12,魔王城


「君の父――コウノ・ビカクとは、かつて協定を結んだ」

 魔王アビスレインの声は、玉座の間の静寂に自然に溶け込んでいた。

「互いに、すべてを知った上で、選択をした。君のいるこの場所は、その選択の果てにある」

 俺は沈黙のまま、視線で続きを促した。アビスレインは微笑すら見せずに言葉を継ぐ。

「まずひとつ。我は、ビカクに殺されたことにした。それが人間の世界にとって都合がよかった。王国にとって、英雄が魔王を討ったという物語が必要だったのだ。我が魔界の魔獣の活性化を止めることで、その虚構は完成する。それらは我が身を隠し、力の奔流を押さえ込むことで果たされた。第二に、我々は互いの知る“黄泉の国”について、すべての情報を開示し合った。君の父は、我に人間の魂の在り処と構造を語り、我は彼に魔界がどう位置づけられているかを明かした。そして第三に――」

 アビスレインはそこで言葉を切った。わずかに目を細めると、手元にあった金の装飾のついた椅子の肘掛を軽く撫でた。

「第三に、我々は決意した。“黄泉の国の思惑をたしかめる”ということをだ」

「……は?」思わず声が漏れた。「ちょっと飛躍しすぎじゃないか? そんな神話みたいな話、どうやって理解……」

「焦るな」アビスレインは手を軽く振って俺を制した。「君の父も、初めはそう言った。だが、理解するには少しだけ想像力が必要だ。世界は神によって作られたのではない。“仕組み”として繰り返されているだけだ。黄泉の国とは、その循環を監視し、調整し、魂を管理する装置のようなものだ。我とて神ではない。だが、仕組みに抗い、新たな世界を見ることは不可能ではない」

 沈黙が落ちる。

「新たな世界、とはすなわち“循環の選択”、ということだ。お前の父は、そのために君を残した。コウノ家の血を継ぐ、特異点として。あるいは終着点と言うべきか」

 俺は息を飲んだ。アビスレインの目が、まっすぐこちらを射抜いていた。

「ビカクは言った。“俺の息子セッカだけが、選択の鍵になる”と」

 その言葉は、胸の奥にひどく重たく響いた。視線がすっと俺に向けられる。その目は、深淵を覗くように俺を探っているようにも思えた。

「我は、死んでも復活する。何度でもな。それは我が魔王だからだ。“魔界の王”の存在意義そのものが、そう設定されている。個を超えた枠組みが、それを許容している。それらはすべて……黄泉の国の思惑によって」

「思惑?」

「人間界が“生”を司るのに対し、魔界は“死”を司るよう意図的に設計されている。生まれ、死ぬ。魂が育ち、死によって還る。その循環を維持するために、魔界という存在が置かれた。魔獣は、言うなれば死を誘発する装置だ。我の復活によって彼らが暴走する。だが逆に言えば、我がいない間、魔獣たちは鎮まり、世界には平和が訪れる。それはまるで……魂の“栽培期間”のようでもある。黄泉が望む、成熟した魂を収穫するための、準備期間だ。死を欺いている最中、魔獣たちを抑え込むのには少々苦労したがな」

 苦労した? なるほどここで合点がいく。なるほどあのノアールとともに襲われた魔獣を始め、一部活性化していたのは、そのためかと。

 しかし、言葉の意味をすぐに理解するには、情報が多すぎた。けれど、その冷静すぎる声の奥に、何かへの怒りが確かに滲んでいた。彼はただ世界を破壊したいわけでも、征服したいわけでもない。そうではない何か――もっと深い理由がありそうに思える。

「お前は……その、死んで黄泉の国へ行けないってことなのか?」

 俺の問いに、アビスレインは頷いた。

「我は、死ねないのではない。死んでも“還れない”のだ。黄泉が、我を受け入れない。我は、黄泉の意志によってこの世に囚われた存在だ」

 黄泉の意志。生と死の配役。その“秩序”そのものに、彼は抗おうとしているのだろうか。

「アビスレイン教えてくれ。なぜ……父さんは命を絶った?」

 その問いに、アビスレインは眉一つ動かさず言った。

「それはもう、ここまでの話で理解できるだろう」

 彼の瞳はわずかに細まり、まるで記憶を遠くにたぐり寄せるようだった。

「彼は、黄泉の国へ渡った。それが答えだ。自らの魂を、仕組みへ投じたのだ」

 その言葉が何を意味するのか、一瞬で理解はできなかった。ただ、俺の父は死んだのではない――自らの意志で、“向こう側”に渡り、死してなお、生きているのだ。それが、死に際の常套句であったはずの「ユカリのもとへ旅立つから」という言葉の意味か。

