第31話 真相解明

 旅館へもどり土間で靴を脱いでいると、旅館にいる人々が次次と居間に集まってきていた。けれどその中に、びしょ濡れ姿の人間はだれもいない。僕らだけが濡れ鼠だった。

「伊勢谷くん、さっきの話だけど」

「犯人か今あ焦らず。これから、みんなの前でゆっくりと発表したい。歩美ちゃん」

 伊勢谷くんは、居間に入って行こうとする歩美を呼びとめた。

「はい」

「ちょっと」

「何ですか」

 伊勢谷くんは何やら内緒話をするように、歩美を調理場のほうへと連れていった。

「一身体、何何だあいつは」

 タオルで頭を拭きながら、鱒沢が訝しげな表情を浮かべる。

「シャーロキアンですよ」

「シャ、シャー」

「シャーロキアン。シャーロック・ホームズのマニアってことです」

「何がシャーロック・ホームズだ。おれはクロフツや清張の小説に出てくるような、現実的な刑事のほうが好きだ」

「まあ、人の好みはそれぞれってことですね。ちなみに、僕はエラリー・クイーンが好きです」

「聞いてない」

 鱒沢は吐き捨てるようにそう言うと、ドシドシ足音を立てながら、居間の中へと入っていく。

 僕もその後に続こうとしたら、調理室から伊勢谷くんと歩美が出てきた。伊勢谷くんは水を張った直径五十センチぐらいの木製の桶をかかえ、歩美は両手いっぱいにロウソクと小さな人形を持っている。

「一身体、何をするつもり何だい」

「きみが一番知りたがっていたことさ」

 伊勢谷くんは、得意げに微笑を浮かべたかと思うと、階段からおりてきた宇田に気づき、慌てて何かことづけた。宇田は少し怪訝そうな表情を浮かべたけれど、

「わ、わかりました」と言って、階段を駆け上がっていった。

「一番知りたがっていたことって」

 宇田のうしろ姿を眺めながら、僕は聞いた。

「魔女の密井戸のトリックに決まってるじゃないか。さあ、中へ入って」

 伊勢谷くんに急かされるようにして、僕は居間の中へと入っていった。

 居間の中には囲炉裏を囲むようにして、鱒沢警部をはじめとする警察の面々、江神章造、健夫、由衣、歩美、永井、そして宇田が駆け込んできて座った。

「け、刑事さん、みんなで集まって何を」

 健夫に支えられるようにして座っている章造が、沈痛な面持ちを浮かべながら聞いた。

「わたしに聞かれてもね。聞くんだったら、そのホームズ気どりの素人探偵さんに聞いてくださいよ」

 鱒沢は不機嫌そうな顔で伊勢谷くんのほうへ顎をしゃくってみせる。すると一同の視線が一斉に、伊勢谷くんのほうへ集まった。

「よっこいしょ」

 伊勢谷くんは囲炉裏のそばに桶をおろすと、急に真剣な表情になり、みんなの顔を見つめ返して一つ咳払いをした。

「非常に残念なことですが、また悲劇が繰り返されました」

「悲劇だって」

 一人だけ、この場の雰囲気を楽しんでいるかのようにみえる宇田が聞き返した。

「そうです」

 伊勢谷くんは宇田の顔を真っ直ぐに見据え、

「淳司さんと怜子さん。それと三上さんが、魔女の末裔の餌食となったのです」

「何だって!」

 まだその事実を知らされてい中った宇田は、さすがに恐怖に駆られて震え声を上げた。だけど僕にはそれが、何となく演技しているように思えた。もし伊勢谷くんが言うように三上が犯人ではないなら、淳司夫婦が殺された今、真犯人はこの男に間違いないと僕は考えていた。

「三上のポケットからは、脅迫状が見つかったんだがな」

 鱒沢が横槍を入れる。けれどその口調には、どこか自信のなさが窺えた。

「もしあの落雷がなければ、犯人は三上と言うことで、この事件は済まされていたかもしれません」

「落雷がなければ」

「そうです。真犯人は、すべての罪を三上に押しつけようとしたのです」

「な、何を根拠にそんなこと」

「警部と鳴瀬くんは見たと思うけど、三人の死身体は顔が紅潮して、瞳孔が開いていた。おまけに怜子さんは嘔吐していた。そうだったね」

 僕は無言でうなずいた。みんなも黙り込んで、伊勢谷くんの話に耳をかたむけている。伊勢谷くんは、まるで講義でもするように話をつづける。

「そして、テーブルにあったワインからは、かすかに刺激臭がした。あれはおそらくトリカブトの毒の臭い」

「トリカブト」

 一同の口から、驚嘆の声がもれる。

「そうです。推理小説や実際の殺人事件でお馴染みの、植物界最強の猛毒です。服毒した際の初期症状として、顔面紅潮や唇・舌の痺れ、嘔吐。末期症状で瞳孔拡大、最後には呼吸困難や心停止で死にいたる。真犯人はおそらく、三上に毒入りのワインを手わたし、淳司さんに会いにいくように促したのでしょう」

