境界に咲くー Entropy Resistant Fragments
青木春
第1話:新宿倫理特区
机の上に、場違いなものが置かれていた。
つや消しの黒い筐体。角の擦れた、掌より少し大きな旧型端末。
現行規格では接続できない回線を、この旧式はまだ掴めた。
液晶の隅には、時代遅れの傷が走っている。
電源は、とうに入っていた。
微かに点滅するインジケーターが、規則正しく呼吸をしているように見えた。
男は、その画面を見つめたまま動かない。
机のランプに照らされ、瞳の奥だけが小さく揺れていた。
画面の中で、ひとつの通知が脈を打っている。
差出人も、本文も、表示されない。
ただ、そこに「ある」という事実だけが、確かに彼の視界を占めていた。
指先が画面の縁をなぞる。呼吸がひとつ、深く沈む。
——数日前。まだ彼は、この端末の存在すら忘れていた。
窓辺の光が網膜の奥を撫でる。
時刻は6時16分。夢は思い出せない。
足を床に下ろすと、ぬるい温度が足裏に広がった。
スリッパを手に取ろうとして、やめる。そこには、きちんと揃えられた靴下。
自分でやった記憶は、やはりなかった。
それでも、驚くほど自然に納得していた。
何も考えずに納得できることが、この世界では“正常”なのだと、自分のどこかが決めている。
朝食は要らなかった。
冷蔵庫からナノミールを1本取り出す。指先が一瞬だけ、冷たさを覚える。
──冷たさ。それだけは、確かなこと。
音声ニュースが続けて流れる。毎朝の“ルーチン”。
朝、端末から一定のリズムで流れ続ける整った声。それが均質に、遠くを語る。
「つづいては、昨日のマーケット情報です。
YYYログETF、本日も前日比+3.9%。連日高値更新となり、
構成比率に”多幸性焦燥”と”断絶性快感”が寄与しています
こちらはログ投資の専門家の"八重橋さん"に解説いただきます」
専門家はこう語る。
「感情市場は成熟期を迎えつつありますが、YYYは依然として魅力的な選択肢です。
安定した熱量、分散された心理資産──今後も安全で健全な投資先と見られています」
「また、政府もログ投資を“次世代の国民経済基盤”として積極的に推進しています。
実際、公的年金の一部も、YYYに組み込まれている。
今後はますます、マーケットはログ投資を中心に動いていくでしょうね」
きのうの気持ちは、きょうの誰かの投資先になる。感情は、もはや主観ではない。
“市場に熱をもたらす財”として、感情は分解され、圧縮され、
端末側で一次処理されたあと、SDN制御のクラウドを経由して取引所に並ぶ。
並んだ瞬間、感情は所有権を失い、ただの指数になる。
昨日の誰かの絶望が、今日の誰かの懐を温める。
それはおかしな話だけれど、誰もそれをおかしいとは言わない。思わない。
外に出ると、角のカフェからパンの匂い。
──“あったはずの風景”が、ゆるく心を叩いた。
パン屋の朝は少し遅い。
今は「準備中」の札が、きれいに“拒絶”の意味を掲げている。
昔はもっと早かった。小麦がまだ感情の象徴だったころの話だ。
パンはほとんど食べなくなった。
だがその匂いは、ずっと残っていた。どこかに。
「なぜか」と問いかけようとして、やめる。必要な問いではないと、身体が判断した。
駅までは、誰にも追いつかず、誰にも追い越されない速度で歩く。
歩幅も思考も、ほとんど変化がなかった。
ホームに着くと、空間はほとんど無音だった。
そのなかに、いくつかの「異音」が滑り込んできた。
「この間やっとLiMEでリンクきたんだよ」
「“あなたは観測されています”ってメッセージ。怖すぎ」
「マジ芽じゃん。あの子も推薦きたって言ってたし」
“LiME”──昔、そんな名前のアプリが流行った気がする。
けれど、その記憶もどこか曖昧だった。もしかすると、植え込まれたノイズかもしれない。
ホーム上の雑談量と乗車率はだいたい比例する。
耳で拾った断片を“混雑予測”に使うのが癖になっていた。
「今日は混むな…」
誰にも聞こえない声で、自分にだけ届く言葉を投げる。
気づけば、列車が入ってきていた。
人々は順序を争わず、静かに乗り込む。座るもの、立つもの。すべてが、自然。
それが、むしろ不自然だった。
彼は立っていた。吊革も持たず、ただ窓の向こうを眺めていた。
雲に塗りつぶされた空。ビルの輪郭。
誰もが目的地に向かうなかで、どこかに向かわない感覚。
向かいの男が、端末のをデジタル仕様の時刻を見ている。何度も。
見たところで、時間は進むだけなのに。
でも──彼はそれを「わかる」と思っていた。進むしかないことが、時に一番恐ろしい。
列車が新宿駅に滑り込む。予定よりも早く到着した。
到着の瞬間、車内とホームのログ同期が切り替わる。
光のパターンが床を走り、AI案内板が滞留時間の最適経路を再計算する。
ドアが開くと同時に、ビジネスマンたちの群れが一斉に動き出す。
流れるような所作。音も声もない。
ただ、その中に、ひとりだけ異物が混ざっていた。
