【完結】借金と格闘とキスの間で ~綾園異種格闘市街戦ときどき連続殺人事件~

岡崎 剛柔(おかざき・ごうじゅう)

第1話

 その日は幼馴染の誕生会だった。

 仲の良い友人が集まり、夕方から今まで楽しい時間を過ごすことができた。

 現在の時刻は午後十時を過ぎている。本来ならばこんな夜遅くまで外出するなど許されないのだが、幼馴染の家がすぐ近くにあったことと、自宅の前まで幼馴染と幼馴染の兄に送ってもらう予定だったので許されていた。

 そして少女は自宅に送ってもらうなり、半分閉じかけていた瞼を手の甲でこすった。

 普段は遅くとも九時には就寝する。小学生に上がったばかりの少女には、十時過ぎまで起きているなど初めての経験だった。だからこそ少女は早くベッドに潜り込み、夢の世界へ旅立ちたいと思っていた。だがそのとき、少女の耳が庭先から響く異様な音を拾った。風を切る鋭い音、土が敷き詰められている地面をザザッと蹴るような音、空気を押し潰すような覇気が込められている声――。

 少女は庭に誰かいることを察すると、家の人間を呼びに行くよりもまずは誰かを確かめるために庭へと向かった。

 玄関口から庭へゆっくりと近づくなり、音が徐々にはっきりと聞こえてくる。やはり誰かいる。しかし相手は庭から移動する気配がない。

 少女は顔だけを壁からそっと出した。

 すでに少女の目は夜目が効き、夜空には煌々と輝く満月が浮かんでいたため、灯りがなくとも庭の様子が一望できた。だからこそ庭にいるのが怪しい人物だったらすぐに母屋へ行って家族を呼んでこようと固く決意していた。

 少女はじっと庭の様子を覗き見る。自宅の庭は祖母の趣味で古き良き日本風の造りになっており、鯉が優雅に泳いでいる小さな堀池やカコーンと心地よい音が鳴る鹿威しなどがある。そんな庭の中心にその人間は存在していた。

 短めに切った髪に少女よりも何倍も高い背丈、細すぎず太過ぎない身体には真っ白い胴着を着て、腰からやや下辺りに黒い帯をきっちりと締めている。

 少女は目を見張った。庭にいた人間は怪しい人物どころか父親だった。が、少女はすぐにその場から動かなかった。動けなかったのである。

 父親は両目を閉じながら凛としてその場に立っていた。背中に棒を入れたように背筋をきちんと伸ばし、握った右拳を左手で包んでいる。

 凄まじい圧迫感が庭全体に充満していた。そしてその圧迫感が普段は気さくな父親から放出されていたことに少女は激しく戸惑った。

 乾いた喉を潤そうと少女が唾をごくりと飲み込む。

 瞬間、案山子のように姿勢を崩さずに立っていた父親に動きがあった。

 左足を右足の前に交差させるようにすっと出すと、すかさず右足を横に一歩すすめた。と同時に右手を横に伸ばし、左手は固く握り締めて脇腹に引きつけた。

 動作は続く。父親は伸ばした右手に左肘をバシッと叩きつけると、その手を胸の辺りで構え、左腕を斜め下に向けて打ち込んだ。

 さらに父親の動作は続いた。だが、少女が目に追えたのはそこまでだった。

 父親の動きは決して速くはなかった。それでも動作が目で追えない。気づいたらすでに別の動作に移行しており、それが左右対称のように動くものだから頭の中が混乱してしまった。ただその中で少女は、蟹のような動きだなと漠然に思った。

 やがて父親は動きを止めた。動作を始める前の姿勢に戻っている。

「もう戻ったのか、花織」

 不意に自分の名前を呼ばれたことで少女の身体がビクッと反応した。

「お、お父さん?」

 花織はおそるおそる隠れていた壁から身を乗り出した。別に何も悪いことをしていないはずなのに、そのときの花織は悪戯をした子供のような複雑な心境だった。

「何をそんなところでモジモジしているんだ。こっちへ来なさい」

 父親は満面の笑顔で花織に手招きをした。先ほどとは別人のように変貌した父親に少し狼狽した花織だったが、手招きされるまま父親に近づいていく。

 遠くからだとわからなかったが、父親の額には玉のような汗が浮かんでいた。

「どうだ? 正美ちゃんの誕生会は楽しかったかい?」

 花織は返事をせずにただ両手をもじもじと動かしていた。

 最初こそ父親はどうしたのかと首を軽く傾げたが、微妙に顔を逸らしている花織を見て父親はようやく気づいた。顎先をポリポリと掻きながら薄笑いを浮かべる。

「そんなに稽古中の俺は怖かったか? 仲間からもよく言われるが自覚はないんだよな」

 頬を軽く叩きながら父親が苦笑した。そうである。父親が自分でも言ったとおり、花織は先ほどの父親が物凄く怖かった。

 たまに悪戯をすると眉間に皴を寄せた父親に怒られるが、先ほどの雰囲気はそんなものではなかった。気弱な人間ならば逃げ出してしまいそうな真剣な表情を浮かべ、姿勢も中腰のまま微動だにせず、左右対称に蟹のような動きをしながら拳や肘を打ち込んでいた。

 もし近くにいたら気を失うか大泣きしてしまったかもしれない。

 父親は花織の頭を優しく撫でた。花織は逸らしていた顔を父親に向ける。

「悪いな。今日は事件らしい事件もなかったから早く帰ってきて稽古してたんだ。まさか花織に見られるとは思わなかったが驚かせたならもう止めるよ」

 大きく深呼吸をして呼吸を整えた父親は、柔軟体操をして身体を解した。花織を驚かせてしまったのでもう稽古を切り上げるつもりらしい。襟の乱れをさっと直すと、花織の横を通り過ぎようとした。

「待って、お父さん」

 自分の前を通り過ぎようとしていた父親を花織は呼び止めた。それだけではない。父親の胴着を摑んで動きを制止させていた。

「どうした花織?」

 父親は振り返り、怪訝そうに花織を見下ろした。花織と父親の目が綺麗に交錯する。

 花織は言った。

「今の……私もやってみたい」

 

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