11,魔王との邂逅
道中が平穏である保証などどこにもなかったが、もう引き返す場所もなかった。王城へ。今度こそ、真実を知るために。
林の街道を進んでいるときだった。その姿が、道の向こうに立っていたときから、胸の奥がざわついていた。
人の形をしていた。
でも、それは形だけだった。やけに圧迫感があって喉が詰まる。さてこそ馬が鼻を鳴らして立ち止まり、動かなくなった。
「なに、あれ」
俺の後ろ、荷馬車から顔を出してミズナが呟く。ノアールは荷台の中で横たわったまま、まだ意識を戻していない。
男だった。歳は……わからない。若くも見えるし、永遠に老いているようにも見える。背筋が伸びているわけでもないのに、すべてを見下ろしているような雰囲気だった。その灼眼が、あまりに危険で、なにより恐ろしい。
「止まっててくれ」
手綱を引いて馬を抑え、俺はゆっくり馬車から降りた。ミズナも荷台から降りて黙って付いてくる。男は動かない。けれど、その存在そのものが圧だ。視線が皮膚に刺さる。
「なるほど」
ぽつりと、男が言った。
「何が、なるほどだ」
思わず声に出た俺の問いには答えず、男はまっすぐに俺を見た。そして、すぐに言い当てた。
「その顔、いや……立ち方、か。おまえがビカクの息子だな」
心臓が跳ねた。どうして、父の名前を。いや、それだけじゃない。この男の口ぶり――。
「父を、知ってるのか」
「知っている。あの男は、かつて我を殺したことになっている」
「――っ!」
その言葉に、鳥肌が立った。
殺した? じゃあこの男は、父が倒した……魔王? 目の奥がぐらつく。男は構わず話し続けた。
「我は見てきた。この世界の生死の循環を。このままでは、すべてが黄泉に飲まれる。だから、選べ。おまえが父から継いだ“その資格”で、どちらに立つか。しかと見極めさせろ」
意味が、わからなかった。けれど、その言葉の奥にあるものだけはわかった。この男は本物――魔王、アビスレイン。
背丈こそ2メートルほどで細身だが、俺たちの戦ってきた魔獣なんかとは比べものにならないほどの威圧感がある。
「……ミズナ、下がってろ」
「ダメ」
即答だった。俺と並んで、彼女も男を睨む。ミズナの拳が震えていた。つまりはミズナも彼の強大な力、そして殺気に気づいていた。少しでも目を離してしまえば、一瞬で葬られてしまうだろうという肌を刺す殺気。
男がふと、ミズナに視線を移した。
「……奇妙な娘だ。人間でも、魔でもない。どちらの匂いも、しない」
ミズナは何も言わない。ただ、眉をひそめていた。男の口元が、わずかに笑みを形作る。
「まあ、話はあとでもよい」
次の瞬間、爆風が地を打って、姿が消えた。見えなかった。ただ、直後に感じた衝撃がすべてを物語っていた。
「くっ……!」
ミズナがアビスレインの拳をかろうじて受け止めていた。そのけたたましい衝撃音が、拳の威力を物語っていた。
「くそっ!」
俺は駆け、刀を抜き、ミズナの援護に回る。そして透明になり、全身をRAで包み、気配を断つ。だが――。
「見えているぞ」
男の声が、真横から聞こえた。
瞬間、腹部に衝撃。何かがめり込んでくる感覚。透明なままの俺を、正確に貫いてきた。
「がぅぁ……っ!」
身体が宙に浮いた。喉の奥から血がこぼれた。刀が、手からこぼれ落ちる。身体の骨がばきばきに折れてしまっているのが体感できるくらいに、痛みが全身を駆け抜けた。
地面に叩きつけられる寸前、視界の端でミズナが動いているのが見えた。しかし、彼女もまたすぐに男に捉えられ、蹴り飛ばされていた。
魔王アビスレインの動きすら目で追えるレベルにない。残像だけを追っているようだった。
再度ミズナは立ち上がり構える。が、アビスレインの姿がミズナの前に浮かび上がったかと思えば、ミズナは途端に吹き飛ばされる。地面を転がり、木にぶつかり、顔を下にして倒れる。白銀の髪が赤くにじんでいた。
「ミズ……ナ……!」
腹に走る激痛。咳とともに、何か温かいものが喉を通る。うまく息が吸えない。死ぬ……のか。俺は。
刀を探すが、指が動かない。足も動かない。
目の前に、靴音ひとつ立てず立っていた。全身黒に染まったような、影のような輪郭が俺の顎を乱暴に持ち上げ、灼眼の瞳が俺の顔を眺める。
「やはり、ビカクの子か。似ているな」
言葉の意味を理解する前に、背後に何かが炸裂した音が響いた。ミズナの身体が、地面を滑りながら跳ねる。
「ミズナ――!」
声にならない声をあげた瞬間、世界が音を失った。
ふっと、重力がなくなった気がした。視界の輪郭が揺らぎ、音が遠ざかっていく。
「く……そ……」
歯を食いしばるが、力が入らない。指先から抜けていく熱。思考が霧に呑まれていく。これ以上、守れない。
ミズナも。ノアールも。誰も。