「ちょ、ちょっと待て」

 鱒沢警部は慌てて制止して、

「なぜ、そんなことが言えるんだ」

「もし仮に、ワインの中に毒を入れたのが三上本人であったのなら、ワインを飲むはずがないでしょう」

「そ、それは」

「三上に自殺する何らかの理由があるなら別ですけど、江神家への復讐を大義名分にかかげて聞いた魔女の末裔が、志中ばで自殺などするでしょうか」

 だれも否定するものはいない。伊勢谷くんはかすかにうなずき話をつづける。

「そして何よりも、真犯人がトリカブトと言う毒を用いたことに、三上を犯人に仕立てあげようとした意図がハッキリとみえるのです」

「意図」

 伊勢谷くんの言わんとしていることが掴めず、僕は聞き返した。

「そう。みんなさんは、一九八六年に起こったトリカブト保険金殺人事件をご存知でしょうか」

 僕は名前しか知ら中ったけれど、僕よりも年配の面々はうなずいている人が多かった。

「夫が保険金目的で妻を毒殺した事件ですが、当初は被害者の妻は急性心筋梗塞で死んだと判断されました。トリカブト服毒による心停止と通常の急性心筋梗塞との区別は、プロの解剖医でも困難なのです。ただ幸いなことに、あの事件では最初の解剖医が、心筋梗塞にしては心臓がきれいであったことなどを不審に思い、被害者の臓器や血液を保存していたことで、後日さらに詳しく検査をおこなった結果、トリカブト毒を検出することができたのです」

「そうか、だから三人は心臓を刺されていたのか」

 僕が言うと、伊勢谷くんは満足そうにうなずいた。

「そのとおり。加えて、この現状を考えてご覧よ」

「現状」

「すぐに検死解剖する何てできないから、トリカブトが検出される危険はゼロに近い。警察は三上を犯人と信じこみ、その結果、真犯人にとって有利な状況ができあがる」

「クッ」

 鱒沢は悔しそうに唇を噛み、

「それで、その有利な状況と言うのは」

「言うまでもないことですよ。真犯人が死んだとわかったら、あなた方は何をされます?」

「何を?」

 鱒沢は頭をひねり、部下たちを見る。彼らも同じように頭をひねっていた。

「わ、わたしらの警護を解く」

 まるで雷にでも撃たれたように身を震わせ、章造がしわがれ声を発した。

「そうです」

 伊勢谷くんは大きくうなずき、江神家の面々を眺めて、

「真犯人は、警察の監視がなくなった隙落ちて、あなた方を悠々と殺す機会を手にすることができたのです」

 その言葉に一同は黙りこみ、しばし静かな時間が流れた。

 章造と健夫の顔は、あまりの恐怖に痙攣していた。由衣はと言うと、伊勢谷くんの話など耳に入ってい中ったのか、どこか夢みるような表情を浮かべていた。

「しかし」

 沈黙をやぶったのは、やはり伊勢谷くんだった。

「犯人のプランに予期せぬアクシデントが生じたのです。一つは――」

「落雷による火事」

 僕は言った。

「そのとおり。おそらく犯人は、ちょうど落雷のあった時にログハウスへと忍び込んだのでしょう。それから火の手が上がったことを知ると、慌てて三人の心臓を突き刺した。そして外から健夫さんの叫び声が聞こえてきたことで、すっかり狼狽した犯人は、ワインを処分することも忘れ、リビングにある出窓から脱出した」

「それで」

 粗があったらすぐにでも突っ込もうと身構えるようにしながら鱒沢が聞いた。

「それで、外にでて安全な場所に身を隠した犯人は、ワインを持ちだすのを忘れてきたことに気づき、おそらくこう考えたでしょうね。いっそのこと、ログハウスが完全に燃えてしまえばいい、と。だけど、そうはなら中った。火の勢い以上に、雨の勢いが強まり、割合に早く鎮火してしまったのです。そして犯人にとっての予期せぬハプニング、と言うよりも、人物が登場した」

