第1章:盤上の駒と王
西部戦線、アルヌス平原。
かつては黄金色の麦畑が広がっていたというその土地は、今や無数のクレーターと黒く焼け焦げた土くれが広がる不毛の大地と化していた。テリア王国軍第十三師団第七特務小隊、通称『泥啜り』の拠点は、そんな平原に掘られた巨大な塹壕の一つだった。
「また史人の野郎の差し金かよ」
悪態をついたのは、騎士の家系に生まれながら、その奔放すぎる性格ゆえに特務小隊に左遷されてきたアラン・フォン・バルドーだった。彼は名門の出らしく長身で整った顔立ちをしていたが、今は無精髭と泥汚れでその美貌も台無しだった。
「あの陰気な闇魔法使いの言う通りに動いて、何人の仲間が死んだと思ってる!」
アランの怒声に、塹壕内で休息していた兵士たちの何人かが同調するように頷いた。だが、誰もがそれ以上は口を開かない。不満はあれど、一条史人の戦術がこれまで何度も彼らの命を救ってきたのも、また事実だったからだ。
「しかし、アラン。今回ばかりは史人殿の判断が正しい」
アランを宥めたのは、小隊の副隊長を務める古参の魔法兵、ゲオルグだ。分厚い魔導書を抱えた初老の男は、静かに言葉を続けた。
「敵の補給部隊を叩く。定石ではあるが、奴らは必ず罠を張っている。正面から行けば我々が食われるだけだ」
「だからって、陽動のために味方を囮にするのか!? それも、たった三名で敵主力部隊の注意を引けだと? 自殺行為だ!」
「その三名が、最も生き残る確率が高い。そう判断したのが史人殿だ。彼の『目』は、この戦場の誰よりも広く、遠くを見ている」
ゲオルグの言う『目』とは、史人が張り巡らせた闇魔法の通信網と、それによって得られる膨大な情報のことだ。兵士一人一人の生体反応、敵の魔力配置、天候、地形。それらすべてを史人は一つの盤面として捉え、駒を動かすように部隊を指揮する。その駒には、感情も、命の重さもない。ただ、勝つため、そして史人自身が生き残るための、価値があるかどうかの記号でしかなかった。
その時、塹壕の入り口からひょっこりと顔を出した者がいた。治癒魔法を得意とする若い魔法使い、リナ・ミルフォードだった。彼女は両手に抱えた水の入った革袋を差し出しながら、おずおずと言った。
「あ、あの……。一条隊長から、皆さんへ。カロリー補給用の霊水です」
「ちっ、あいつから施しを受けるなんざ、反吐が出る」
アランは吐き捨てたが、他の兵士たちは黙って革袋を受け取った。魔法の代償はカロリー、つまり生命力だ。この霊水は、ただの水よりも効率よく魔力を回復させてくれる貴重品だった。そして、この貴重な霊水を安定して確保するルートを構築したのも、また史人だった。彼は後方の腐敗した補給将校の弱みを握り、最前線に物資を横流しさせているのだ。手段は汚い。だが、そのおかげで兵士たちは飢えずに戦えている。
リナは困ったように眉を下げ、アランの前に革袋を差し出した。
「アランさんも……。これから大事な任務なんですから」
「……」
アランはしばらくリナの純粋な瞳を見つめていたが、やがて乱暴に革袋をひったくると、ぐいっと中身を煽った。
「……史人はどこだ」
「作戦司令室に。ずっと、こもりっきりです」
アランは舌打ちを一つすると、霊水で満たされた体に鞭打って立ち上がった。
「ゲオルグ副隊長、陽動部隊の準備を。俺が行く」
「アラン殿!? しかし、あなたは……」
「一番死にそうにない奴が行くべきなんだろ? だったら俺が適任だ。それに、あのクソったれな盤上の王様に、駒にも意思があるってことを見せてやりてえ」
アランの瞳には、反骨の炎が燃えていた。
***
作戦司令室、というにはあまりに粗末なテントの中に、史人はいた。
