第7話 記録と記憶

翌朝。

教室の扉をくぐると、紗耶はすでに席に着き、窓の外を見ていた。

光の中にいるときの彼女は、やっぱりどこか別世界の人みたいに見える。


「おはよう」

「おはよう、悠真。――今日のお願い、覚えてるよね」

「覚えてる。“写真を撮らない”」

「うん。でも、もうひとつ追加」


そう言って、彼女は俺のスマホを指差す。


「これまで私を撮った写真、全部消して」


教室のざわめきが遠くなる。


「……全部?」

「うん。データフォルダからも、クラウドからも。完全に」

 

声は穏やかなのに、その瞳は引き返す道を閉ざすみたいにまっすぐだった。

俺はため息をつき、スマホを取り出す。

写真アプリを開くと、そこには入学式から昨日までのスナップが並んでいる。

ふざけた表情、偶然撮れた後ろ姿、購買のパンを持って笑う瞬間――。

一枚ごとに、指をスライドさせて削除。

ゴミ箱フォルダを開いて、さらに完全削除。


「……消した」

「ありがとう」

 

紗耶は微笑む。

でもその笑みは、思ったよりも寂しさの色が濃かった。


 ***


午前の授業の合間、千景がノートを抱えて近づいてきた。


「ねえ、ちょっと」

 

その瞬間、紗耶が俺と千景の間に立つ。


「ごめんなさい、悠真は今、私と用事があるから」

「……そう」

 

千景は一歩下がり、視線を俺に残して去った。

その背中に、問いかけを飲み込んだ言葉の重さが見えた気がした。


廊下を歩きながら、俺は小声で尋ねる。


「千景にまで、なんで」

「彼女は鋭いから。……悠真が写真を持ってたら、きっと見抜かれる」

「見抜かれたら、困る理由があるってことだよな」

「……うん」

 

短い肯定。それ以上は答えない。


 ***


放課後、紗耶はまた理科準備室にいた。

昨日までの雨の匂いが残る空気の中、棚の上に置いたフィルムカメラを手にしている。


「自分の写真も、消すの?」

「ううん。私が撮ったものは別。――これは私の記録だから」


カシャン、とシャッター音。

今度は笑顔じゃなく、真剣な表情で俺を切り取る。


「記録って……何のため」

「最後の日にわかるよ」

「その“最後の日”って、ゲームの終わり?」

「そう」

 彼女はレバーを巻きながら、視線を落とした。

「終わったら、私はもう――」


そこまで言って、言葉を飲み込む。

代わりにカメラを棚に置き、「帰ろっか」とだけ告げて歩き出した。


 ***


駅までの帰り道。

信号待ちの横断歩道で、紗耶がふと立ち止まる。


「ねえ悠真。記憶って、残そうと思って残せると思う?」

「……難しいな。忘れたくなくても、時間が経てば薄れるし」

「そうだよね。でも、形に残すと……怖いときもある」

「怖い?」

「形が残ると、それが全てになっちゃうから。本当はもっと違う顔もあったのに、って」


青信号になって、二人で歩き出す。

夕陽が背中を押すように差し込み、二つの影が長く伸びた。


別れ際、彼女は昨日と同じ引換券をポケットから出した。


「またそれ?」

「うん。これも最後の日に渡す」

「……全部、最後の日だな」

「だって、そういうゲームだから」


軽く笑ったその横顔は、決意と寂しさを同時に抱えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る