「ビカクという男は、我が知る限り最も成熟した“勇者”だった」

 アビスレインはゆっくりと歩きながら語った。

「我は数千年という時を、死に、甦り、そのたびに勇者と剣を交えてきた。人間という存在の強さも、愚かさも、痛いほど知っている。その中で、ビカクは唯一、我に“問うた”存在だった。なぜ死は存在するのか。なぜ人は生きねばならぬのかと。彼は戦うだけの男ではなかった。思索する者だった。そして我は初めて、共に未来を語りたいと思った」

 アビスレインの足が止まる。

「我々は協定を結び、黄泉の国の構造と、この世界の終焉の在り方について研究を進めた。そして一つの結論に至った。終焉――この世界の果て。それはただの崩壊ではなく、“選択”によって引き起こされる」彼は俺を見た。「そして、その鍵を握るのが、お前だ。ビカクの息子よ」

 喉の奥が熱くなった。理由もなく、目の奥がじんとした。

「なぜ……俺なんだ」

 その問いに、アビスレインはゆっくりと首を横に振った。

「それは“勇者”の血に理由がある。いいか、ビカクの息子。もともと“勇者”とは、魔王を討ち滅ぼした者に与えられる称号にすぎなかった。しかし……時代が進むにつれ、その意味は捻じ曲げられていった。ゴードン家が現れてからは、その称号は見せ物のように毎年のようにばら撒かれた。力の有無ではなく、政治の道具として」

 彼の声が低くなった。

「だが本物の勇者は、そうではない。我を葬った者――それはいつの時代も、“コウノ家の血”だった。名が変わろうとも、姿が変わろうとも、必ずその血筋だけが我の命を絶った。そして君が、その血の末裔であり終着点。七十二代目だ。終焉を迎える“最後の勇者”だと、ビカクはそう断じた」

 沈黙のなか、俺は自分の両手を見つめた。その手は震えていなかった。だが、重さを感じていた。言葉にならない何かが、今この手の中に、確かに託されている。

「なぜ、そこまで言い切れる……?」

 俺の声は、疑念というより、ただの確認だった。アビスレインは少しだけ目を伏せ、答えた。

「数千年前、我が“魔王”として最初に君臨したときのことだ。まだこの世界が今ほど制度に毒されていなかった頃、我はこの玉座の地下で、ある石碑を見つけた」

 語りながら彼は、まるでその場に立っているかのように視線を遠くへ向ける。

「しかし、当時の我には、それが何語なのかさえわからなかった。意味も、読み方も……いや、“理解させてもらえなかった”のだろう。我は生の存在ではない。あの碑文が意味を持つのは、おそらく人間――それも、コウノの血を継ぐ者だけに向けられたものだった」

 俺は言葉を挟まず聞いていた。アビスレインは続けた。

「ビカクと協定を結んだ後、その存在を思い出し、彼に伝えた。すると彼は、まるで懐かしい詩でも読むように、チキュウトーキョーなどとぶつぶつ。そして、それを口にした。『終焉となる七十二代目は、分断を選んだ』と」

 彼の言葉に、俺の心臓が一拍、大きく打った。

「それはつまり、この世界は“七十二”の周期で、一人の選択者が現れるということだ。そのたびに、誰かが選び、この世界は生まれ変わってきた。そして……今が、コウノという選択を宿命付けられた循環、七十二の周期、というわけだ」

 信じがたい話だ。しかし、否定できないほど真実味があった。父のことを思い出す。彼が遺していった書物、文字、記録。俺はぽつりと呟いた。

「父さんの書いたものには、そこまで書いてなかった。七十二、という数字は見た。でも、そこまでのことは、なにも」

 アビスレインは頷いた。

「ビカクはすべてを記さなかった。恐らく、お前に“選ばせる”ためだ。知識によって導かれるのではなく、覚悟で歩ませるために、な」

 沈黙が降りた。魔王の間の空気が、何かを決定する前の、深い水面のように静まる。そしてその沈黙の奥で、俺の中に、かすかに揺らぐ何かがあった。それは恐れではなく、予感だった。もう戻れない。ここから先は、自分自身の意思で進むしかないのだと。

「ビカクは人間界にも、この石碑のような遺物があると言っていた。それは王国にある扉。今はそれすらも人間の玩具として扱われているようだがな」

「それは……」覚えがあった。あの二次試験――白夢審問で使用されていた扉。そしてそこには見覚えのない文字が記されていたが、それを俺は読めた。つまり俺は「知っている」

