完結済み「春のあとに遺るもの」
深森あい
第一章 あなたの先生
春の風が、教室の窓からそっと吹き込む。立花悠真は、ひとりの生徒と向き合っていた。
「先生! この問題、急ぎで教えてください!」
その言葉に、悠真は少しだけ目を細めて笑った。
「もちろんいいけど、なんでそんなに急ぎ?」
「……このあと、初恋の人と勉強会なんです! 頭悪いとカッコつかないじゃないですか!」
「ああ、そういうことか。なるほどな」
彼は小さく息をついて、机の横に腰を下ろす。
「じゃあ急ピッチでいこう。時間がないんだろ?」
「はいっ!」
「なら、《俺》のスピードについてこいよ?」
「もちろんです!」
いつもの日常。けれど、その笑顔の裏で、悠真の心はそっと遠い過去をたどっていた。
(……もう、あれから十七年になるのか)
立花悠真。今でこそ“先生”と呼ばれるこの青年には、かつて守れなかった“想い”がある。
──十七年前。
桜が咲き始めた春の午後。空は淡く霞み、病室の窓からは微かな陽光が差していた。
その静かな部屋で、白川詩織は分厚い問題集を前に眉をひそめていた。
「ねぇ、悠ちゃん」
「ん? どこか分からないとこでもあった?」
「この……関数の応用。やっぱり難しい……」
「だよな。《俺》も最初はつまずいた。でも大丈夫、教えてやるよ」
悠真は椅子を引き寄せ、彼女の隣に座った。
病室にある簡素な机には、消しゴムのカスと、いくつものメモ書き。詩織が必死に勉強してきた証だった。
「ありがとう……悠ちゃん、ほんと優しいね」
「お前が頑張ってるからだろ」
その言葉に、詩織はふと俯く。
「私さ……本当は、ずっと怖かった」
「……何が?」
「こうしてる時間が、全部夢みたいで。目が覚めたら、悠ちゃんがもう隣にいないんじゃないかって……」
「……詩織」
「私なんかのために、時間を使ってくれるのが、申し訳なくて。病弱で、すぐ熱出して、すぐ倒れて……それでも笑ってくれる悠ちゃんが、どこか遠い人に見えたの」
悠真は言葉を探しながら、詩織の手をそっと握った。
「馬鹿。何言ってんだよ。俺は……お前がどんな状態でも、そばにいたいんだよ」
「……ありがとう」
その日、彼女は少しだけ多く笑った。
だが、その笑顔は──翌日には、もう二度と見られなかった。
──翌朝。
「悠真、落ち着いて聞いてね。詩織ちゃんが……亡くなったって」
「……は?」
「体調が急変したらしいの」
言葉にならないまま、悠真は靴も履き潰す勢いで病院に向かった。
受付で名を告げると、対応した看護師が小さく頷き、一通の封筒を差し出した。
「……これを。詩織さんから。『もし立花さんが来たら』って……」
封筒には、にじんだ涙の跡。そして懐かしい字で書かれた名前。
---
『悠ちゃんへ』
この手紙を読んでるってことは、私はもう……いないってことだよね。
ごめんね。最後まで、きちんと“またね”って言えなくて。
私さ、ずっと悩んでたの。病弱だからって、悠ちゃんの時間を奪ってる気がしてたの。
本当はずっと、一緒にいたかったのに。
“好き”って言えなかったのは、怖かったから。
伝えたら、何か壊れてしまうような気がして……
でも、もう言うね。
私は、悠ちゃんのことがずっと、好きでした。
小さい頃に助けてくれてありがとう。
いじめられて、何度も泣いてた私を見捨てないでいてくれてありがとう。
あなたがいたから、私はここまで頑張れた。
悠ちゃんが「先生」になったら、絶対に最高の先生になると思う。
勉強も上手に教えられて、優しくて、人の痛みにも気づける──そんな人だから。
だから、お願い。
これからも、たくさんの誰かを救ってあげてね。
私の大好きな“先生”になってください。
最後に、こんなことを言ってごめんね。
悠ちゃんの──
私の初恋の人の、大好きな人の、この先の人生に、幸せがありますように。
――白川詩織
---
悠真は、手紙を胸に強く抱き締めた。
「……見ててくれよ、詩織。俺は、先生になる。お前が言ってくれた“最高の先生”に」
「……そして、ごめん。俺も……お前のことが、大好きだった」
──年月が過ぎた。
教壇に立つ立花悠真は、今や生徒から“最高の先生”と慕われていた。
「先生! ここの説明、天才的に分かりやすかったです!」
「そうか。じゃあ今度から黒板に“天才”って名札貼っとくか?」
「やだそれ恥ずかしい! でも……ありがとう、先生」
「……うん」
ポケットには、今もあの手紙がある。
生徒がふと、興味深そうに尋ねた。
「その手紙、誰からですか?」
「……大切な人からもらった。俺にとって、一番大切な宝物だ」
「……彼女さんですか?」
「……ああ。でも、想いを伝える前に……病気で、逝っちまった」
「……そうだったんですね。ごめんなさい」
「大丈夫。今も……彼女は、俺の中で生きてるから」
「……その人のこと、よかったら教えてくれませんか?」
「……いいよ。じゃあ、休憩がてら……俺と、白川詩織の話を、聞いてもらおうか」
彼の声は、どこまでも優しかった。
(詩織。俺はまだ、生徒たちと共に歩いてる。だけど──いつか全部終えたら、君の元へ行くよ。
そのときは、たくさんの思い出を抱えて、また話そう)
──『あなたの先生』
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