第2章:見えざる暗殺者

アルヌス平原での勝利は、テリア王国全体を熱狂させた。

劣勢続きだった西部戦線における、まさに起死回生の一撃。その立役者として、一条史人の名は、良くも悪くも王都の軍司令部にまで届いていた。

「第七特務小隊隊長、一条史人。スラム出身の闇魔法使い、か。面白い」

豪奢な装飾が施された作戦司令室。ビロードの椅子に深く腰掛けた壮年の男――テリア王国軍西部方面総司令官、ダリウス将軍は、報告書を弄びながら面白そうに口角を上げた。

「ですが将軍、彼の戦術はあまりに危険です。味方の損耗を一切意に介さず、常に成功確率のみを追求する。非人道的との声も上がっております」

「結果が全てだ、副官。奴は勝った。それも、我々貴族の指揮官が束になっても成し得なかった大勝利を、な。過程などどうでもいい」

ダリウスは、典型的な結果主義者の貴族だった。家柄とコネでのし上がってきた彼にとって、スラム出身の史人は好ましい存在ではなかったが、使える駒である限りは利用し尽くすつもりだった。

「奴に、より大きな権限と部隊を与えよ。バルト公国に、我々の『切り札』の力を見せつけてやるのだ」

この決定が、史人を更なる戦場の深淵へと引きずり込むことになる。

一方、その頃。バルト公国軍の陣営は混乱の極みにあった。

補給路を断たれただけでなく、テリアの一指揮官によって戦術を完璧に読まれ、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。

「『鴉』……。この指揮官のコードネームか。一体何者だ?」

元老院から派遣された司令官、ガイウスは苦々しい表情で地図を睨んでいた。

「情報部によれば、テリアの第七特務小隊を率いる闇魔法使いとのこと。ですが、詳細は不明です。まるで、影に隠れて盤面を操っているかのようです」

「闇魔法使い、か。厄介な……。こちらの通信も傍受されていると考えた方がいいな。奴を野放しにしておけば、我々は何もできんまま敗北するぞ」

ガイウスは決断した。

「特殊暗殺部隊『銀狼(ぎんろう)』を呼べ。目標はただ一つ。テリア軍の指揮官『鴉』の首だ。手段は問わん」

こうして、見えざる指揮官・史人と、見えざる暗殺者・『銀狼』の、水面下での死闘の幕が切って落とされた。

***

史人のもとには、ダリウス将軍からの正式な辞令が届いていた。第七特務小隊は、第十三師団直属の独立遊撃部隊『黒鴉(くろがらす)』へと再編され、人員も装備も大幅に増強された。史人は、一介の小隊長から、一個大隊に匹敵する戦力を意のままに操る指揮官へと昇格したのだ。

だが、史人の生活は何も変わらなかった。相変わらず薄暗いテントに引きこもり、盤面を睨み続けている。

「隊長。いえ、今は司令、とお呼びすべきでしょうか」

テントを訪れたのはリナだった。彼女は増強された衛生兵のまとめ役を任されていた。

「好きに呼べ」

「……皆さん、喜んでいます。これで、戦争を終わらせられるかもしれないって」

リナの言葉に、史人は鼻で笑った。

「楽観的な観測だな。駒が増えれば、盤面はより複雑になる。死ぬ確率が上がるだけだ」

「どうして、そんな言い方しかできないんですか!? アランさんも、ゲオルグさんも、みんなあなたを信じて……!」

「信じる?」

史人は初めて、盤面からリナへと視線を移した。その目は、絶対零度の光を宿していた。

「俺が信じるのは、利用価値のある駒と、裏切らない数字だけだ。信頼などという不確定要素は、戦場ではノイズでしかない。お前も、治癒魔法という利用価値があるからここにいる。それ以上でも、それ以下でもない」

あまりに突き放した言葉に、リナは唇を震わせ、俯いた。彼女の純粋な想いは、史人の心の壁に当たって砕け散るだけだった。

その時、史人の影が微かに揺らめいた。

影話による、緊急通信だった。

《――こちら『目』。異常を感知。三名、いや四名の高魔力反応体が、急速にこちらへ接近中》

《所属は》

《不明。だが、その隠密性と魔力の質……バルトの『銀狼』の可能性が高い》

『銀狼』。バルト公国が誇る、魔法使い専門の暗殺部隊。その存在は史人も知っていた。

(……俺の首を獲りに来たか)