床に広げられた巨大な地図。その上には、敵味方の配置を示す無数の石ころが置かれている。史人はその盤面を、感情のないガラス玉のような瞳で見下ろしていた。テントの中には、彼が放つ希薄な闇魔法のオーラが満ち、空気を重くしている。
「……アラン・バルドーを陽動に?」
テントの入り口に立ったゲオルグの報告に、史人は顔を上げずに応えた。
「はい。彼が自ら志願を」
「……そうか」
史人は指先で、味方の駒を示す白い石の一つを弾いた。それは陽動部隊の位置を示す石だった。
「彼の生存確率は、当初の予定より7%低下する。だが、作戦全体の成功率は4%上昇する。……許可しよう」
「! しかし、彼は……」
「駒は、最も効果的な場所で使われてこそ意味がある。それが騎士(ナイト)だろうが歩兵(ポーン)だろうが関係ない。下がれ」
冷たい拒絶だった。ゲオルグは唇を噛み締め、何も言わずに敬礼すると、テントを後にした。
一人になった司令室で、史人は初めて盤面から顔を上げた。彼の脳裏に、スラムの光景が蘇る。飢え、奪い合い、昨日笑い合った友が、翌日にはパン一つのために自分にナイフを向ける世界。信じられるのは自分だけ。他人は利用するための道具。そうでなければ、生き残れなかった。
「……騎士、か」
史人は呟いた。貴族に生まれ、名誉と忠誠を胸に戦う者。史人が最も理解できず、最も嫌悪する存在。そんな男が、なぜ自ら死地に赴くのか。
(理解できん。だが……利用価値はある)
史人は再び盤面に視線を落とし、駒を動かし始めた。アランという予想外の駒の動きによって、盤面はさらに複雑に、そしてより確実な勝利へと近づいていく。彼の頭の中では、すでに戦闘のシミュレーションが何十通りも繰り返され、最適解が導き出されていた。
その夜。
アルヌス平原に、再び魔法の嵐が吹き荒れた。
アラン率いる陽動部隊は、敵の予想を遥かに超える機動力と破壊力で主力部隊を撹乱。その隙を突き、史人が指揮する本隊が手薄になった補給路を完璧に寸断した。バルト公国軍は、前線を維持するための物資の七割を失い、後退を余儀なくされた。
テリア王国軍、奇跡的な大勝利。
その知らせが塹壕に届いた時、兵士たちは歓喜の声を上げた。
だが、史人は笑わなかった。
彼は、泥と血にまみれて帰還したアランを、ただ冷たい目で見つめていた。アランは深手を負い、リナの治癒魔法を受けていなければ命はなかっただろう。
「……見たか、史人。これが駒の意地だ」
担架に乗せられたアランが、苦しい息の下から絞り出した。
「ああ、見た」
史人は淡々と答えた。
「君という駒の性能は、俺の想定を上回っていた。次の作戦にも期待している」
その言葉に、アランは驚愕に目を見開いた。感謝も、労いもない。ただ、次の利用価値を告げられただけ。周囲の兵士たちも、そのあまりの非情さに息を呑んだ。
リナが、悲痛な顔で史人を見上げた。
「隊長……! アランさんは、命を懸けて……!」
「だから生きている。結果が全てだ」
史人はそれだけ言うと、踵を返して自分の司令室テントへと戻っていった。
残された兵士たちの間に、複雑な沈黙が流れる。
この男は、悪魔なのか。それとも、勝利をもたらす冷徹な神なのか。
だが、彼らの中で何かが変わり始めていた。一条史人という男の異常なまでの能力と、その結果として得られた『勝利』という現実。それは、絶望に慣れきっていた兵士たちの心に、微かだが確かな光を灯し始めていた。
彼らはまだ知らない。この勝利が、地獄の釜の蓋を開ける、ほんの始まりに過ぎないということを。そして、彼らが『悪魔』と呼ぶ指揮官こそが、この地獄を終わらせる唯一の希望であり、同時に最も深い絶望をもたらす存在になるということを。
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