第127話 焼き芋の煙

 スマホの電源を切ったあの夜、坂本は一度も目を覚ますことなく、泥のように眠り続けた。

 そして迎えた翌朝。彼が起きてきたのは、太陽がすっかり昇りきった、午前九時過ぎだった。ここ数年の彼にはあり得ない大寝坊だ。


​「……おはようございます」


 起きてきた彼の顔を見て、俺とリサは思わず顔を見合わせた。

 そこには昨日までの死人のような形相はなかった。髪は寝癖で爆発しているし、ジャージ姿は相変わらずだが、その肌には血色が戻り、瞳からは、あの焦燥感に満ちた殺気が消え失せていた。憑き物が落ちた、とはまさにこのことだろう。


​「よく寝たな」


 俺がコーヒーを差し出すと、彼は照れくさそうに頭を掻いた。


「はい。夢も見ませんでした。……スマホのアラームがない朝がこんなに静かだなんて忘れていましたよ」


 ​その日の午後。

 坂本は庭でホシノとワタポコと一緒に落ち葉焚きをしていた。


 かつて「時間の無駄」と切り捨てていたであろうその作業を彼は驚くほど楽しそうに行っていた。

 竹箒で落ち葉を集め、火をつけ、その中にアルミホイルで包んだサツマイモを放り込む。


​「おじさん、まだかなあ?」


 ホシノが待ちきれない様子で焚き火を覗き込む。


「焦るな、ホシノちゃん。昨日のシチューと一緒だ。じっくり待つのが美味しくなるコツなんだ」


 坂本は煙に目を細めながら穏やかに諭す。

 その口調は部下を急かしていた頃の彼とは、まるで別人だ。


 ​やがて香ばしい匂いと共に焼き上がった熱々の焼き芋をみんなでハフハフと言いながら頬張る。


「熱っ!  ……でも、うまい!」


 黄金色に輝く芋の甘さが口いっぱいに広がる。


 坂本は空を見上げた。

 高く澄んだ秋の空には、うろこ雲がのんびりと流れている。


​「田中さん」


 彼は焼き芋を片手にぽつりと言った。


「俺の手帳、来週まで予定がびっしりなんです。会議、商談、接待……。白い部分なんて、一行もない」


 彼は自嘲気味に笑った。


「でも、今、この瞬間は……俺のスケジュール帳には存在しない時間です。誰の予定でもない俺だけの空白の時間。……こんなに贅沢なものがあったんですね」


 ​煙の向こうでホシノがワタポコに焼き芋の皮をむいてあげている。プルが落ち葉の山にダイブして遊んでいる。


 坂本は、その光景を目に焼き付けるように見つめていた。


​「……戻ります。東京へ」


 唐突な、しかし力強い宣言だった。


 俺は驚かずに尋ねた。


「大丈夫か?  まだ休んでいてもいいんだぞ」


​「いえ。これ以上ここにいたら本当にダメ人間になりそうですから」


 彼は冗談めかして言ったが、その目は真剣だった。


「それに確かめたいんです。この『空白』を知った俺が、あの場所でどこまでやれるのか。逃げるんじゃなく、自分の足で立って、自分のペースで歩けるのかどうか」


 ​彼は、もう「社畜」として戻るのではない。

 一人の人間として仕事という名のモンスターと対等に向き合うために戻るのだ。


​「そうか。お前ならやれるさ」


 俺は焚き火の中に新しい薪をくべた。

 パチパチと、火の粉が舞い上がる。

 それは彼の再出発を祝う、小さな花火のように見えた。


 ​その夜、彼はまだ電源を入れていないスマホを鞄の奥底にしまった。


「こいつの電源を入れるのは、東京に着いてからにします。新幹線の中までは、まだ俺の休日ですから」


 そう言って笑う彼の顔は、秋の夕日のように穏やかで晴れやかだった。

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