第八章:賢者アリアナ

【第一節:聖女の仮面】


私の名前はアリアナ。勇者カイト様のパーティの創設メンバーであり、皆からは「聖女」と呼ばれております。私の役目は、傷ついた仲間を癒し、皆が安らげるように、常に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていること。それが、私に与えられた、大切な役割なのです。

ですから、私は、決して、疲れた顔を見せてはなりません。悲しい気持ちを、表に出してはなりません。私が弱さを見せれば、皆が、不安になってしまいますから。聖女は、強く、清く、そして、誰よりも、優しく、あらねばならないのです。

このヒナゲシの村に来てから、仲間たちが、次々と、変わっていく様子を、私は、微笑ましく、見守っておりました。メリルさんが、フラムさんが、ジークリンデさんが、そして、あのヴィクトリアさんまでもが、リリアさんという、不思議な魅力を持つ村娘さんによって、それぞれの、心の鎧を、脱ぎ捨てていく。本当に、喜ばしいことです。

ええ、喜ばしい、はずなのです。

なのに、なぜでしょう。皆が、リリアさんの前で、素顔の、ありのままの自分で笑い合う姿を見るたびに、私の胸は、きゅう、と、締め付けられるような、寂しさに、襲われるのです。

皆には、もう、リリアさんがいる。では、この、微笑みの仮面の下で、日に日に、すり減っていく、私の心は、一体、誰が、救ってくれるというのでしょう。

いいえ、いけませんわ、アリアナ。あなたは、聖女なのですから。そんなことを、考えては。

私は、今日も、完璧な「聖女」の仮面を被り、皆のために、微笑むのです。


【第二節:誰も見ていない場所で】


その日、私たちは、少し、困難な討伐任務から、帰還しました。皆、多かれ少なかれ、傷を負い、疲弊していました。私は、いつものように、一人一人に、回復魔法をかけ、温かい薬草茶を、淹れて回りました。

「ありがとう、アリアナ様。本当に、助かります」 「さすがは、うちの聖女様だな!」

皆からの、感謝の言葉。それが、私の、存在意義。私は、優雅に微笑んで、こう答えるのです。「お気になさらないで。これも、私の役目ですから」。

全員の治療を終え、皆が、それぞれの部屋に戻った後。私は、一人、宿屋の、共有の談話室で、皆が脱ぎ散らかした、汚れた衣服を、繕っていました。これも、私の、大切な、役目。

でも、一人になった、その瞬間。ふっと、今まで、張り詰めていた、糸が、切れてしまいました。指先から、力が、抜けていく。繕っていた服が、手から、滑り落ちる。私は、ただ、ぼうっと、目の前の、空っぽの空間を、見つめていました。

疲れた…。

心の中で、ぽつりと、呟いた、その言葉。誰にも、聞かれるはずのない、私の、本心。

「…あのう」

不意に、かけられた、優しい声。驚いて、顔を上げると、そこに、リリアさんが、立っていました。手には、湯気の立つ、二つの、カップを持っています。

「アリアナさん、お疲れ様です。よかったら、これ、どうぞ。蜂蜜入りの、ミルクです」


【第三節:「アリアナさん」】


リリアさんは、私のことを、「聖女様」とは、呼びませんでした。ただ、一人の、人間として、「アリアナさん」と、呼んでくれたのです。

「どうして、私が、ここに…?」

「いつも、皆さんのこと、一番、最後まで、見ていらっしゃるから。きっと、今頃、お一人で、何か、なさってるんじゃないかなって、思ったんです」

リリアさんは、そう言って、はにかむように、笑いました。そして、私の手に、温かい、ミルクの入った、カップを、そっと、握らせてくれました。

「いつも、ありがとうございます。アリアナさんが、いてくれるから、皆、安心して、旅ができるんです。でも、そのアリアナさん自身のことは、誰が、癒してあげてるのかなって、勝手に、心配に、なっちゃって」

ドクン、と、心臓が、大きく、跳ねました。

誰も、気づいてくれなかった。私が、常に、笑顔の仮面の下で、心を、すり減らしていることになど。創設の時から、ずっと隣にいたカイト様でさえ、私を「パーティに必須の便利な聖女様」としか、見ていないというのに。