「……あ……」
最後に目に映ったのは、血の中に沈むミズナの背。
意識が、闇に落ちた。
***
この場所を、俺は知らないはずだった。焼け焦げた鉄のような、血の匂い。立ち並ぶ黒曜石の柱が、遥か上空の天井へと伸び、ねじれた星の光が城内に降り注いでいる。ここは、やつらの本拠地、魔王城だ。この場所をなぜだか知っていた。
魔王城、玉座の間に魔王。それに父が対峙していた。コウノ・ビカク。肩で荒く息を吐き、左腕からは血が滴っている。刀を片手に、今にも膝をつきそうな足取りで、ゆっくりと前へ出ていた。
その足元には、もう動かない数名の人間の姿があった。白金の甲冑の男――クレイモアだ。誰よりも綺麗な鎧を着ながら、今は壁にもたれて意識を失っていた。他にも、仲間だったらしい男たちが数人、血を流し倒れている。
なんだ。これは、どうなっている。俺は何を見ているのだろう。
一人だけ立っている父に、玉座から声が降ってくる。
「しぶといな。まだ倒れぬか」
声の主は、魔王――アビスレインだった。赤い髪を背に流し、灼眼の瞳に光を宿している。胸には刀傷が深々と残っているはずなのに、どこにも痛みの色がない。ただ、すべてを見通した者のような目をしていた。
「ここまでだ。君の魂もまた、黄泉へ還る。終わらぬよ、戦士の男。黄泉が、終わりを許さぬ限りは」
その言葉を最後に、俺の視界が揺れた。父の膝が崩れ、刀が床を擦る音がした。
ああ、また、意識が――落ちていく。
床が抜け、空間がひっくり返るように色を失い、一面が白の闇に飲み込まれる。
次に俺は、白い霧が立ち込める川を見ていた。
川が流れていた。音もなく、底のないほど澄んでいて、自分の足元には感覚がなかったが、そこには穏やかな緑が茂っている。見覚えのある草が群れていた。細く裂けた葉が、風もないのにゆっくりと揺れている。水面のきらめきを受けて、ひとつひとつの葉が淡く脈打つように光を返す。
緑というには薄すぎて、銀というには柔らかすぎる。どこか夢の色に近い。その草々は、まるでこの世とあの世の境目に咲く印のような、この植物の名を俺は知っている。
向こうに、女が立っていた。そして父ビカクもいる。
女は白銀の髪。白い衣に翼が生えている。その瞳は凪のようで、どこまでも冷たい。
「勇者の魂よ。あなたの刻はここまでです」
女は言った。だが、父は笑った。
「こんな綺麗な女に迎えに来られるとは思わなかったぜ」
女は動じない。声にも感情はない。ただ定められた手続きをなぞるように言う。
「あなたの魂は、黄泉の王の命に従い、回収する。コウノ・ビカク。終わりを受け入れなさい」
「悪いが……俺はまだ終われねぇ」
その言葉とともに、父の身体から光が噴き出した。それは世界の理を切り裂くような、自分の中にも流れるRAの気配を感じた。
光が空間を捻じ曲げ、川の流れを逆流させる。女の身体が、その力に引かれて微かに揺れた。父がその手を掴んだ。
「来い。」
「……は。なにを!」
「お前、気に入った。一緒に来い。運命も、死も、理もまとめて全部、ぶっ壊してやる」
その瞬間、川が裂けた。光が逆巻き、女の身体が白い闇へ引きずり込まれていく。
そして……場面は再び魔王城へ切り替わる。
魔王城、ビカクが立っていた。対峙するはアビスレイン。その構図はさきほど見たままだった。だが、違ったのはビカクの背後に、さきほどの女が実体を持って佇んでいたのだった。
魔王アビスレインが、目を見開く。
「それは……ヴァルキュリア。黄泉に仕える者が、現世に……? ありえん」
「知らねえな。俺が引っ張ってきた。ただそれだけだ」
「主は秩序を乱した。魂の道筋を、断った。その結果が、何を生むかもわからずに」
「知るかよ。てめえらの仕組みになんざ興味はねえ。生きて、終わるときは――俺自身が決める」
女――ヴァルキュリアは何も言わなかった。ただ、その背に寄り添うように立ち、魔王の視線を受け止めていた。
その表情に、あたたかさが宿っていた。後悔のような、けれど美しい温度があった。
……そして、これが夢だとわかった瞬間、終わった。
俺は知らなかった。そのヴァルキュリアこそが、俺の母、ユカリだったことを。
そして目を覚ます。が、まだ夢? なのか。
夜だった。湿った風が窓を揺らし、どこか遠くで虫が鳴いていた。薄い掛布の下で汗に濡れた身体が震えていた。息を吸っても吸っても肺に届かず、心臓の音ばかりが耳の奥で膨らんでいた。苦しい。
わかっていた。これは夢で、記憶ではない。けれど、肌の裏側に刻まれたような感触だった。
揺れる視界の隅に、母さんがいた。ユカリ。微笑んでいたようにも見えたが、どこか哀しげだった。そして母さんがいるということ、そしてこのシーン。俺が5歳の頃の記憶?