「予期せぬ人物」

 僕は頭をひねった。

「それはすなわち、僕のこと何だけどね」

 伊勢谷くんは微笑し、

「毒学について多少の知識をもつ僕が、犯行にトリカブトが使われたことを見破ってしまった。つまり犯人は三上ではなく、他にいると言うことを。そして、江神家への復讐を完遂する機会も失い、自分が真犯人だと暴かれる危険すら生じてきた。これが、今の犯人の心境といった所でしょうか」

 伊勢谷くんはそう言うと、獲物を追いつめるハンターのように目を鋭く細め、一同の顔を見まわした。

 僕も同じように見まわしたけれど、みんな一様に緊張で顔が強張っていて、その表情からだれが犯人と推定するのは難しかった。

「ああ、そうだ。三上が包丁を使って殺したのではないと言う見解に関して、補足がもう一点あります。鳴瀬くん、ちょっと思い出してほしいのだけれど、僕たちがあの発掘現場で三上に会った時、何が起こった」

「何がってあいつに襲われたんじゃないか」

「そう。そうだね。それで」

「それで ああ、たしかあいつは右手に怪我を」

「そう!」

 伊勢谷くんは嬉しそうに声をあげ、

「さてさてそれじゃあ、ログハウスで倒れていた三上は、どちらの手に包丁を握りしめていたかな」

「どちらの……あ、右手だった」

「そうだね。利き手が不自由な時に、わざわざ人を殺しにいったりするかな しかもふたりも相手にだよ 僕には、ちょっと考えられないな」

「三上が犯人でないと言うことはわかったから、そろそろ本題に入ってくれないか」

 鱒沢は一同の顔を凝視しながら、不機嫌そうに言った。

「本題とはつまり、だれが真犯人かと言うことですね では、この真犯人をXとし、Xに成りうる条件を提示していきましょうか。最終的に、その条件がピタリと当てあまる人物こそが、すなわち真犯人と言うことになるのです」

「それで」

 焦れったくなってきて、今度は僕が話をさきに進めるように促した。

「まあ焦らずに。まず第一の条件として、これは言うまでもないことだけど、毒学に関する知識が多少なりともなければならない。何せ犯人は、確実に三人を毒殺しなければなら中ったんだからね。それには、トリカブトの致死量を把握していなければならないわけだし、抽出方法も知っていたはずだ。これを仮に条件Aとしておこうか。

 さて、次の条件。犯人は健夫さんの叫び声を聞いて、慌ててリビングの出窓から脱出したといったね」

「うん。その痕跡は、きみと一緒に目にしたよ」

「そうだったね。それで、きみはあの現場が何か変だったことに気づか中ったかい」

「変?」

 僕は現場の様子を思いだし、

「いや、特には。ただ花瓶が床に落ちていたのが、犯人の慌てぶりを示していたことぐらいかな」

「うーん、惜しいな鳴瀬くん。いいかい、犯人は慌てていたはずだよね」

「だからそう言ってるだろ」

「それで、出窓のカウンターはどのぐらいの高さだったか覚えている」

「カウンターの高さ」

 妙なことを聞くもんだと、僕は思わず顔をしかめた。他のみんなも、どこか困惑したような表情を浮かべている。

「うーん。僕の臍より少し上ぐらいだったから、だいたい一メー通る弱ってとこかな」

「うん。そんなものだったね。そして、その前には何が置いてあった」

「何がって花瓶を置いていた台だよ。犯人がそれを動かしたせいで、花瓶が床に落ちてしまったのにちがいないもの」

「そうだね。それで、その台の高さはどれぐらいだったか覚えているかい」

「カウンターの半分、だいたい五〇センチぐらいの高さだったかな」

「うん。それぐらいだったね。所で鳴瀬くん、犯人はその台を一身体何に使ったと思う」

「何って、踏み台に決まってるじゃないか」

「なるほど、中中にきみは鋭いね」

「馬鹿にしているのかい あの現場を見れば、子どもにだってそれぐらいのことはわかるさ」

「そうだね。いや、馬鹿にするつもり何てまったくないよ。僕は現場の状況を、みなさんにちゃんと把握してもらいたくて、こんな質問をしただけさ」

「周りくどい話し方をする奴だな」

 鱒沢が苛立ちの声を上げる。

「どういたしまして。では、警部殿が癇癪をおこす前に話を進めるとしますか」

 伊勢谷くんは落ち着いた声で言い、

「さて鳴瀬くん。いや、みなさんも考えて見てください。一刻も早く脱出しなければならないと聞いたかが一メー通る弱の障害を乗り越えるために、わざわざ花瓶を払いのけてまで、踏み台を用意するでしょうか」