この、ただの、村娘だけが。私の、本当の、疲れに、孤独に、気づいてくれた。

「リリアさん…」

「はい、アリアナさん」

カップを持つ手が、震えます。視界が、滲んで、目の前の、リリアさんの、優しい笑顔が、揺らいで見える。

「あなたは、いつも、皆に、温かいものを、あげていますから。今夜は、私が、アリアナさんに、温かいものを、あげたくて」

ああ、ダメだ。もう、これ以上は、この、完璧な、聖女の仮面を、保っていられない。


【第四節:あなただけが、私の】


「…っ、う…」

私の瞳から、一粒、また、一粒と、涙が、零れ落ちていきました。繕っていた、衣服の上に、小さな、染みを作っていきます。

リリアさんは、驚いた様子でしたが、何も言わずに、私の隣に、そっと、座ってくれました。そして、私が、泣き止むまで、ただ、静かに、そこに、いてくれました。

その、沈黙が、その、穏やかな、温もりが、どんな、慰めの言葉よりも、私の、乾ききった心を、潤していきました。

「ごめんなさい…、私、らしくも、ないことを…」

ようやく、涙が引いた後、私がそう言うと、リリアさんは、ふるふると、首を横に振りました。

「ううん。アリアナさんの、綺麗な涙、見られて、私、なんだか、嬉しかったです」

そう言って、心の底から、ふわりと、笑うのです。

その瞬間、私の心の中に、今まで、感じたことのない、強い、強い、感情が、芽生えました。

この子だ。この子だけが、私の、唯一の、光。この子がいれば、私は、もう、孤独ではない。聖女の仮面など、もう、必要ない。ただの、アリアナとして、この子の隣でだけ、私は、息をすることができる。

この、温かい光を、誰にも、渡したくない。カイト様にも、他の、仲間たちにも。誰にも。

私だけのものに、したい。

私は、にっこりと、いつもの、完璧な聖女の微笑みを、浮かべました。でも、その慈愛に満ちたはずの瞳の奥に、昏く、甘く、そして、決して逃がさないという、独占欲の炎が、燃え盛っていることに、この無垢な子羊は、まだ、気づいていません。

「ありがとう、リリアさん。あなたのミルク、とても、温かいですわ。…ええ、本当に。今まで、飲んだ、どんなものよりも」

この、純粋で、無垢な、私の救い主。

あなただけは、私が、この手で、生涯、守り抜いて、差し上げます。

誰にも、触れさせは、しませんから…


第九章:師匠フェル

【第一節:悠久の孤独】


わらわはフェル。見てくれは、こんなか弱い童女のようじゃが、その実は、もう何百年もこの世界を見てきた、賢者と呼ばれる存在じゃ。今の主は、勇者カイト。あやつの底抜けの自信と力は、わらわの長すぎる退屈を紛らわすには、ちょうど良い。そう、ただの気まぐれじゃ。

…本当は違う。わらわはただ、逃げておるだけなのじゃ。何十年も前に力不足で失ってしまった、たった一人の大切な弟子の幻影から。

カイトは言った。「俺はそいつよりずっと強い。俺についてくれば、もう二度とそんな思いはさせねえよ」と。その無神経で傲慢な言葉に、わらわは救いを求めてしまった。悲しみを忘れるための、より強い力。それに縋れば、もうあの子の夢に胸を痛めることもなくなると、そう思ってしまったのじゃ。

だが、無駄じゃった。このヒナゲシの村に来て、穏やかな時間が流れるほどに、心の傷は疼き出す。リリアという不思議な娘の周りで、仲間たちが次々と素顔を取り戻していく様は、まるで、かつてのあの子と過ごした、温かい日々のよう。

眩しすぎるのじゃ。あの娘たちの笑顔は、わらわが生きる、この長い孤独の闇を、より一層、深く抉る。


【第二節:古い木の根元で】


その日、わらわは一人、村はずれにある大きな楠の古木の下に座っておった。この木は、おそらくわらわが生まれるよりも、ずっと昔からここにある。悠久の時をただ静かに見つめてきた、わらわの同類じゃ。

「…ルカよ」

無意識に、口からその名が零れた。わらわが唯一人、弟子とした子の名じゃ。太陽のように笑う、心根の優しい子じゃった。わらわのこの獣の耳を「素敵だ」と言ってくれた、初めての人間よ。