母と言葉を交わす父の声が、何かを制止しようとしていた。やめろ。お前が消えてしまう、と。でも母は、首を横に振った。
「この子の中に、私はいる。それでいいの」
そう言って、母は俺の胸元に手を添えた。すぐに、ふっと何かが流れ込んできた。熱とも冷たさともつかない、けれど世界の底から立ち上るような気配。身体の内側に風が吹き込み、骨の奥に何かが触れたような感覚だった。
ただのRAではない。もっと古く、もっと深い。世界の根に指をかけるような。母が注いだそれは、命を繋ぐだけのものではなかった。
あの夜、俺の中に生まれた“異質”。RAの流れそのものに干渉し、すべてのRAや秩序を透過するような、透明の感触。
それは、母の中にあった“異郷の力”の残響だった。この日を境に俺の透明化の能力は発現した。
母の手のひらは、いつの間にか透けていた。肩口から、腕から、少しずつ色が抜けていく。けれど、母は何も言わなかった。それは悲しみではなく、確信のようだった。これは、母が死んだ日、俺がまだ幼児だったころの、遠い記憶で間違いない。
「セッカ。あなたは生きて」
その声が遠ざかるころには、母の輪郭はもう曖昧だった。
***
夢は、そこまでだった。
目が覚めたとき、最初に感じたのは既視感だった。ゆっくりと身を起こす。天井が高い。黒い柱が並ぶ。俺はこの場所を知っている。さっき見た。夢の中で。だが、まだ頭が冴えない。
徐々に記憶の断片が押し寄せてくる。俺たちは林の街道を行き、男が現れ、ミズナが吹き飛ばされた。アビスレイン――あの男が、俺たちは……。
「目覚めたか」
声がした。穏やかな声だった。
玉座に座っていた。男――魔王アビスレイン。漆黒の衣をまといながらも、肌は透き通るほど白く、目の奥には灼熱の赤が佇んでいる。姿勢は崩さず、ただ俺を見つめていた。
「……あいつらは?」声が自然に出た。ノアールとミズナ。あの時、ふたりとも……。「死んで……」
「心配は要らん。ふたりとも生きている。隣の部屋で休ませてある」
安堵とともに気づく。痛みが、ない。腹に加わった衝撃、身体に響いた骨が割れる音、内臓ごと粉砕された血の匂い、そのすべてが消えていた。服は裂けているのに、肌には傷一つ残っていない。
視線で問いかける前に、アビスレインが薄く笑った。
「お前の治癒は、我が側近によるものだ。彼女の力だよ。姿を見せるか、ルシエラ」
と、その呼びかけに応じるように、柱の影から女が現れた。人の形をしているが、その気配は明らかに人ではない。青白い肌、背に黒い翼のようなものを備え、艶のある黒い髪をなびかせながら歩いてくる。目は琥珀色。けれどどこか空虚だった。人の姿を借りているだけの、異形。
「……治癒の魔獣か?」
「名はルシエラ。再構築する能力を持っている。人間であれば、死の一歩手前からでも引き戻せる。魔王軍でも我に次いでの実力者だ」
ルシエラは無言のまま、俺に視線を向けて微かに頷いた。感謝の言葉を口にしようとしたが、喉の奥に詰まったまま出てこなかった。ただ、確かに自分はここで生き返らされたのだ。
玉座の間。アビスレイン。側近の魔女。そして俺。自分がどこにいるのか、ようやく実感が追いつく。――ここは、あの夢で見た場所だ。父が、最後に戦った魔王城。その玉座の前。俺は今、かつて父が立ったその場所に、立っている。
続く言葉は、なかった。ただ、喉の奥に何か熱いものが、ゆっくりと膨らんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます