Rebellion Vampire(リベリオン・ヴァンパイア)

赤沢龍太郎

第1話「始祖の血」



プロローグ


 夜が開ける少し前。めずらしく霧の濃い日だった。

 父さんと母さんが――死んだ。


 奴らに殺された。


「ドラコ!起きなさい」

 俺は母さんに揺さぶられて目を覚ました。まだ小さかった俺は寝起きが悪く、いつも叱られるように起こされていた。でもこの日の母さんはいつもの慌ただしい声とは違って、凛として静かな声だった。

 何かただならぬことが起こっている。

 幼いながらも俺はその緊張感を察して素直に起き上がり、開かない目をこすりながら母さんに手を引かれてリビングに出る。そこには黒い軍服のような制服を着た知らない男と、刀身が赤いナイフのような武器を持った臨戦態勢の父さんが一触即発と言った雰囲気で対峙していた。

「ほう、それがヴァンパイアとヴァンパイアハンターの血を引く混血の子供か」

 男が俺を見ながら低く呟いた。

「ドラコを連れて、できるだけ遠くに……」

 父さんは男から目を離さずにそう言った。何かを覚悟して全てを母さんに託した。そんな感情が垣間見かいまみえる声だった。

 母さんはその声を聞いて一瞬足を止めた。

「早く!」

 父さんがそう叫ぶと同時に、手に持っているナイフが血のような赤い液体をまといながら黒い刀に変貌へんぼうした。父さんが声を荒げるところを見たのはこれが初めてだった。

 母さんは父さんの後姿うしろすがたを目に焼き付けるようにじっと見つめた後、俺の手を引いて玄関から外に出た。外に出た瞬間家の中からけたたましい金属音が鳴り響く。それは父さんとあの男が戦闘を開始した音だった。その音を聞いた母さんの顔は今にも泣き出しそうに見えた。普段はしっかりいている母さんのそんな顔を見て俺は、なぜだか無性に腹が立ったのを覚えている。その怒りは、母さんにこんな顔をさせたあの男に対してだったのか、それとも何もできない自分自身に対してだったのか、もう覚えていない。

 俺は母さんに手を引かれて森の中を全力で走った。子供だった俺でもあの男から逃げなければならないということは理解できた。そして理解した途端、一気に恐怖が押し寄せてくる。

 しばらく走ると俺は信じられない光景を目にした。

 目の前に数分前に出てきたはずの自分たちの家が見えるのだ。家から遠く離れるように走っていたはずなのに、元の場所に戻って来たのである。母さんの顔は驚愕に染まり、そして次に起こった目の前の光景によって絶望へと変わった。

 玄関の扉が開き、さっきのあの男がゆっくりと出てきたのだ。体は返り血を浴びて真っ赤に染まっている。その返り血が誰のものだったのか、当時の俺は理解できていなかったが、今ならわかる。わかってしまう。

「ドラコ、逃げなさい」

 母さんはそう言って俺の手を離した。

「生きて、そして強くなりなさい」

 それは母さんが俺に最後の言葉として託そうとしたものだと、子供だった俺でもなんとなく理解できた。理解できたからこそ母との別れを受け入れられず俺は動くことができなかった。

「足手纏いがいたら本気で戦えないか?だったら先にガキを始末してやろう」

 正面にいたはずの男のその声は、気付けば背後から聞こえていた。

「ドラコ!」

 俺は母さんに腕を引かれ勢いよく尻餅をつく形で後ろに倒れる。その拍子に目をつぶってしまった俺が次に目にしたものは、母さんの胸を突き破った男の腕だった。

 思考が止まる。

「ガキを狙われた母親は必ず身を挺してガキを守る」

 男がそう言いながら母さんの体から腕を引き抜く。支えを失った母さんはその場にばたりと倒れた。動かなかくなった母さんを見て俺の思考がようやく動き出す。

 母さんが死んだ。この男に殺された。

「さっきのヴァンパイアハンターの男との戦いはなかなか楽しかったがな、ヴァンパイアの女との戦いはもう飽きたんでね。手っ取り早くらせてもらった」

 その男の言葉は誰に向けられたものだったのか。男は倒れている母さんの頭を鷲掴みにし、俺の目を見てさらに言葉を続けた。

「小僧。ヴァンパイアの殺し方を教えてやる」

 胸を貫かれた段階で母さんは死んだと思っていた俺は、その男の言葉の意味をうまく理解できなかった。

 尻餅をついたまま恐怖で動けなかったあの時の自分と、当時の無知をどれだけ呪ったことか。しかしもし仮に動けたとて、子供だった俺に何ができたのか。今更そんなことを考えてもそれは後の祭りだ。

 男が母さんの頭を掴んだ手に力を込める。メキメキと骨が軋む嫌な音が聞こえたその瞬間、周りを漂っていた霧がより一層深くなり、目の前の光栄を俺に見せまいとするかのように俺を包み込んだ。


 霧が晴れた時、俺は全く知らない別の場所に一人立っていた。



 ヴァンパイア。あるいは吸血鬼と呼ばれる者。 

 日光に当たると皮膚が焼けただれ、にんにくと十字架を嫌い、人間の血を吸う化け物。昔映画で見たことがある気がする。詳しいことはあまり覚えていない。

 そういえば、吸血鬼に血を吸われる感覚ってどんな感じなんだろう。気持ちいいと表現されることが多いけど、本当にそうなのかな?

 苦しまずに死ねるなら、私も吸血鬼に血を吸われて死にたいものだ。

 でも吸血鬼って、どうして人の血を吸うんだろう。美味しいから?それとも血を吸わないと生きていけないから?

 そもそも吸血鬼って、どうやって生まれたんだろう……。


 買い物を終えた私はそんなことを考えながら帰路につく。少し買いすぎてしまったかもしれない。秋服は可愛い服が多いから困る。

 電車で十五分ほどのところにある大型ショッピングモール。ここに来れば大抵のものは手に入る。

 買い物をするなら一人がいい。誰にも気を遣わないし、自分の欲しいものを買える。

 友人と買い物をするのも嫌いではないけど、どうしても気を使ってしまう。

 自分が選んだものを否定されたらどうしようとか色々と考えてしまい、素直に自分の好きなものを好きと言えない。

 そんな自分にも嫌気がさす。

 だからストレスの発散を目的とするなら、買い物は一人でするに限る。

 それにこの近くには自然も多い。帰りに一人でのんびり散歩をしながら余韻に浸るこの時間も嫌いじゃない。現実を忘れられる。

 午後の日差しをすり抜けて、気持ちいい風がそっと頬を撫でた。

「何してんの?」

 男の人に声をかけられたような気がした。声のする方を見るとその男の人と目が合った。

「買い物?もう終わったの?この後の予定は?」

 こちらに歩いてくる。もしかして私に声をかけたのか?どこかで会ったことがあっただろうか。

 青い髪に青い目。少し幼い中性的で可愛らしい顔をしている。白い半袖のシャツを着ていて爽やかな感じだ。外国の方かな?

 どっちにしろ見覚えはない。こんな特徴的な人、会ったことがあればおそらく記憶に残っているはずだ。

「暇ならさ、カフェでも行こうよ、ご馳走するからさ」

 男は私の目の前で立ち止まり軽い口調でそう言った。

 ナンパか・・・。からかうのはやめてほしい。私よりもっと綺麗な人はたくさんいるのに、どうして私なんかに声をかけるんだろう。チャラチャラした人は苦手だ。申し訳ないけど無視して行ってしまおう。

 私は一瞬知り合いかと思い立ち止まってしまったことを後悔し、男の横を早足で通り抜ける。

「ねぇ、ちょっと待ってよ。冷たくない?それちょっと感じ悪いよ?ちょっとくらいいいじゃん。付き合ってよ」 

 男がついてくる。ああ、すごく嫌な感じだ。断った私を悪者にして罪悪感に訴えようとするこの感じ。すごく苦手だ。この時点で私の中には、この人の誘いに乗るという選択肢は完全になくなっていた。