史人は口元に、初めて笑みらしいものを浮かべた。それは、獲物を見つけた狩人のような、獰猛な笑みだった。

「リナ」

「……はい」

「今すぐここから出ろ。ゲオルグに伝えろ。プランC-3を発動。全部隊に通達、敵の奇襲だ。迎撃せよ、と」

「えっ!? 敵って、どこに……」

「いいから行け! これは命令だ!」

史人の鋭い声に、リナは弾かれたようにテントを飛び出していった。

一人になった史人は、ゆっくりと立ち上がると、テントの隅に立てかけてあった一本の黒い杖を手に取った。

「ようやく盤面から出てきてくれたか。……歓迎しよう、暗殺者諸君」

史人の周囲から、濃密な闇のオーラが立ち上る。

それは、これまで情報戦にのみ使っていた闇魔法の、もう一つの側面。幻惑と、欺瞞。敵の五感を狂わせる、純粋な戦闘のための魔法だった。

テントの外では、すでに戦闘が始まっていた。

夜の闇に紛れて潜入した『銀狼』の前に立ちはだかったのは、傷の癒えたアランが率いる騎士部隊だった。

「待ち構えていたぜ、バルトの犬ども!」

アランの持つ魔剣が、燐光を放つ。史人の指示は的確だった。『銀狼』が必ず通るであろうルートに、完璧なタイミングで迎撃部隊を配置していたのだ。

「なぜ我々の動きが!?」

「通信は妨害されている! 奴はどこにいる!?」

混乱する『銀狼』のメンバーたち。彼らの目は、そこにいるはずのない敵兵の幻影を見せられ、耳は偽りの鬨(とき)の声を聞かされていた。史人が張り巡らせた、幻惑の結界だ。

だが、『銀狼』も歴戦の強者だった。リーダー格の男が叫ぶ。

「惑わされるな! 術者は近くにいる! 司令部テントを狙え!」

二人の暗殺者が、アランの部隊をすり抜け、史人のいるテントへと疾走する。

「行かせるか!」

アランが追おうとするが、残りの暗殺者に行く手を阻まれる。

テントに飛び込んだ二人の暗殺者は、しかし、そこにいるはずの標的の姿を見て絶句した。

史人は、盤面を前に椅子に座ったまま、こちらに背を向けていた。あまりに無防備な姿。

「もらった!」

罠だと知りつつも、絶好の機会を逃すわけにはいかない。二人は同時に、必殺の魔法を放った。

だが、その刃は、史人の体を通り抜け――霧散した。

幻影。

「なっ……!?」

「どこだ!」

二人が狼狽した、その一瞬。

テントの天井の影から、一本の矢が放たれた。それは闇を纏い、音もなく、暗殺者の一人の喉を正確に貫いた。

「ガハッ……!?」

仲間が崩れ落ちるのを見て、残る一人が絶叫した。

「上か!」

だが、遅い。

次の矢が、彼の心臓を寸分の狂いなく射抜いていた。

テントの梁の上から、黒い戦闘服に身を包んだ史人が、静かに弓を下ろした。彼が手にしていたのは、闇魔法によって生成された影の弓矢。攻撃魔法が苦手な彼が、唯一得意とする物理的な攻撃手段だった。

「……遅滞戦術の基本は、指揮官の斬首。お前たちがそれを狙うことは、最初から計算済みだ」

史人は冷たく呟くと、死体には一瞥もくれず、テントの外へと視線を向けた。

アランたちが、残りの『銀狼』を制圧したところだった。

「……終わったのか、史人」

アランが、複雑な表情で史人を見上げた。彼は、史人が幻影で敵を誘い込み、弓で仕留めるという一連の流れを、外から魔力の流れで感じ取っていた。情報戦だけでなく、一個の戦闘員としても、史人が恐るべき能力を持っていることを、まざまざと見せつけられたのだ。

「ああ。指揮官暗殺というミステリーの犯人は、いつだって敵とは限らん。そうだろう?」

史人は、まるで他人事のように言った。

その夜、テリア王国軍『黒鴉』部隊の指揮官は、敵の精鋭暗殺部隊を、損害ゼロで返り討ちにした。

この事件は、敵国だけでなく、味方であるはずの『黒鴉』の兵士たちにも、一条史人という男の底知れない不気味さと、絶対的な信頼感を同時に植え付けることになった。

彼は、盤上の駒を操るだけの王ではなかった。自ら敵陣に潜み、敵将の首を獲る、冷酷な暗殺者(アサシン)でもあったのだ。

兵士たちの史人に対する感情は、もはや恐怖を通り越し、一種の畏怖へと変わりつつあった。

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