第128話 戦士の帰還、最高の装備
翌朝。
民宿の前にタクシーが停まった。
坂本は、ここに来た時と同じダークグレーのスーツに身を包んで立っていた。だが、その佇まいは数日前とは別人のように変わっていた。
猫背で亡霊のように揺らめいていた姿はもうない。背筋はピンと伸び、綺麗に磨かれた革靴が砂利を踏みしめている。
それは「囚人服」ではなく、戦場へ赴く戦士の「鎧」に見えた。
「お世話になりました」
坂本は、俺とリサ、そして見送りに集まったホシノとモンスターたちに向かって深く一礼した。
ホシノがトテトテと彼の前に歩み寄る。
「おじさん、これ」
彼女が差し出したのは庭で拾った、どんぐりだった。ピカピカに磨かれている。
「仕事で、また『キーッ!』てなったら、これを見てね。ここでのこと思い出してね」
「……ありがとう、ホシノちゃん。最高のお守りだ」
坂本は、そのどんぐりを高級なシステム手帳のポケットに大切そうにしまい込んだ。
どんな高価な万年筆よりも、今の彼には価値のある装備だ。
そして彼は俺に向き直ると、鞄から一枚の書類を取り出した。彼がここへ来た最大の理由。
俺を会社へ連れ戻すための嘆願書であり、決裁書類だった。
「田中さん。これですが」
「ああ。見てやるよ」
俺が手を伸ばしかけると、彼は首を横に振り、その書類を両手でビリビリと破り捨てた。
「えっ?」
リサが驚きの声を上げる。
「俺が片付けます」
坂本は吹っ切れた笑顔で言った。
「田中さんの力なんて借りなくても、今の俺なら、なんとかなりそうな気がするんです。というか、なんとかします。俺は、あの田中課長が育てた一番弟子ですから」
その言葉に俺は胸が熱くなるのを感じた。
彼はもう、俺の助けを必要とする「迷える部下」ではない。自分の足で立ち、自分の頭で考え戦うことができる、一人前の「プロフェッショナル」だ。
「……そうか。頼もしくなったな」
俺は彼に右手を差し出した。
「困ったら、いつでも来い。ここは『逃げ場所』じゃない。『給水所』だ。戦うのに疲れたら、水くらい、いつでも飲ませてやる」
「はい……!」
坂本は、俺の手を力強く握り返した。
その手は温かく、力強かった。
彼はタクシーに乗り込むと、窓を開けて大きく手を振った。
「行ってきます! 最高の休日でした!」
車が走り出し砂煙を上げて遠ざかっていく。
俺たちは、その姿が見えなくなるまで見送った。
「行っちゃいましたね……」
「ああ。でも、もう大丈夫だろ」
俺は、ホシノの頭を撫でながら秋の空を見上げた。
◆◇◆
走るタクシーの中。
坂本は大きく深呼吸をすると鞄の奥底からスマホを取り出した。
数日間、深い眠りについていた黒い板。
彼は指に力を込め、電源ボタンを長押しした。メーカーのロゴが表示され、ホーム画面が立ち上がる。
その瞬間。
ピロン、ピロン、ブブブブブッ!
怒涛の通知音が静かな車内に鳴り響いた。
メール二百件、着信五十件、チャットの未読は数え切れない。画面は「至急」「緊急」「トラブル」の文字で埋め尽くされていく。
以前の彼なら、この時点で胃に穴が空いていただろう。
だが、今の彼は違った。
「……ふっ。相変わらず、騒がしい世界だ」
彼はポケットの中のどんぐりの感触を確かめるとニヤリと不敵に笑った。
その目には、もう焦りも恐怖もない。あるのは溜まりに溜まった難題を一つずつ片付けてやろうという、静かな闘志だけだった。
「さて、やりますか」
彼はスマホを素早く操作し、最初の一件目に電話をかけた。
「もしもし、部長? 坂本です。ええ、リフレッシュ完了しました。……その件ですがご心配なく。今から戻ってすべて解決します」
窓の外には、見慣れたはずの景色がいつもより少しだけ鮮やかに流れていく。元社畜・坂本健太の新しい戦いが始まろうとしていた。
だが、彼はもう一人ではない。心の中に温かいスープの味と焼き芋の煙の匂い、そして「いつでも帰れる場所」がある限り、彼は決して折れたりはしないだろう。
留咲萌町の空の下、俺はふとくしゃみをした。
「噂されてるかな」
「きっと、バリバリ働いてますよ」
リサが笑う。
ダンジョン民宿は、今日も平和に、そして温かく、次の「疲れた旅人」を待ち続けている。
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