終章:不完全な完全性

 五年後の今。

 私はこの回想録を書いている。


 リナは奇跡的に回復した。

 だが彼女は以前の天才数学者ではなくなった。

 あの超越的な能力は失われてしまった。

 代わりに彼女は、時々空を見つめながら宇宙の歌が聞こえると言う。

 そして時々子供のように無邪気に笑う。


 彼女があの宇宙の深淵で何を見たのか、彼女は覚えていない。

 そして私もまたあの体験を完全に言語化することはできない。


 理解という行為そのものがあの日を境に変わってしまったからだ。


 以前の私は知識を

 現在の私は


 私たちが最終的に到達した方程式はもはや数式ではなかった。それは生きた関係性そのものだった。


I ≒ You(わたしはあなたとほぼ等しい)


 これは数学的な恒等式ではない。

 これは個の境界を保ちながら、それでもなお他者と一つになろうとする不完全で、しかし美しい愛の在り方の記述なのだ。


「≒」という記号が重要だ。

 完全に等しい(=)のではなく、「ほぼ等しい(≒)」。

 そこに僅かな差異が残されている。

 その差異こそが愛を可能にする。


 もし私とリナが完全に同一なら、愛は存在しない。

 愛は差異と同一性の間の緊張関係の中にのみ生まれるからだ。


 リナは今、私の隣で本を読んでいる。

 ベートーヴェンの伝記だ。

 彼女は時々私を見て微笑む。

 その笑顔には、あの天才的な鋭さはもうない。

 でも代わりに、深い優しさがある。


「カイ」


 彼女が言う。


「私たち、結局土星の輪を見に行けなかったわね」


「宇宙旅行はまだ実現していないからね」私は答える。


「でも」


 彼女は私の手を取る。


「私たち、もっと美しいものを見つけたと思わない?」


 私は頷く。

 確かにそうだ。私たちが見つけたもの、それは完璧ではないかもしれない。

 でもそれだからこそ美しい。


 私たちは二人で生きていく。

 宇宙の片隅で互いの不完全さを補い合いながら。

 それこそが私たちが見つけ出した二人だけの方程式の解なのだから。


 窓の外では夕陽が沈みかけている。

 リナの横顔を黄金色に染めながら。彼女はまたあの悪戯っぽい笑顔を浮かべて言う。


「今度は土星じゃなくて、もっと近い星を見に行きましょう。たとえば、


 私たちは笑いながら窓辺に向かう。そして二人で空を見上げる。


 完璧ではない。

 でも、それでいい。


 愛とは完全性ではなく、不完全性を受け入れることなのだから。


(了)

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