 構わず行こうとすると急にその男に腕を掴まれた。

「離してください」

 私は急に体を触られた恐怖で咄嗟にその手を振り払う。

「あ、やっとしゃべってくれたね。お腹空いてるならご飯でもいいよ?それとも飲みにでも行く?少しくらいなら時間あるでしょ?」

 相手の話を聞かないこの感じ。本当に苦手だ。

 周りには誰もおらず、助けは期待できそうにない。走って逃げようか……。

「あ、荷物持ってあげるよ」

 男が私の返事を待たずに荷物に手を伸ばしてくる。

「やめてください!」

 私はまた咄嗟に強く抵抗してしまった。怒らせてしまったかもしれない。

「ちょっと。辞めてよ。俺が悪い人みたいになるじゃん。そう言うの傷つくな。ねぇちょっとだけ付き合っ・・・」

 –––て。と男が最後まで言い終わる前に、突然私とその男の間に別の誰かが割り込んできた。

「どけ」

 割り込んできた男はそう言って青い髪の男を突き飛ばす。

 この人は誰だろう。助けてくれたのかな?困っていたところだったから助かった。

 その人は黒いシャツを着ていて、日光のせいか髪の毛が赤く見える。背中を向けていて顔は見えない。

「何?あんた」

 突き飛ばされた青い髪の男が怪訝な表情で男に問いかける。

「ターゲット確保。今から連行する」

 割り込んできた男はその問いには答えず、報告するように別の誰かに向けて言った。

 無線のようなもので誰かに報告しているのか?ターゲット……?

「おいあんた……」

 青い髪の男がその男に近づこうとしたその時、ドンッ!という大きな音が響いた。

 突然の大きな音に心臓が飛び跳ねる。

 次の瞬間、青い髪の男が力尽きたようにその場に倒れる。

 え……?何?

 見ると、倒れた男は頭から血を流していた。

 思考が停止する。何が起きたのか理解できない。

 目の前の男はさらに倒れた男の胸の辺たりにその手に持っている黒い物を向けた。

 –––銃。銃で人を撃ち殺した?

 本物の銃を見たことはなかったが、目の前に頭から血を流して倒れている男がいるこの状況では、瞬時にそれが本物の銃であると本能的に理解できてしまう。

 男は心臓にもう一発打ち込むのかと思ったがそうはしなかった。気のせいかもしれないが、男はそうしようとして躊躇ためらって辞めた。そんなふうに見えた。

 男がこちらを向く。そして素早い動きで私の後ろに周り、白い布で私の口を押さえた。薬品の匂いがする。

 その手に持っている銃を私の頭に突きつけて男が耳元で囁いた。

「同じ目に遭いたくなかったら、大人しくしていろ」

 その言葉を聞いた直後、私は意識を失った。



    *


 目が覚めると見覚えのない場所にいた。ホテルの一室だろうか。壁の一面がガラス張りになっていて夕日が沈んでいくところが見える。景色からしてずいぶん高い階にある部屋のようだ。

 なぜ私はこんなところにいるのか。

「はぁ?ふざけんな!十億だ」

 男の人の怒鳴り声が響いた。

 ああ、そうだ。

 あまりに衝撃的なことが起きたせいか、実際にあった出来事のはずなのに、見た夢を思い出す時のような感覚で記憶をさかのぼる。

 確か買い物を終えて家に帰っているところで、しつこくナンパしてきた男をこの人が銃で撃ち殺し、私を薬で眠らせてここまで連れてきたのだ。

 ああ、やばい人だ。やばい人に捕まった。

 思い出した途端、頭から血を流して倒れている男の姿がフラッシュバックし、胸を締め付けるような恐怖に支配される。

 このままここで私も殺されるのだろうか。この男の人に乱暴にされて、そのまま死ぬのだろうか。

 拘束はされていない。今なら逃げられるかもしれない。そう思ってチラリと男を見た。

「用意できないなら戦争でもするか?俺達と事を構える覚悟があるなら、受けてたつぜ。全て奪われるか、十億払うか、少し考えたらどっちが安いかわかるだろ?この女にそれだけの価値を見出してんなら、筋は通せ」

 十億?なんのことだろう。この女というのは、私のこと?もしかしてこれは人身売買?私を十億で売るって話?十億?私にそんな価値があるとは思えない。人違いだ。

 しかしどうやら、ただのやばい人ではなく、やばい組織の人だったみたいだ。これは完全に終わった。絶対に逃げられない。

 人違いだと言ったところで助けてもらえるかどうか……。

「わかってるよ」

 電話の向こう側にそう返事をし男は通話を切った。

 男と目が合う。

「お目覚めか?」

 男は端末をポケットにしまいながらこちらに近づいてくる。

「まぁ、もう少し寝てたほうが怖い思いせずに済んだかもしれないがな」

 年齢は二十代前半くらいだろうか。黒いシャツを着崩してる。すらっとしているが捲った袖から覗く腕を見ても、明らかに鍛えられているのが分かる。瞳が黄色く目つきは悪いが、だいぶ整った顔をしていて、室内で見ると思ったよりも髪の毛が赤みがかっているのがわかる。

「運が悪かったな」

 男はその言葉とは裏腹に全く同情している様子はない。

「あんたをある組織に売り飛ばす。これからはせいぜい奴らに可愛がってもらいな」

 予想通り人身売買のようだ。男の言い方からして、売られた後どんな目に遭うのか、あまり想像したくはない。

 私は平気で人を殺したこの男を前に、恐怖で何も言葉を発することができなかった。

「助けてくれって言ったて無理だぜ。まぁあんたが十億払ってくれるなら別だが」

 十億……。そんなお金払えるわけがない。

「もし助かっても他の組織の奴らに見つけられて同じようにさらわれるか、またさっきのあの男に捕まるだけだ」

 さっきのあの男?あの人は銃で撃たれて……。

 男が私のその思考を読んだかのように口を開く。

「さっきのあの男、死んでないぜ」

「え……?」

 私は男のその言葉をすぐに理解できず、思わず聞き返してしまった。

 あの時、銃声のような音が聞こえた後、青い髪の男が頭から血を流して倒れ、目の前に銃を持ったこの人が立っていた。確かに実際に銃で頭を撃った瞬間を見たわけではない。しかしどう考えてもこの人が頭を撃って殺したとしか考えられない。撃ってないとしたらどうしてあの人は頭から血を流して倒れたのか。それともそう見えただけで本当はただ倒れただけなのか。銃声じゃなきゃあの音は何だったのか。

 混乱する頭を回転させていると、男は私が想像していた答えとは全く違う答えを口にした。

「あの男、ありゃ人間じゃない」

 人間じゃない?人間じゃなきゃ何なんだ。実は猿だったとでも?猿だったとしても頭を銃で撃たれたら死ぬはずだ。じゃあ宇宙人とか?それともユーマ?いやいや、流石にそれはない。

 混乱した頭が余計混乱する。

「あの感じは、おそらくはぐれの傭兵だろうがな」

 はぐれの傭兵……?はぐれの傭兵と言われても何もわからない。

「しかしあの髪の色……。染めた様子はなかった。メンバーにもあんな奴はいないはずだが」

 男は独り言を呟いている。さっきからこの人は何を言っているんだ?眉間を撃ち抜いたのに死んでない?はぐれ?傭兵?メンバー?どういうこと?わけがわからない。

「ここに運ぶ途中あんたの体をまさぐって調べたが、GPSが付けられていた。抜け目がないところを見ると間違いなく、ナンパを装ってあんたを狙ってたんだろうな」

 私を狙っていた?全く話についていけず、体を弄られたことを気にする余裕などなかった。

「なんであんたみたいなのがそんなにモテるんだか」

 男が皮肉混じりの表情でそう言った。

「安心しろ。ここは見つけられない。まぁあんたにとってはあいつになぶられようと、組織に売り飛ばされようと、たどる運命は変わらないだろうけどな」

 男は哀れなものを見るような目で私を見下ろした。

「観念しな。あんたの人生はここで終わりだ。苦しめられる前に死にたいっていうなら止めはしないが、取引が終わってからにしてくれ。じゃなきゃ俺があんたを痛めつけなきゃならなくなる」

 そう言った男は、どこか悲しげで、とても冷たい目をしていた。

 話を聞いても、青い髪の男がどうして死んでいないのか全くわからなかったが、私の人生がここまでなのは分かった。これからは死にたくなるような苦痛を味わいながら、死ぬこともできず生きていかなきゃいけないんだ。そう考えると、涙が溢れそうになった。

 その時男のポケットで端末が振動する音がした。

 男はすぐに通話に出る。

「なんだ?」

 これからすごく酷い目に遭うというのに、不思議と不快感はなかった。あまりに現実離れした出来事で実感が湧かないからだろうか。自分の感情をうまく表現できない。不快感はないが何故だか涙が出そうになる。泣いたところでこの人は許してくれないし、なんの解決にもならない。そんなことはわかっている。それでも涙が溢れるのを抑えるので精一杯だった。

