谷の夜営と囁き

青き谷の中は比較的安全で、道沿いで魔物に遭遇することはほとんどない。


それでも、先の戦闘の異常さを考えれば警戒を解くわけにはいかなかった。


一行は谷を抜ける道のわきに夜営を張る。


馬車の轍が続くその道は月明かりにかすかに照らされ、両脇を囲む木々が闇を深くしている。


荷を降ろし、火を起こす場所を決める。


焚き火は外から見えにくいよう低木の陰に置き、炎も必要最低限に抑えた。


弓矢や剣はすぐ手に取れる距離に置き、見張りの順番も決めていく。


小さな炎の周りに置かれた荷袋や水袋が、ぼんやりとした光を受けて影を落としていた。


火のそばで、グラフとサリオンが声を潜める。


「……あのゴブリンども、倒しても動き出したな」


「えぇ、致命傷負っても立ち上がるなんて……あれ、普通じゃないわよ」


焚き火の光が、二人の険しい横顔を揺らす。


「瘴気か、あるいは……もっと厄介な何かだ」


「厄介……だわねぇ……」


サリオンは腕を組み、炎の奥をじっと見据えた。


その目は、ただの警戒ではない。心の奥で何かが引っかかっているのが見て取れる。


グラフもそれを感じているのか、無言で頷く。


少し離れた場所で、グランが干し肉を口にしようと手を伸ばした瞬間、ミラがそれを素早く奪った。


「おい、それ俺の分だろ!」


グランが声を上げる。


「先に取った者勝ちよ!」


ミラは口を尖らせて返す。


グランは舌打ちし、


「ちっ……覚えてろよ」とぼやいた。


そのやり取りに、セトが半眼で呟く。


「少しは考えて食えよ、また無くなるだろ」


「……うるせぇな」


グランは視線を逸らし、パンを齧った。


セトはそれ以上言わず、背を木にもたせかけ、弓を膝に置いたまま瞼を閉じる。


夜気が頬を撫で、遠くで虫の羽音がかすかに響く。


呼吸はゆるやかだが、指先はいつでも弦を引ける位置にあった。


アマンダは火の影の端に座り、小刀を磨いていた。


研ぎ石が刃を滑る音と、遠くの虫の声だけが耳に届く。


ふと、空気が変わった気がした。


風もなく、温度も変わらないのに、背筋に冷たいものが這い上がってくる。


心臓の鼓動が一拍、遅れた。


──『次の生贄は……お前か……』


耳元で囁かれたかのように、はっきりとした声だった。


アマンダは一瞬だけ目を見開き、闇の奥を睨む。


しかし、そこには焚き火の外に揺れる影しかなかった。


夜営の静けさは変わらない――ただ、自分の中だけが騒がしくなっていた。


その異常な静寂の中、アマンダは再び刃を研ぐ手を止めることなく、心の中でその声を無視しようとする。


だが、無視するたびにその囁きが強く、さらに深く響くように感じられた。


「あれは……ただの風の音よ」と、自分を納得させるように呟く。


しかしその声が、何度も、何度も心に響く。

「お前だ……次はお前が……」


目の前に広がる闇が、まるでその声に引き寄せられているかのように、どんどん深く広がる。


まるで夜そのものが、彼女の周りで動いているかのような錯覚に陥る。


その時、サリオンの低い声が響く。


「……何かが、いる」


アマンダはぴくりと反応し、背後の暗闇に目を凝らす。


けれども、何も見えない。


「……何でもないわ、ただの風だ」と、ぎこちなく答える。


その目は、わずかに震えていた。


サリオンはもう一度静かに周囲を見回すと、無言で首を振った。


「……違うか」


その一言が、アマンダの胸に重くのしかかる。

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