「『あなたが壊れたのは、壊れないように頑張ったからです。』と記してあった」

「ビカク曰く、その扉は過去、この世界が構築される以前の遺物だそうだ。そしてその扉の向こうで展開される過去との対峙は、治療器具だと推察していた。精神疾患を患った生物に対する治療装置。だからこそ、その文言なのだと」

「父さんは、どこまで知っている?」

「……ビカクは、今どこにいると思う? それが答えだ」

 アビスレインは尋ね返してきた。その声音に、俺は息を呑む。

「黄泉の国だ。現世とあちらをつなぐ術は限られている。あちらに渡る方法はお前の母のような、ヴァルキュリア……つまりは、黄泉の王の使徒に選ばれた魂でなければならない。だが。しかし、だ。お前は我に半殺しにされたとき。魂が、境界まで落ちたはず。だが戻ってきた。あの淵で――何を見た? 見れた?」

 それは、夢のような感覚だった。だが、確かにあった。死にかけたときに広がっていた景色、刀を構える父の姿、髪を揺らして微笑む女、そして――注がれた、あの透明な光。

「父さんがいた。母さんも……。俺の記憶のなかの情景と、父さんの記憶だった。でも、ただの夢じゃない。何かが、見えた気がした」

 アビスレインは眉間に皺を寄せ、低く息を吐いた。

「やはり、お前にはまだ足りない。魂の強度が」

「強度?」

「そうだ。魂が強くなければ、黄泉へ呼ばれることはない。お前はまだそこに至っていない。だから、見えたのは記憶の殻に包まれた、記憶の接触にすぎん」

 俺は悔しさにも似た焦燥を感じた。足りないのか、まだ。すると、アビスレインは背を向け、玉座の方を見ながら言った。

「なぜ黄泉に渡る必要があるのか、知りたいか?」

 俺は無言で頷く。

「それは、“知る”ためだ」

 アビスレインの声が、玉座の広間に響いた。

「それ以上でも、それ以下でもない。選択の時は、否応なく訪れる。知らなくても、決断は迫られる。だが、選択には何が必要か。迷いか。責任か。いや、“知見”だ。知らぬままに選ぶことの残酷さは、死よりも醜い」

 アビスレインは振り返る。その瞳は、どこか遠くの戦場を見ているようだった。

「お前がどちらを選ぼうと、それは自由だ。だが……選び取れ。そうでなければ、七十二という輪廻に抗うことなどできない。我ら魔族や人間が願う未来はお前に託されている。その協力を我は惜しまないだろう」

 その言葉が俺の胸に刻まれていった。

「だが、選択の時がどこでどのような事象で発生するのかは我も未だ知らぬ……ここまで聞いて、ビカクの息子。お前はどうする?」

 アビスレインの問いかけに、俺は何も言えなかった。言葉が喉に引っかかる。頭の中では膨大な情報が渦を巻いているのに、それを整理する術を持たないまま、ただ立ち尽くす。

 しばらく沈黙が流れたのち、アビスレインが吐き出すように言った。

「それがお前の弱さだ」

 その言葉には怒気も嘲りもなく、断定だけがあった。不思議と、否定する気にはなれなかった。

「まあよい。まだ時間はありそうだ」

 アビスレインは軽く肩をすくめて続ける。

「お前を解放してやる。戻れ。お前の“答え”は、お前自身が決めろ。だが、覚えておけ。この世界は、そう悪いものでもない。我とビカクはこの世界を美しい。そう思っている。この美学に共鳴することを願っているぞ」

「これから俺は、どうすればいい」

 ようやく絞り出した問いに、アビスレインは一度だけ目を細めて、少しだけ首を傾けた。

「あの女の名はなんという?」

「女?」

「銀の髪に、赤い目。そして、目の下に二つの涙ぼくろがあった。異質な匂いを纏っていた。お前の傍にいたはずだ」

「ミズナ、だ」

 俺はそう答えた。だが、言いながら胸の奥に奇妙な違和感が浮かぶ。ミズナの涙ぼくろは――三つ、だった気がする。

けれど、口には出さなかった。アビスレインの見間違いだろう。そう飲み込んだ。

「そうか。ならば、お前を彼女たちの元へ案内させよう」

 アビスレインはそう言って、魔獣の女に軽く顎で指示を出す。

 扉がゆっくりと開く。

 俺は最後にもう一度だけアビスレインを振り返った。その瞳に、魔王と呼ばれた者の威圧はなく、ただ澄んだ赤色の深淵だけが揺れていた。

 そのまま、俺は無言で歩き出す。ノアール、ミズナ。俺たちはこれから、どこへ向かう?

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