「は?なんだって?じゃあ取引は無しってことか?」

 その声を聞いて私はハッとする。どうやら不足の事態が起こったらしい。それだけで私は、もしかしたら……という気持ちになる。

 でもおそらくそうはならない。また違ったもう一つの最悪な未来に行くだけだ。

 自分の都合のいいように解釈し僅かな希望を見出して、その後それを自分で否定し落胆する。いつもそうだ。どうせ何もうまくいかない。

「じゃあ、見られた以上こいつは殺すしかない」

 ああ、やっぱり。でも苦しまずに死ねるならこの際それでもいい。

「何?こいつが?」

 男がこちらを見た。

 少しの間無言で私を見つめた後。

「なるほど。俺は実験台ってことね。了解だボス」

 そう言って通話を切った。

 どうやら通話の相手はさっきの取引相手ではなく男が所属する組織のボスだったらしい。

「あんたを売り飛ばすのは、味を確かめてからそうだ」

 男はとても冷たい声でそう言って、こちらに近づいてくる。

 怖い。諦めがついたはずなのに、実際にこうして迫られるとすごく怖い。

 「何する気ですか?」

 拒絶したいと言う気持ちから、私は無意識にそう呟いていた。

 何をされるのかは大体想像ができていた。しかし想像できていたからと言って恐怖がなくなるわけではない。

 私は男に肩を掴まれ、乱暴にベットに押し倒される。ものすごい力だった。抵抗できない。

「お前みたいな奴が始祖の力を持っているわけないだろ?」

 そう言いながら男が私の首に口を近づける。

「いや……。やめ……」

 私は必死で抵抗しようとした。

 その時、首に想像していなかった感覚が走る。

 ちくりと噛みつかれたような–––痛み。

 直後、電気が走ったように脳が痺れる。

「あ……」

 予想外の感覚に声が漏れる。

「何、を……」

 牙が肌を貫き血が溢れる。

 私は今、何をされている?首を噛まれた?

 耳元でじゅるりと血をしゃぶるような音がする。

 いつの間にか痛みはなくなり、頭の中がぼうっとするような快感に襲われる。

 体が暑い。

「……っん」

 全身に力が入り、体をよじる。

 ごくごくと男が喉を鳴らした後、ゆっくりと口を離す。

「はぁ、はぁ。なんだ……これ……?頭が割れそうだ……。あんた、まさか本当に……?」

 男は私の顔を見ながら、そう呻くように言った。

 体に力が入らない。私は抵抗することもできず、男の目を見返す。

「うっ……」

 男が苦しそうに顔をしかめる。

 その時男の黄色い瞳が赤く変化した。

「もっと……」

 男は理性を失ったように再び私の首に勢いよくかぶり付く。

「・・・んっ」

 再び全身を襲う痺れるような快感に思わず声が漏れる。

 私は何かに耐えるように男のシャツを握り締めた。

 頭の中が白くぼやける。

 意識が飛びそうだ。

 再びごくごくと男が血を喉に流す。そしてゆっくりと私の首から口を離す。それに合わせて私の意識も徐々に戻っていく。

「ぐ、ああああああ」

 すると突然男が叫び声を上げながら勢いよく上体を起こした。胸を掻きむしるように押さえ苦しんでいる。

 何?何が起きてるの?

 今まで何をされていたかということさえ忘れ、私は男に視線を向ける。

 ドクンと一つ、心臓が鼓動するような音が聞こえた気がした。

 次の瞬間、そこに男の姿は無かった。

「え・・・?」

 周りを見回す。

 しかし男の姿はどこにもない。

「消えた?」

 さっきまで目の前にいた人間が一瞬にして消え去るなんてあり得るのだろうか。それとも今までの出来事は全て夢だったのか。だとすると、どうして自分はこんなところにいるのか。

 混乱して現実味の無い考えが頭を巡る。

 ホテルの一室は物音一つない。その静寂の中で突然男の声が耳元で聞こえた。

「こりゃすげえ」

 その声に驚いて勢いよく振り返る。

 しかし男の姿は無い。部屋中を見回したがどこにもいない。男の吐息が耳に触れたくすぐったい感触だけが残る。

 その感触が消えないうちに再び男の声が耳に触れる。

「瞬間移動ってやつか」

 振り返るもやはりそこには誰もいない。

 続け様に真後ろから男の声が聞こえる。

「はは、始祖の力は本当だったんだ」

 声に合わせて素早く振り返る。見逃すまいと構えていたため、今度は一瞬だけ姿が見えた。しかしその一瞬で男の姿は煙のように消えてしまった。

 そう煙のように、まるで体が霧に変化するかのように消えたのである。

 これは一体何が起きているの?体が霧になって消えた?そんな超能力みたいなことが……?

