第64話 ありのままの君がいい

 ユキさんは、こぼれ落ちた涙をどてらの袖で、そっと拭った。

​ 静かで温かい時間が流れる。

 吹雪の音は、もう、ずっと遠い世界の出来事のようだった。

 やがて衝撃から立ち直ったリサが、ようやく、いつもの調子を少しだけ取り戻して、しかし、どこまでも優しい声で言った。


​「……そっかぁ。大変だったんですね。一人で、ずっと……」


 それは、もう熱狂的なファンの声ではなかった。憧れの人の、知られざる苦労を思いやり、心から、その身を案じる、一人の誠実な支援者の声だった。

 ​ユキさんは、そんなリサを見て、ふわりと、今度は本物の心の底からの笑顔を見せた。


「……うん。聞いてくれて、ありがとう」


 ​彼女は俺の方を少し不思議そうに見つめた。


「田中さんは……あんまり驚かないんですね。VTuberだって聞いても」


 ​俺は頭を正直に、ぽりぽりと掻いた。


「いや、すまん。実はまだよく分かってなくてな。インターネットの中の、女優さん、みたいなものなのか?」


 ​そのあまりにも素朴な俺の問いに、ユキさんは、きょとんとした後、ふふっ、と声を立てて笑った。

 今日、ここに来てから初めて聞いた鈴が鳴るような可愛らしい笑い声だった。


 普段、彼女が相手にしているのは、熱狂的なファンか、あるいは批評家だけなのだろう。

 俺のような全くの門外漢の何の先入観も持たない存在が、逆に新鮮で心地よかったのかもしれない。


 ​俺は言葉を続けた。


「だが、仮面を被って仕事をする気持ちなら、少しだけ、分かる気がするよ」


 俺は自分の過去を、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


​「俺も会社にいた頃は、『田中課長』っていう仮面を被ってた。いつも、にこにこして部下や上司に気を遣って取引先には頭を下げて……。本当の田中雄介が、どんな顔をしてたのか、自分でも分からなくなる時があったよ」


 ​俺は穏やかな光を放つ、ダンジョンの壁を見渡した。

 そこには、ただ、ありのままに存在する生き物たちの姿があった。


​「でもな、ここにいる連中は、違う。ゴブリンは、ただのゴブリンだ。スライムも、ただのスライム。何か、他のものになろうなんて、思っちゃいない。そして、この町のじいちゃんばあちゃんも、そんなあいつらを、ただ、そのまま受け入れてる。もしかしたら……人間だって、本当は、それでいいのかもしれないな」


 ​その時だった。

 今まで、少しだけ遠巻きに様子をうかがっていたキノコうさぎが、てちてち、と、ユキさんの隣までやってきた。

 そして、そのふわふわの鼻先を彼女の手にすん、と優しく押し当てた。


 この生き物は、彼女が何百万人のファンを持つ女王様だなんて知る由もない。

 ただ、目の前にいる、少しだけ悲しそうな女の子にシンプルな温もりを届けに来ただけなのだ。


 ​ユキさんは、その小さな温かさにハッとしたように目を見開いた。


「……私の配信では、みんな完璧な『スノーティア』を求めています。雪の女王は、弱さを見せません。孤独を感じたりもしない。ましてや吹雪で遭難して洞窟の中で泣いたりなんて絶対に……」 


 ​俺は思わずふっと笑ってしまった。


「そりゃそうだろうな。だが、俺はその女王様より、今、目の前にいる、ユキさんの方がよっぽど、面白くて、魅力的な人だと思うがな。少なくとも、あんたは最高の避難場所を見つける才能と、モンスターに好かれる才能は、ピカイチだ」


 ​俺の不器用な最大級の賛辞。

 その言葉が彼女の中で、何かを変えたようだった。

 完璧じゃない、ありのままの自分。弱くて、不器用で、迷子になる自分。そんな自分も、もしかしたら誰かにとって価値のある存在なのかもしれない。


 ​彼女はリサの方をおそるおそる見つめた。


「……がっかり、した? 私が、本当はスノーティア様みたいに、クールじゃなくて……」


 ​リサは、ぶんぶん! と、ちぎれんばかりに首を横に振った。


「しません! するわけないじゃないですか! むしろ……むしろ、もっと好きになりました! スノーティア様のことも、そしてユキさんのことも、どっちも、全力で応援します!」


 ​その一点の曇りもない、ファンからの真っ直ぐな言葉。

 ユキさんの肩から、ふっと、重い何かが抜け落ちていくのが分かった。


​ その時だった。


チカ、チカ……。


 俺が再び火を灯していたランプの炎が揺れた。そして遠くから、うーん、というかすかな機械音が聞こえてきた。


 ​リサが慌ててスマホを取り出す。

 圏外だったはずの画面の隅に、一本だけ電波のアンテナが、弱々しく立っていた。


​「ご主人……! もしかしたら、電気がもうすぐ復旧するかもしれません……!」


 ​この魔法のような、ダンジョンの中の特別な時間が、もうすぐ終わろうとしていた。

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