2章「聖女へのめざめ」:第1話

 数週間後。

 中間考査の成績が貼り出され、俺の名前は思った以上に上のほうにあった。

 廊下で偶然、波多野とすれ違う。


 「あら、小柳。成績、見たわよ。頑張ったじゃない」


 「ありがとうございます。たぶん、あの倉庫で刺激されたんですかね」


 そう言って少し笑うと、波多野もふっと笑った。


 「じゃあ……倉庫に案内したお友達にも、お礼を言っておくべきね」


 「はい。でも、あの日、先生が来たのは……偶然だったんですか?」


 波多野は、すぐには答えなかった。

 そして、言葉を選ぶように、静かに言った。


 「――偶然って、都合のいい言葉よね。あなたが来る予感がしたから、行ったのかもしれないわ」


 それは、解釈しようと思えばどうとでもなる言葉だった。

 だが、俺の胸の奥には、それが確かに熱を残した。


 昼休み、教室の窓際。

 風が強く、カーテンがふわりと浮いた。俺は参考書を開きながらも、思考が上の空だった。


 「おい、小柳」


 真田が唐突に口を開いた。

 彼はやけに鋭い目でこちらを見ていた。


 「お前、彩菜のこと……好きなのか?」


 「は? なんだよ急に」


 思わず声が上ずった。

 真田は目を細めて、少しだけいたずらっぽく笑った。


 「いや、なんかさ。最近の授業中のお前、目が違うっていうか。やたら集中してるし、返しも丁寧になったし。……ま、先生美人だから、気持ちはわかるけどな?」


 「……それだけじゃない」


 ぽろりと、俺の口からこぼれてしまった。

 真田が少し目を丸くする。


 「え?」


 「……なんでもない」


 俺は俯いて、ページをめくったが、文字が頭に入ってこなかった。


 ※ 


 “それだけじゃない”――その言葉が、自分自身に突き刺さっていた。

 俺は夜、自室のデスクに座りながら、自分の中でざわめく何かを無理やり押さえつけていた。


 (あの人を見てると、安心するんだ)


 でもそれは、普通の好意とは少し違う。

 もっと深くて、必死で、息苦しいほどに求めてしまう。


 父親の前では、常に理屈を通し、間違えずに振る舞うことを求められた。

 母親は、優しかったが、それ以上に――“期待”が重かった。絶対旧帝大以上を目指せと毎日のように言われた。


 褒められるために、認められるために、俺は正しい言葉を選び続けてきた。


 けれど、彩菜だけは、そんな“用意された”自分に反応するのではなく、何か別の、自分でも気づかなかった部分を見てくれている気がした。


 (あの人に、全部見透かされてもいい)


 そんなふうに思うことが、すでに危うさを孕んでいた。


放課後、誰もいなくなった教室。

 黒板の前に、波多野が一人、資料の整理をしていた。俺は廊下からその様子を、つい見てしまった。


 ふと、彼女がペンを置き、机に手をついた。

 重たげに、深く息を吐く。


 (……疲れてる?)


 その顔は、授業中に見せるものと違っていた。

 どこか痛みに耐えるような、悲しさを隠すような――そんな目だった。


 その翌週。

 「先生、今日ちょっと元気なかったよね」と別のクラスメイトが言う。

 「うちの母さんが言ってたけど、なんか波多野先生の旦那さん、けっこうクセある人らしいよ。地元じゃちょっと有名だったんだって」


 その言葉が、俺の胸に引っかかった。

 夫とうまくいってないのか……?


ある日、プリントの提出で職員室へ行った竜平に、波多野はふと声をかけた。


 「小柳、最近ずいぶん落ち着いた顔してるわね。前より柔らかくなった」


 「え……そうですか?」


 波多野は微笑んだ。幅の広い二重がくっきり見える。黒い瞳が透き通っている。


 「私は、生徒が“変わる”瞬間を見るのが一番好きなの。人って、きっかけがあれば本当に変わるのよ」


 ……先生は、俺のことをちゃんと見てくれてる。


 その言葉が、俺の中に静かに沈んだ。

 俺だけが気づいてるわけじゃなかった。先生も、俺を見てくれてたんだ。


 “ただの生徒”ではない。

 “特別な何か”――そんな感覚が芽生えてしまった。

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