 一同がかすかに息を呑む声が聞こえた。伊勢谷くんはどこか満足そうな表情を浮かべてうなずき、

「いいですかみなさん。犯人は、トリカブトの入ったワインを回収するのを忘れるほど慌てていたのにもかかわらず、わざわざ踏み台を用意したのです。これは一身体、何を意味するのでしょうか 鳴瀬くん、どう思う」

「それは踏み台がなければ、犯人は脱出することができ中ったからだよ」

「そう」

 伊勢谷くんはパン、と手を叩き、

「犯人は一メー通る足らずのカウンターに、何らかの理由で飛び乗ることができ中った。僕はこれを、条件Bとしたいと思今すが、何か異存はありますか」と言って、全員の顔を見まわした。だれからも反対意見はで中った。そして、この事実が発覚した時点で、だれが犯人であるか、みんなはもう気づき始めていた。

「さて、条件がふたつ揃った所で、少しでも犯人になりうる可能性のある人物をさきに挙げておきましょうか。ちなみに僕と鳴瀬くんはずっと、あの蔵の中に閉じ込められていたので、度外視していただけますね」

 伊勢谷くんは鱒沢のほうをチラと見て言った。

 鱒沢は、しかめ面をしてうなずく。伊勢谷くんは微笑してうなずき返し、

「ありがとうござ今す。さて、警察の方々のアリバイはどうでしょう」

「江神さんたちの護衛についていない者は全員ここにいた」

 鱒沢が憤慨した様子で答える。

「では警察の方々と江神家のみなさんの中には、犯人になりえる人物はいない、と。残ったのは歩美さん、永井さん、そして宇田さんと言うことになりますね」

 伊勢谷くんに名前を呼ばれた面々が、たがいの顔を見かわす。

「ちょ、ちょっと、待て。わ、わたしには、何の動機もないぞ」

 宇田が突然、騒ぎ始めた。

「静粛に」

 伊勢谷くんは宇田を睨みつけ、

「今は動機があるかないかを話しているのではありません。真犯人Xになりうるかどうか、それを検討しているのです。

 さて、でははじめましょうか。論理をわかりやすくするために、まずは条件B、つまり出窓カウンターを飛び越えられ中った理由をもっている人物を挙げていきましょうか。永井さんはどうでしょう」

 みんなの視線が永井の足にあつまる。

「失礼ですが、その足では、あの出窓カウンターを乗り越えるのは難しいのではないかと思今す」

 伊勢谷くんの言葉に、永井はウンともスンとも言わず、ただ暗い表情を浮かべていた。

「次に歩美さん」

 伊勢谷くんは歩美の着物姿を眺め、

「う~ん。その格好では踏み台を使わないと厳しいだろうね。だけど歩美さんは、僕と鳴瀬くんが蔵からそこの玄関の庇の下に駆け込んできた時、旅館の中から顔を出した。しかも彼女は、どこも濡れている様子は中った。あの土砂降りの中を走って聞いたとしたら、仮にレインコートを着ていたとしても、完全に濡れないで移動するのは困難だと思う」

「すぐに着替えたのかもしれないぞ」

 鱒沢が指を噛みながら口を挟む。

「人を殺しにいくなら、着物姿で何て行かないだろう」

「なるほど。では警部殿の推理では、歩美さんは動きやすい格好でログハウスへ行き、犯行後に急いでこちらへ戻ってきて、ものの数十秒で着物姿に着替えて、僕らの前に姿をあらわしたのだと、そう言うわけですね」

「まあな。あ!」

「はい、お気づきになられたようですね。動きやすい格好をしていた、と言うことは出窓カウンターを乗り越えることも容易にできたと推測できます。つまり、条件Bにあてはまらないと言うことになります。したがって歩美さんは真犯人Xではない、と言う論理が成り立つと言うことになります。いかがでしょう」

 鱒沢は悔しそうな表情を浮かべ、それとは反対に、歩美は晴れ晴れとした表情を浮かべている。

「さて、次に宇田さん」

 伊勢谷くんは宇田の短い手足、突き出た腹を見つめ、

「運動は得意ですか」

「い、いいや、まったく。で、でも」

 宇田は追いめられた獲物のように、怯え切った表情を浮かべている。

「でしょうね。見た所、あまり機敏な動きはできそうにありません。ましてや切羽つまった状況で、足が竦んでしまった可能性もあります。とりあえず保留と言うことにしておきましょうか」