 すると今度は男が目の前に、文字通り霧が形を成すように現れた。現実ではあり得ない光景を目の当たりにして言葉を失う。

「力がみなぎる」

 男はそう言いながら不適に笑った。

 さっきまでの男とは雰囲気が全く違っている。クールで冷徹なイメージが一変、口元には不適な笑みを浮かべ、力を振いたくてしょうがないといった狂気じみた雰囲気を感じる。

 そして何より、その男の目が真紅のように赤く、禍々しい光を放っているのがより不気味に思えた。

「よかったな。あんた、これでとりあえずは死なずに済むぜ」

 そう言った男の表情からは到底これで安心、などとは思えなかった。

 ここからが本当の地獄の始まりだとでも言いたげな表情に、私は一層強い不安と恐怖を覚えた。

「うっ……」

 すると突然男が苦しむような表情で膝を着いた。

「ああ、時間が経つと効果が切れるのか……。くそ、まだ色々試したかったんだが」

 男は息を切らしながらそう呟いた。見ると男の目は黄色い元の目に戻っていた。口元の笑みも消え、先程の猟奇的な雰囲気は消えていた。

 今のは何だったのか。人が変わったようなあの雰囲気。そして目の前で霧のように消えたあれは本当に現実だったのか。

 男がよろよろと立ち上がろうとするも再び膝をつく。

「なんだ……?力が……入らない」

 男がこちらを見る。私は警戒してたのもあって、目を離すまいと男をじっと見ていたのでその視線が交わる。

 男の目は元の冷徹な雰囲気とも、目が赤く光っていた時の交戦的な雰囲気とも違う、どこかとろけるような目で、脱力した雰囲気になっていた。口元にはまた笑みを浮かべている。しかし今度はさっきのような不適な笑みではない。ヘラヘラした、そう、酔っ払いが鬱陶しく絡んで来る時のようなあの感じだ。

 気づくと男は目の前まで迫っていた。

「へへ、あんた、よく見たらいい女だな」

 そう言いながら男が抱きついてきた。

 –––え?

 突然のことで全く反応できなかった私はそのまま抱き合うような体制になる。

 男がぎゅっと優しく抱きしめるように腕に力を込める。

「これからは、俺が守ってやる」

 男が耳元で優しく囁く。私はその声を聞いて、より混乱した。さっきまで私を悪い組織に売り飛ばそうとしていた人に「守ってやる」と言われた。この人はさっきまでのあの人とは別人なのではないか?そんな思考が頭を駆け巡る。

「安心しろって。こう見えても俺、結構強いんだぜ」

 さっきまで人生に絶望するレベルの恐怖を味わっていたからだろうか、あまりにも激しい緩急にその恐怖の元凶である、この名前も知らない男の声に安心感さえ覚えてしまう。

 その安心感に気が緩んだせいか、私はここにきて初めて彼に問いかけた。

「あの……、あなたは?」

「ああ、そうか。そういえば言ってなかったな」

 彼は私を抱きしめたまま、優しい声で言った。

「ヴァンパイアだよ。人の血を吸う化け物。食べちゃうぞ……。なんてな」

 彼はいたずらをする子供のように笑ってそう言った。

 ヴァンパイア……?ヴァンパイアというのはあの?吸血鬼的なアレか?何を言っているんだ?

 確かに私はさっきこの人に噛まれた。噛まれて血を吸われた。そして私の血を吸った彼は特殊な能力を使って霧のように消えた。その一連の出来事を体験した後では、彼の正体がヴァンパイアだということにも納得できてしまうが、それは私の頭が恐怖でおかしくなっているからだろうか。

 ああ、そうか。これは夢か……。私はヴァンパイアに噛まれて死んだんだ。ここは天国なんだ。あれ?だとしたら彼がヴァンパイアだという事実は変わらないのではないだろうか?