50代後半の女性。おばあちゃんと呼ばれてもおかしくない雰囲気。
灰色のコートに、手には文庫本。
場違いもいいところだった。
この時間、この路線、この車両に──彼女のような存在は、いない。
人の流れが彼女の肩をかすめる。
バランスを崩し、文庫本が床に落ちた。
彼女も軽くよろめく。
けれど──
誰も、振り返らない。
理由は簡単だった。
ログの同期がまだ始まっていないからだ。
時刻は7:48
ログ同期まで、まだ30分以上もある。
この世界では、同期前の時間帯は、社会にとって“無記録の空白”だ。
規範が適用されない。だから人は、この時間に最も冷たくなれる。
助けても、評価はつかない。
目を留めても、信用は増えない。
だから誰も、見ないふりをする。
ログに記録されない行為は、存在しないのと同じだ。
だが、彼の足だけが止まっていた。
自然としゃがみこみ、落ちた文庫本を拾う。
「……すみません」
彼女が顔を上げる。目が合う。
ほんの一瞬──けれど、その目には確かな何かが宿っていた。
彼は言葉を返さず、そっと本を手渡すとそのまま歩き出した。
改札前には、倫理特区専用の検知ゲート。
通過と同時に、個人の行動履歴と評価値が更新され、公共サービスの優先度が上書きされる。
この街は、通るだけで「誰であるか」が塗り替えられる。
ここ"新宿倫理特区"では常識であった。
オフィスへ到着すると同時に端末から通知が走った。
ー ログの更新が遅延しています。原因確認をお願いします ー
いつものことだ。
「多分、クラウドの同期がずれてるな……中小はまだ全部エッジ化してないから」
誰にともなくつぶやき、処理する。
昼もナノミール。咀嚼の必要もない。
ストレス指数は“正常範囲内”。
彼は以前と比べると、随分と健康的になった──
午後、静かなオフィスで彼のメイン端末が小さく振動していた。
クライアントからだった。
ー先日の提案の件ですが、具体的な費用についてお見積りいただけますでしょうか?ー
彼は手元のメイン端末から、サブ端末に向き直る。
それは元々、向かいのデスクに座っている小鳥遊が「遅くて使いものにならない」と棚に戻した旧式の一台だった。
スリープの設定を解除し、簡易スプレッドと過去の提案事例フォルダを並べる。
予算感を確認しながら、数字を走らせる。
整合よりも「この相手にとって最初に気になる数字はどれか」を探っていた。
「完璧よりも、刺せるかだ。今あるもの、最短でいく」
それはいつものやり方。
数字の整合や利益率だけなら、提案はAIが即座に最適化できる。
それでも、人間が手を入れる余地は残っていた。
評価アルゴリズムは規範の範囲でしか判断しない。
だが、実際の交渉では、その外側にある“相手の迷い”や“躊躇”が結果を変えることがある。
そこだけは、まだ人間の仕事だった。
ただ、今日は少しだけ、ノイズが混じっていた。
別のクライアントからも通知が入り始めていた。
借り物の資料を、角度を変えて並べ替える。
順番と文脈が変われば、意味も変わる──
そう信じられるうちは、まだ大丈夫だ。
仕事がひと段落し、彼は明日の業務の準備を終えて帰路についた。
夜、街の温度がほんの少しだけ、緩んでいた。
風が吹き抜ける。人工的な涼しさと、誰かが落とした香り。
コーヒーの匂いだった。
懐かしいような、どこか個人的な記憶をなぞるような香り。
足が一瞬だけ、止まりかけた。
──ふと、社会が追いついてきた。
前を歩く人の背中、後ろから迫る靴音、信号の点滅音。
同期した世界のリズムが、また戻ってくる。
彼は、何もなかったかのように歩き出した。
いつもの道。
いつもの速度。
けれど──
たしかに、あの香りだけは、その"いつも"を少しズラした。
帰宅後、冷蔵庫を開けるとナノミールが整然と並んでいた。
その横に──クッキーが、二枚。
「……なんで、買ったんだっけ」
思い出せない。そのはずなのに、なぜか味は覚えている気がした。
一枚を口に入れる。甘い。ただその甘さが、思考のすき間をぬるく埋めていく。
“予定調和”だった。なのに、どこか乱れを含んでいた。
「そういえば、LiMEって……」
ふと、今朝のノイズのような会話が頭に浮かぶ。
彼はおもむろに端末からARディスプレイを立ち上げた。
< LiME メッセージ >
< LiME メッセージ 選ばれる >
< LiME メッセージ 都市伝説 ウソ >
いずれの検索結果も、LiMEのサービス終了ページや、
昔懐かしいアプリとして紹介される記事ばかりだった。
今朝のノイズを証明するものは、どこにもない。
「……噂は、噂か」
ディスプレイを閉じた3秒後に、部屋の光も薄くなった。
視界には、何もなかった。
けれどどこかで、「誰かが見ていた」ような感覚だけが、
ほんの微熱のように残っていた。
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