ”が、妙に印象に残った。
水たまりを避けずに踏み抜く音が、路面に響いた。
4秒後、二人は歩き出した。
その間、彼はコーヒーを見ていた。
湯気が、ほんの少しだけ、形を崩していた。
夕方、オフィスは、変わらず整っていた。
余計な音も、誰かの笑い声もない。ただ、光だけが順調だった。
席に戻ると、小鳥遊がデスクに腰を下ろしていた。
「アキ、俺、名前……ちょっと変えたんだよね」
「は?」
「“たかなし”から“しょう”にした。ログスコア高かったし、申請通った。」
「いや、名字の方かよ。紛らわしいな」
「名字の響きは、アルゴリズムの親和度にも影響するらしいし...。てか、お前がいうか、それ」
「…珍しいな。そんなことするタイプじゃなかったのに」
「まあな。でも、なんか……今のが、しっくりくる感じがしてさ」
「まぁ...名前なんて記号だよな」
「記号か。かっこいいじゃん」
社内ツールの権限移行やログ申請の手間を考えると、名前を変えるのは非効率だ。
けれど、彼はなぜか「それが普通だ」という表情をしていた。
会話が止まっても、誰も続きを求めない。それがこの職場の自然だった。
端末がひとつ、静かに点滅した。
「あ、ログまだ出してなかったわ。締切何日だっけ?」
「……三十日だな」
「ってことは、まだ大丈夫か」
「うん。あと10日くらい」
それだけ言って、小鳥遊はイヤホンを差し込んだ。
“戻るふり”が、もう“仕事”と同義になっていた。
椅子の軋みだけが、業務の証拠のように残った。
夜、ベランダから見た街は、今日も静かだった。
空気は冷えていた。風はなかった。
遠くに光るタワーの点滅が、一定のリズムで進んでいた。
部屋に戻り、音声をつける。
音声は朝と同じトーン、口調だった。
それだけで、なぜか心拍数がわずかに下がった。
「政府与党は本日、いわゆる“EX4.0構想”の予算化を視野に──」
「構想は『倫理的自律と社会最適化』を主眼とし──」
「一部団体からは“過剰な規範強化”との懸念も──」
アナウンサーは、どこか安心しているような声音だった
だが、「倫理的自律」──耳障りの良いその言葉が、彼の胸をほんの少し詰まらせた。
“倫理的自律”。
それは、自分で自分を監視しろ、という意味だろうか。
あるいは、誰かが“正しさ”を決める必要すらない。
それほど、人間は同じ形に削られるということなのか──
わからなかった。
だだ、胸の奥が、一拍遅れて脈打った。
テレビはちょうど街頭インタビューに切り替わる。
「ちゃんとすれば、何も困らないっすよね」
それを聞いて音声を切った。
その若者の声が、どこか“自分の声”に聞こえたことに、嫌悪を抱く前に次の動作へ移った。
棚を漁る。古びた箱の中。
目当ては、以前使っていたスマホだった。
「…何年ぶりだよ」
今では登録不可の型番。傷ついた液晶。
手に取ると、“重さ”が手のひらにのしかかった。
それは正確に、記憶と一致していた。
画面はつかない。それでも、今日はもう充分だった。
何かを起動する必要はなかった。
ただ“リアリティ”に触れたかった。それだけだった。
スマホを静かにテーブルに置く。
LiMEの話──都市伝説、観測されているという噂。
ノイズのように聞こえてきたそれらが、なぜかこの古いスマホと繋がっている気がした。
しかし、思考はそこで止まった。
液晶の黒い鏡に、自分の顔がぼんやり揺れていた。
わずかに首を振り、そのままベッドへ。
目を閉じる前、彼は独り言のように呟いた。
「……明日も、こんな感じで続くんだろうな」
その“続く”という確信だけが、奇妙に温かかった。
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