「お前がおったら…、今頃、わらわは、もっと、うまく、笑えておったかのう…」

誰に聞かせるでもない独り言。木の幹にそっともたれかかり、目を閉じる。そうでもしないと、涙がこぼれてしまいそうじゃった。

「…あのう、フェルさん?」

不意に声をかけられ、目を開ける。そこに立っておったのは、リリアじゃった。手には小さな、野の花の花束を持っておった。

「こんなところで、どうしたの? なんだか、少し、寂しそうに見えたから」

わらわは、いつもの賢者然とした態度を取ろうとした。だが、喉が詰まって、言葉がうまく出てこなかった。


【第三節:ただ、隣で】


「その、木、とっても、大きいね。なんだか、フェルさんみたいだなって、思って」

リリアは、わらわの隣にちょこんと座った。そして、持っていた野の花を、古木の根元にそっと供えた。

「きっと、たくさんのこと、見てきたんだろうなあ」

「…そうじゃな。わらわよりも、ずっと物知りじゃろうて」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。

「フェルさんは、すごいね。何でも知ってて、カイトさんたちに、色々、教えてあげて。…でも、フェルさんの昔のことは、誰も、知らないんだね」

リリアの純粋な瞳が、わらわを射抜く。その瞳に、嘘も、下心も、何もない。ただ、知りたいのだ。わらわ、という人間を。

「…昔、弟子がおったのじゃ」

ぽつりと、わらわは話し始めておった。誰にも話したことのない、話せなかった物語を。ルカという弟子がいたこと。才能豊かで、心優しい子じゃったこと。わらわのこの耳を褒めてくれたこと。そして…わらわの目の前で、その命が散ったことを。

話しているうちに、視界が滲んできたが、もう、言葉は止まらなかった。

「わらわがッ…! わらわが、もっと強ければ、あの子は死なずに済んだのじゃ…! わらわが…、あの子を、殺したも同然じゃ…!」

リリアはただ黙って、わらわの言葉を聞いておった。そしてわらわがしゃくりあげて泣き始めると、その小さな手で、わらわの大きな獣の耳をそっと優しく撫でたのじゃ。

「そっか…。…ルカさん、ていうんだ。きっと、あなたのこと、大好きだったんだね」

リリアは、わらわを慰めなかった。励ましもしなかった。ただ、わらわの悲しみを、ルカへの愛情を、そのまま受け止めて、そう言ってくれた。

「辛かったね。…寂しかったね、ずっと、一人で」

気づけば、リリアの瞳からも、ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちていた。わらわの悲しみが、まるで自分のことのように、そのか細い体に、流れ込んできたのじゃろうか。


【第四節:新しい「家族」】


ああ、そうか。わらわは、ただ、こうして欲しかっただけなのじゃ。

誰かに、この悲しみを、分かって欲しかった。ルカのことを、忘れたくなどなかった。ただ一緒に、あの子を偲んで、泣いてくれる誰かが、欲しかった。

カイトが与えようとした、力任せの忘却ではない。ただ、隣で、共に泣いてくれる、この温かい共感こそが、わらわが何百年も凍てつかせてきた心を溶かす、唯一の魔法じゃったのだ。

「…リリアよ」

わらわは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、リリアの手をぎゅっと握った。

「お主は、わらわの、新しい、弟子になる気はないかえ?」

「え? わたしが、フェルさんの、お弟子さん?」

「うむ。…いや、違うな。弟子、ではない」

わらわは、首を横に振った。ルカは、ルカじゃ。誰にも、代わりはできん。そして、リリアも、リリアじゃ。

「リリア。お主は、わらわの、家族じゃ」

「…かぞく?」

きょとんとする、リリアのその顔。ああ、愛おしい。守ってやりたい。この、温かい光を、この、わらわの新しい宝物を。

「そうじゃ。お主は、今日から、わらわの大事な、大事な、孫娘じゃ。この、ばあばが、お主のこと、何があっても、命に代えても、守ってやるからのう」

わらわの悠久の孤独は、終わった。これからのわらわの長い、長い時間は、全て、この愛しい孫娘のために、使おう。

そう、心に誓った。この大きな楠の木の下で…

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