序章:尼将軍、立つ

 王立学園の卒業を祝う、きらびやかな夜会。アストリア王国の未来を担う若者たちが集うその場所で、わたくし――エレオノーラ・フォン・ファルケンヘイムは、人生の岐路に立たされていた。

 シャンデリアの光が降り注ぐホールの中央で、婚約者であるアレスター・デ・アストリア第一王子が、腕に一人の令嬢を絡ませてわたくしの前に立つ。男爵令嬢のクララ・フォン・ベルク。潤んだ瞳で王子を見上げるその姿は、庇護欲をそそる見事な演技だった。

「エレオノーラ! お前との婚約は、今この時をもって破棄させてもらう!」

 アレスターの声が、音楽の止んだホールに響き渡る。周囲の貴族たちが息をのみ、好奇と侮蔑の視線が突き刺さる。わたくしはただ、静かに彼の言葉の続きを待った。

「お前は、このか弱く心優しいクララに嫉妬し、陰でいじめていただろう! そんな心の醜い女は、未来の王妃に相応しくない! 私が本当に愛しているのはクララただ一人だ!」

 高らかに宣言される真実の愛。集まった令嬢たちからは、クララへの同情のため息と、わたくしへの非難の囁きが聞こえてくる。嫉妬、いじめ、真実の愛。陳腐な言葉の羅列に、意識が遠のきそうになる。

 その、瞬間だった。

 まるで頭蓋の内側で雷が鳴り響いたかのような、凄まじい衝撃。脳裏に、怒涛のごとく映像が流れ込んできた。

 ―――伊豆の片田舎で出会った、流人の男。源頼朝。彼を信じ、父の反対を押し切って結ばれた日々。

 ―――鎌倉に幕府を開き、武家の世の礎を築いた夫を支えた歳月。

 ―――夫の死後、跡を継いだ我が子、頼家と実朝の相次ぐ悲劇。

 ―――御家人たちを前に、涙ながらに幕府の結束を訴えた、あの演説。

 ―――朝廷が起こした承久の乱。揺らぐ幕府をまとめ上げ、勝利に導いた、あの決断。

 数多の策謀、裏切り、そして血塗られた道を乗り越え、わたくしは「尼将軍」と呼ばれ、鎌倉幕府の実権を握った。そうだ、わたくしは、北条政子。

 流れ込んできた記憶は、今世の公爵令嬢として生きてきた十八年間の記憶を瞬く間に凌駕し、わたくしの魂に深く刻み込まれた。目の前の光景が、途端に色褪せて見える。

「……嫉妬? いじめる? 真実の愛、ですって?」

 無意識に、言葉が漏れた。冷え切った、感情の乗らない声。

 目の前の茶番劇。国を背負うべき王子の、あまりにも稚拙で浅はかな言動。これから起きるであろう政争を思えば、こんなものはままごとに等しい。

 わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。これまでの、感情を押し殺したお飾りの令嬢の仮面は、もうない。そこにあったのは、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた為政者の、静かな威圧感を放つ瞳だった。

「承知いたしました」

 凛、と響いた声に、ホールが水を打ったように静まり返る。アレスターも、勝ち誇った顔から驚きの色へと表情を変えている。

 わたくしは、微笑みもしない。ただ、事実を告げるように続けた。

「アレスター王子。あなたとの婚約は、このエレオノーラ・フォン・ファルケンヘイムの方から、正式に破棄させていただきます」

「なっ、なんだと!? 破棄されるのはお前の方だ!」

「いいえ、破棄『させて』いただきます。――あなたに、一国を背負う王の器はございません」

 断言すると、わたくしは優雅にカーテシーを一つ。それは王子への敬意ではなく、このくだらない茶番への終幕の挨拶だった。

「それでは皆様、ごきげんよう」

 アレスターの怒声や、クララのわざとらしい悲鳴、周囲の動揺を背中に感じながら、わたくしは毅然と胸を張り、ホールを後にした。

 これは、屈辱からの逃亡ではない。

 北条政子改め、エレオノーラ・フォン・ファルケンヘイムの、二度目の戦の始まりだった。

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