「ヴァンパイアっつっても人を食べたりはしねえよ。人の血を吸わなくても生きていけるしな」

 彼は私の一瞬戻った緊張を察してか、それをほぐすように優しくそう囁いた。

 彼の優しい声が耳を撫で、とろけそうになる。

 ハグをすると人はストレスが緩和されるというけど、どうやらそれは本当らしい。殴られた後に抱きしめられると余計安心感を覚えるというのはこのことか。

 あまり優しくしないでほしい。急激な緊張と緩和によって頭がおかしくなりそうだ。

「でもあんたの血は別だ」

 彼は悲しげにそう言って私の体をさらにぎゅっと抱きしめた。

 私は彼の情緒について行けず、ただ彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。

「あんたの血がないと、俺は……、なんにも……」

 その声は今にも泣き出しそうな声だった。

「母さん……。母さんの仇……。もうあんなふうに大切な人がいなくなるのは……。もう誰も失いたくない……」

 そう呟いた彼の声はあまりにも儚く、思わず抱きしめ返したくなるようなものだった。

「あんたは俺が守るから。だから……」

 この時点で私は、彼に酷いことをされそうになっていた事など忘れてしまったかのように、彼に対して不安や恐怖という感情を全く抱いていなかった。むしろ、彼の力になってあげたいとさえ思い始めていた。

 私は彼が最後に言った「だから……」の後に続く言葉が気になり、言葉を待った。

 すると、彼はガバッと私を突き放し立ち上がった。そのせいで私は勢いよくベッドに倒れる。

「俺は、何を……」

 彼が正気に戻ったというようにそう呟いた。

 あれ?これは……。もしかして正気じゃなかったとかそういうあれかな?今のすごくいい感じの雰囲気はなかったことにされるあれかな?

「今のは忘れろ!」

 彼は力強くそう言った。

 ですよね……。

 そんな彼の表情は最初のクールで冷徹な雰囲気に戻っていたけど、ほんの少しだけ優しく見えたのは、私の彼に対する印象が変わったからなのか、それとも……。

「くそ、血の副作用か……。まぁただじゃ使えねえか」

 そうぼやきながら彼はポケットから端末を取り出し通話をかける。

「ボス。覚醒した。間違いない。始祖の血だ」

 彼が電話の向こうに向かってそう言った。

「俺の能力は瞬間移動……、というより、霧に変化して移動する能力と言ったところか。俺の戦闘スタイルとも合ってる。まだどれだけ遠くまで行けるかとか、色々試してみないとわからないが、申し分ない力だ」

 そう言って彼がチラリとこちらを見る。

 私と目が合うと彼はすぐに目を逸らした。

「だが副作用がある。まぁそれは帰ってから説明するよ。……ああ、わかった」

 彼が通話を終え、こちらに向き直る。

「これからあんたを俺たちのアジトに連れていく。残念だが拒否権はない。売り飛ばされるよりかはマシだと思ってくれ」

 彼が一方的にそう言い放つ。拒否権はないらしい。

 しかし私は命令的にそう言われても、そこまで嫌な感じはしなかった。彼の言う通り、悪い組織に売り飛ばされるよりかは全然いいと思ったからなのか、いろんなことが起こりすぎて正常な判断ができなくなっているのか……。

「この能力じゃあんたを運ぶのは無理か……。しょうがない、かついで行く」

 彼がそう言いながらこちらに近づいてくる。激しい感情の変化で、脳が正常に動いていない私は抵抗するまもなく彼に担がれ視界が逆転する。

 というか外に出るなら歩いていける。なぜ私は担がれているんだろうか。

 すると彼は私を担いだまま窓の方へ近づいていく。嫌な予感がする。すごく嫌な予感が。

 彼はおもむろに窓を開けた。

「あの?もしかして、ここから飛び降りるつもりじゃないですよね?」

 私は思わずそう尋ねた。

 いやいや、まさか。そんなことをするわけないだろう。見た感じ相当高い。二十階くらいの高さはある。いくらヴァンパイアとはいえ、ここから飛び降りたら確実に死ぬ。私も一緒に死ぬ。

「口開けてると舌噛むぜ」

 どうやらそのつもりらしい。

 ああ、死んだ。絶対に死んだ。私の人生もここまでか……。悪い組織に売り飛ばされそうになって絶望したかと思えば、私を売り飛ばそうとしていたその男はヴァンパイアで、そのヴァンパイアに血を吸われ快感に身を包み、その後なぜか抱きしめられ、その緊張と緩和によって安堵し幸せな気持ちを味わってから、今また死の淵に立たされている。

 ああ、これが走馬灯というやつか。だいぶ忙しい人生だったな。

 ここ数時間が自分の人生の全てだったというような現実逃避をしていると、彼が窓枠に足を掛け、下を覗き込んだ。

 あ、本気なんだ。終わったんだ。

 心の準備をする暇もなく、私は彼に担がれたまま―――落下した。

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