第9話

 ぎりりと花織は奥歯を噛み締めた。

「まどろっこしい言い方は止めて用件だけを言ってみなさい。ただし、言葉は慎重に選んだほうがいいわよ」

 このとき花織は、勇二の口から借金肩代わりの見返りに下品な要求が出てきたら躊躇なく半殺しにしようと考えていた。距離的にも勇二はすぐ隣にいるから好都合であった。突きを繰り出せばすぐに当たる。

「じゃあお言葉に甘えて用件だけを言わせてもらおう……花織、君は【綾園異種格闘市街戦】に出場するんだ」 

「は?」

 予想もしていなかったことに花織は肩透かしを食らった。

こいつは自分をからかっているのだろうか? そう一瞬思った花織だったが、どうやら勇二は本気のようであった。小切手を忍ばせていた胸ポケットからもう一枚何かの紙を取り出すと、花織の前に広げて見せた。

それは綾園市が年一回に開催している巨大イベント――【綾園異種格闘市街戦】の出場申し込み用紙であった。

花織は申し込み用紙を手に取った。記入欄は履歴書などとほぼ同じであったが、最後の記入欄の下に太線で以下のような注意書きが書かれていた。

『この大会に出場するにあたり出場選手が受けた損害はスポンサー及び市議会、大会運営委員会は一切責任を負いません。以上の事柄を踏まえた上で参加を申し込んでください』

 花織は絶句した。大会自体は知っていたが、まさかここまで徹底している大会だとは知らなかった。よく今まで死人がでなかったものである。

しかし、尚更よくわからない。何故、勇二はこの大会に出場しろと言ったのだろう。

すると花織の疑問にすぐに勇二は答えてくれた。

「さっきも言ったが君の家の借金は俺が受け持っている。そして俺はすぐにその借金を帳消しにする力も持っている。だが、じゃあ俺がその借金を帳消しにする代わりに君に見返りを持ちかけたとしよう。そんな俺に君はどう対応する?」

「殺す」

 一拍の間を置かず花織は冷静に言い放った。勇二は満足そうに頷く。

「だろうね。君のことだからそう言うと思っていたよ。だが現実に考えて君たちはその借金をどう返済するつもりだい?」

 勇二の言葉を聞いて、うぐっと花織は口をごもらせた。

 はっきり言おう。返すアテなどまったくない。どうお金を工面しても半分にも満たないだろう。しかもそのお金も借金すればの話である。いわゆる堂巡りになってしまう。

 勇二は薄く笑うと、テーブルに置かれていた小切手を手に取った。それを花織に見せつけるように堂々と掲げる。目の前に突きつけられた一千万円の小切手を見て、花織は思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。借金云々というより、現実に一千万円の小切手など見る機会など金輪際ないだろう。

 そんな花織の態度を自分の提案に乗ってきたと勘違いした勇二は、花織を無視してどんどん話を続けていく。

「君は現時点において借金返済能力がない。これは君個人ではなく和菓子屋『名月』の売り上げも含めてだ。とてもこのままでは返済額には到底届かない。だが、俺はこのまま君が路頭に迷う姿など見たくない。そこで俺は考えた。何か手助けできることはないだろうかと。あった。それは俺が借金をすべて肩代わりすることだ。しかしそれでは君の性格上納得しないだろう。君は他人からタダで何かを恵まれたりすることが心底嫌いだと小学生の時分からよく知っているからね」 

 勇二は小切手を持った手をテーブルに叩きつけた。思わず花織もビクッと反応した。

「そこで俺は君にチャンスを与えることにした! 花織、君は【綾園異種格闘市街戦】に出場して優勝を目指せ! その暁には俺は無条件でこの一千万円の小切手を君に進呈しよう。もちろん借用書もつけてだ」

 いつになく真剣な表情の勇二に花織はたじろいだ。勇二は本気だった。本気で自分を綾園市主催のイベントに参加させようとしている。しかしまだ腑に落ちない。

「仮に私がその大会に優勝したとしてアンタに何の得があるの? 大企業の跡取り息子ともあろうものが、タダより高いものがないことくらい知ってるでしょう」

 花織の言葉を聞いてニヤリと勇二の表情が崩れた。

「さすが俺の未来の花嫁は察しがいい。だが、言ったことは本当だ。君が大会で優勝すれば無条件で小切手を渡す……しかし、もし優勝しなかった場合はペナルティとして俺の提案を呑んでもらいたい」

 花織は苦々しい表情を浮かべた。額を人差し指で突き、重苦しく口を開く。

「そのペナルティとやらを言ってみなさい。一応、聞いてあげるわ」

 瞬間、勇二は瞳を爛々と輝かせて立ち上がった。その場にいた全員が嫌でも勇二に注目する。

「では遠慮なく言わせてもらおう! もし君が優勝したら無条件で借金は帳消しだが、二位の場合は俺と一日デートをしてもらう! そして三位の場合はとろけるほどのディープなキス! だがそれ以下の場合は……」

 ずずずいっと勇二は花織に顔を近づけた。思わず花織は息を呑む。

「借金返済額を満たすまで俺の元で働いてもらう。約一千万円分をね」

 聞くなり、花織の身体が凍りついた。あまりにも馬鹿らしく、あまりにも勇二らしい直球の要求に手を出すことを忘れてしまった。

 勇二は唖然となっている花織の肩にポンと手を置いた。

「本来なら大会の参加は十八歳以上からなのだがそこは俺のほうで何とかしておく。それじゃあ大会は次の日曜日だから遅れるなよ。あ、申し込み用紙は忘れずに土曜日までに市役所に提出しておいてくれ。郵送も可だよ」

 そう言うと勇二は、花織以外の人間たちにペコリと頭を下げた。そして一言、

「では皆さん、これにて失礼します」

 それだけ言うと勇二は、くるりと踵を返して居間から出て行った。隣にいた睦月も居間にいた全員に頭を下げ勇二の後を追って出て行った。

 部外者二人が消え去ると、しんと居間は静寂に包まれた。それは嵐の前の静けさどころではなかった。嵐の後の静けさである。

「何なのよ……いったい」

 その中でいつの間にか訳の分からない事態に飲み込まれた花織は、うな垂れるように弱々しく呟いた。

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