第29話

「うう、気持ち悪い」

 正美は口元を手で押さえながら人で埋め尽くされている広場から遠ざかった。

 花織と慎太郎の話が終わった直後、急に混雑してきた人混みに酔ってしまった正美は、一人広場から抜け出して新鮮な空気を吸おうと思った。

 花織や慎太郎と待ち合わせしていたときは広場の隅にいたので平気だったが、本戦トーナメント開催時間が迫るにつれ倍以上の観客が広場に殺到した。

 さすがの正美もこれには参ってしまい、二人に謝って広場を抜け出した。

 向かった先は広場の前にあった市役所である。市役所は広場とは打って変わって静寂に包まれていた。まだ業務終了時間帯ではないが、本当に中で人が働いているのか疑ってしまうくらい物静かだった。

「はあ、倒れるかとも思った」

 額に薄っすらと汗を掻いていた正美は、カバンから取り出したハンカチで汗を拭うと、ふと近くにあった自動販売機が視界に入った。

「一息つこうかな」

 たたた、と小走りで自動販売機に正美は向かった。喉が渇いていたこともあったが、それ以上に自動販売機の近くには人の姿がなかったことが幸いだった。ゆっくりとリラックスすることができる。

 喧騒地帯から少し離れたところに点在していた自動販売機に辿り着いた正美は、財布から小銭を取り出しコイン投入口に入れた。緑茶のボタンを押して缶を取り出す。

 正美は缶を手にすると、颯爽とその場から離れた。たった一人で販売機の前でドリンクを飲むのが恥ずかしかった正美は、誰にも悟られないように飲むためにわざわざ自動販売機の裏手に回ったのである。

 これで周囲には誰もいない。そう安心して缶の蓋を開けようとしたとき、不意に正美の視界に人間の姿が入った。

 正美がいた場所は市役所の横手――細長い路地になっていた場所で、すぐ目の前には市役所に勤めている人間専用の駐輪場があった。置かれているのは自転車ではなくバイクが大半であったが、その駐輪場を通して市役所の裏手に回ることができる。

 まさにその市役所の裏手に向かう、金色の髪をした人影を正美は目撃したのだ。

「あの人って……」

 正美は購入したお茶を飲むことを忘れ、誰もいない駐輪場を通って市役所の裏手に向かって歩き始めた。

 普通ならば正美も人の後をつけるなんて行為はしない。しかし、慎太郎からあんな血生臭い話を聞かされた後であったこともあり、場所的にありえない人間の存在がどうしても気になってしまった。

 地面を噛み締めるように正美は慎重に歩を進めた。そして人影が見えた辺りに差し掛かったとき、

「こんなところで何をしているの?」

 と唐突に後ろから声をかけられた。

 心臓が飛び出るほど驚いた正美は、軽く悲鳴を上げながら振り返った。

 そこには金糸と見間違うばかりの金色の長髪を風になびかせている青年がいた。きりりと細長い眉に日本人よりも高い鼻梁。薄い桃色の染まっている唇は何とも艶かしい。

 正美にはその外国人に見覚えがあった。いつぞや、大通りで自分に繁華街への道を訊いてきた流暢な日本語を話す青年であった。あのときはラフな服装に身を包んでいたと思うが、今は漆黒のレザージャケットを羽織り、首元までジッパーを閉めている。

「もう一度訊くよ? ここで何をしているの?」

 屈託のないファニーフェイスをしていた青年は、正美に微笑を浮かべながら質問した。正美はしばらく青年に見惚れてしまっていたが、すぐにはっと我に返り答える。

「い、いえ……あの、私はただジュースを買おうと思っていたんですけど……人混みが大の苦手で……それで落ち着こうと思って自動販売機でジュースを買ったら偶然に見えてしまって……」

 自分でも何を言っているのかわからなくなった正美に、青年は周囲をしきりに気にするように見渡した。

「どうやら君一人のようだね?」

「え? ええ。は、はい」

 何度も正美は頷いた。最初に見たときにも気になっていたが、やはりこうして間近で見ると本当に美青年である。身長もすらっと高く、二つの碧色の瞳をじっと見つめていると魂を吸い込まれてしまうような錯覚さえ覚える。

「そうか……ならいい」

 青年はそう言うと首元のジッパーを摑み、胃の辺りにまで下ろした。

 開いたレザージャケットの隙間からは無地のシャツが見えたが、他にも茶色の太い線のようなものが一緒に見えた。

 正美は小首を傾げた。生地ではないその茶色の太線は、どこかで見たような気がする。

 青年は開けたジャケットの中に右手を差し入れると、中で何かを握りゆっくりと取り出した。素手であった青年の右手には、不気味に黒い光沢を放つ物体が握られていた。

 拳銃である。漫画やテレビでしか見たことがなかった拳銃を目の前にしても、正美には一向に現実感が沸いてこなかった。

「それ……玩具ですか?」

 キョトンとした顔で正美が呟くと、青年は一切表情を変えず銃口を正美に向けた。

「Good by PrettyGirl」

 青年は正美にウインクをすると、躊躇なく銃のトリガーを引いた。

(あれ? もしかして……本物?)

 一瞬、視界が激しく左右にブレた正美は、それ以上何も考えることができなくなった。意識は徐々に白濁になり、手足の感覚が無くなっていく。

 ――Good by PrettyGirl

 そしてその言葉だけが妙に耳の奥に残り、やがて正美の意識は完全に途切れた。

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