第2話
勇気を持って振り絞った言葉だった。
確かに先ほどの父親は逃げ出したいほど恐ろしい形相をしていた。だが、行っていた動作は別だった。そんなに激しくもない横に動くだけの蟹のような動きだったが、どっしりと力強く、それでいてしなやかで柔らかかった。正直、綺麗だなと見惚れてしまった。と同時に、自分もやってみたいという思いに駆られた。
花織の言葉を聞いて父親は目を丸くした。まさか自分の娘からそのような言葉が出るとは思わなかったのだろう。しかしそれが何気に嬉しかったのか、「そうかそうか」と何度も頷いた。
「じゃあ俺がもう一度手本を見せるからよく見ておきなさい」
そう言うと父親は、花織の前で先ほどの動きを見せてくれた。
改めて見てもやはり短い動きだった。しかし遠くで見るのと近くで見るとでは雲泥の差があった。父親が一挙動を行う度に空気を切るような鋭い音が聞こえる。左右対称同じように動いてもまったく身体がぶれず、あっという間に終わってしまった。
「どうだ、できるか?」
花織はぶんぶんと勢いよく首を左右に振った。やはり途中で動きがわからなくなった。
「ははは、そりゃそうだ。最初から完璧にできる人間なんていない。まずはゆっくりでいいからやってみなさい」
花織は父親に習って首や腕を回して準備運動を終えると、その場に姿勢を正した。そして覚えているまま、父親の動きを頭の中に浮かべて動きをなぞる。
左足を右足の前で交差させると、右足を横に一歩すすめる。続いてぎこちない動きで右手を横に伸ばし、固めた左拳を脇に引きつける。そのまま伸ばした右手に左肘を叩きつけるが、父親のようにバシッとした音は鳴らず、パチンという頼りない音が鳴った。
それから花織は、自分なりに拳を突いたり足を跳ね上げたりして動きを続けていく。そこで花織は思った。見るのとやるとでは大違いだった。身体がまったく頭の中の父親と同じ動きをしてくれない。それでも花織は必死に続けて動きを終えた。
最初の姿勢に戻ると、花織はちらりと父親に視線を向けた。父親は無言だった。喜ぶでも怒るでもなく、無表情なまま両腕を組んでいた。
どうしよう、怒られるのかな。無表情な父親を見て、花織の心臓は張り裂けそうなくらい高鳴っていた。あまりにもひどい自分の動きに父親が呆れていると思ったからだ。
すると父親は急に笑みを浮かべて言った。
「花織、もう一度やってみなさい」
「う、うん」
呆れられているのではないとわかった花織は、言われるまま身体を動かしていく。
「そうだ。下段払いを終えたあとは隣に敵がいると思いながら鉤のように打つんだ」
敵や鉤のようにと言われても花織にはピンとこなかった。だが子供心に同じクラスでよく悪戯をしてくる勇二を思い浮かべながら拳を打った。
「よし、中々上手いぞ。右手首の上にのせた左肘はそのまま相手の顔面に裏拳を放つ動作に繋がる。そして自分の姿勢にも気を配れ。腰の高さは常に一定を保つんだ」
一度動きを終えるたびに父親の厳しい指摘が飛ぶ。それを花織は熱心に聞きながら無我夢中で身体を動かしていく。しかしどうしても上手くできない。やればやるほど自分の身体がいかに不自由なのかが再確認できる感じだった。
何十回同じ動きを繰り返しただろうか。白かった花織の肌は紅潮し、額から頬にかけて汗が伝った。一定の高さに腰を落としていたので両膝が笑い始めていた。それを見越した父親は優しく花織に声をかける。
「よし、花織。もうこれくらいでいいだろう」
その瞬間、花織の身体からどっと力が抜けた。ぜいぜいと呼吸を荒く吐き、汚れることなど気にもせずに地面に寝転がった。
父親は満足そうに頷きながら笑った。
「やってみた感想はどうだ?」
大の字に寝ている花織を父親は優しく抱き起こした。髪や衣服についた汚れを手で払って落とし、疲れきっている花織に優しい笑みを向ける。
「何かいい気持ち……でも、疲れた」
その言葉を聞いて父親は花織の身体を抱きかかえた。
「まさか花織がこんなに熱心にやるとは思わなかったから父さんは驚いたぞ。やはりお前は俺の子だな」
父親は花織を抱いたまま母屋に向かう。花織は軽々と自分を抱きかかえている父親の顔を見つめた。月明かりのせいで普段は褐色の良い父親の肌が青白く見えた。
広々した日本風の庭を出ると、花織は父親に尋ねた。
「お父さん、ところでさっきのって何の踊り?」
花織の言葉を聞いて父親は腹の底から笑った。花織は父親が何故笑ったのか理解できずキョトンとしていた。何か変なことを言ったのだろうか。
「ははは、あれは踊りじゃないぞ。空手って言うんだ」
「空手?」
生まれて初めて聞く言葉だった。しかしその言葉を聞いた瞬間、花織の心臓が異様に高ぶった。全身から力が沸いてくるような力強い言葉に聞こえたからだ。
「ああ、字で書くと大空の空に手足の手で空手と書く。父さんや花織のご先祖様の生まれ故郷である沖縄発祥の武術なんだぞ」
父親は嬉しそうに話を続けた。
「昔の沖縄では空手を練習することは秘密だった。無闇に他人に練習していることを漏らせば技を盗みにくる人間や、戦いを仕掛けてくる人間がたくさんいたからな。だから空手を練習するときは誰もいない場所でひっそりと練習したんだ」
「さっきのお父さんのように?」
「そうだ。だが今はそんな時代じゃない。別に空手を練習しても珍しくない世の中になった……でも父さんはこうして昔ながらに一人で練習するのが好きなんだ。一人で練習すると偉大な先人たちに少しでも近づけるような気になってな」
そんな会話をしながら母屋まで来ると、父親は花織をそっと地面に降ろした。居間続きになっている廊下の雨戸を開ける。居間の明かりはすでに消えていたが、廊下の奥にある風呂場と台所には明かりが灯っていた。
「さあ、さっさと風呂に入って今日は寝なさい。風邪引くなよ」
花織は履いていた靴を脱ぎ捨てると、薄暗い廊下に出た。そのままふらふらと風呂場に向かって歩き出す。そこで花織はふと気づいた。
「お父さんは入らないの?」
振り返り花織は父親を見る。父親は首をコキコキと鳴らしていた。
「ああ、やっぱり父さんはもう少し練習するよ」
父親は稽古を再開するために庭に戻ろうとした。しばしその父親の背中を見つめていた花織だったが、最後に心底思ったことを口にした。
「ねえ、お父さん。さっきの空手をまた教えてくれる?」
父親は顔だけを花織にちらりと向けた。歯並びのよい真っ白い歯をニヤっと見せる。
「あれはナイファンチって型だ」
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