「だ、だから、わたしはやってないと」

 今にも泣きだしそうな表情を浮かべている宇田を無視し、伊勢谷くんは話をつづける。

「さて、二名に絞られました。では、条件Aについて検討しましょう。つまり、毒に関する知識をもっているかどうか」

 一同の視線は、無意識に永井のほうへと流れる。

「いや、ちょっと待ってください」

 伊勢谷くんはなぜか笑い、

「毒学の知識があるなしの以前に、宇田さんはひどい花粉症でしたね」

「そんなことで条件が当てはまらないとは言わせないぞ」

 鱒沢が嘲笑うように言う。

「ええ、まあ、そうでしょうね。ちなみにですが、トリカブトの花粉を嗅ぐだけでも、中毒症状がでる場合があります。でも、まあ、いいでしょう」

 伊勢谷くんは何やら口の中でモゴモゴ言ってから、

「さて宇田さん。あなたにお尋ねしたいのですが」

「は、はい。な、何でしょうか」

 宇田は完全に気が動転しているようだ。

「さっき、僕が頼んだものは、お持ちいただいてますね」

「え、ええ」

 宇田はそう言うと、ポケットからビニールの小袋を取りだし、伊勢谷くんに手わたした。その小袋の中には、薄茶色の粉が入っている。

「ありがとうござ今す。あなたは昨夜から胃の調子がおもわしくないようですね」

「そ、そうです。だから、これを」

「これは何ですか」

「は、はあ」

 宇田は伊勢谷くんが何をしたいのか理解しかね、頭をかしげげながら、

「昨夜、永井さんからいただいた、胃薬代わりの漢方薬です」

「なるほど。これをお飲みになって、調子はどうです」

「だいぶ、よくなりました」

「それはよかった」

 伊勢谷くんは満面の笑みを浮かべ、今度は永井のほうへ顔を向けると、

「さて、永井さんにお尋ねします」

 永井は返事をせず、うつむいたままだった。伊勢谷くんはかまわず続けた。みんな押し黙って、ことの成りゆきを見守っている。

「昨夜、宇田さんに処方した、この漢方薬の名前を教えていただけないでしょうか」

「クッ」

 一瞬かすかにだけれど、永井の口から呻くような声が漏れたのを、おそらくだれもが聞き逃さ中った。

「教えていただけないでしょうか。それとも、何か教えられない理由でも」

 伊勢谷くんは、刺すような視線を永井に向ける。

「し、しんぶとう」

 永井が耳慣れぬ言葉を呟いた。

「真武湯ですね ありがとうござ今す。さてみなさん。真武湯と言う漢方薬には、附子と言う生薬が調合されて今す。そして附子とはすなわち、トリカブトの根っこの部分のことを差すのです。そうですね、永井さん」

 永井は何も返事をせず、ただ身を震わせていた。

 一同は呼吸をするのも忘れたかのように静まり返り、永井の顔と伊勢谷くんが手にしている小袋を交互に見ていた。

「じゃ、じゃあ、永井さんは昨夜、宇田さんを毒殺しようとしていたってこと」

 沈黙を破って僕は聞いた。その言葉で宇田は顔をひきつらせた。

「違うよ、鳴瀬くん」

 伊勢谷くんは煙たそうな表情をしながら片手をふり、

「今、ちゃんと僕は生薬だっていっただろう 簡単に説明するとだね、トリカブトの根っこをオートクレーブ法と言う加圧加熱処理して、毒性を薄めるんだよ。ただし、もともとの毒性が強いから、素人では処方できない。つまり永井さんは毒学の知識が多少なりともあると言う証拠になる」

「なるほど」

「おそらく昨夜、永井さんはこの漢方薬に睡眠薬も混ぜていたんじゃないのかな 宇田さんが夕飯を食べないことを想定して」

 永井が唇を噛みしめる。もはやだれの目にも、真犯人Xの正身体が明らかになっていた。

「さて、では次に、宇田さんが条件Aに当てはまらないと言う証明を……もはやするまでもないでしょうね。もし仮に宇田さんが毒学の知識をもっているのであれば、トリカブトが入っている、一歩間違えれば猛毒にもなってしまうような漢方薬を、専門の漢方医でもない永井さんから素直に受け取るでしょうか 僕だったら、絶対にそんなことはしません。生薬を拝借して、自分で調合すると思今す。何か異論はありますか」

 だれからも異論はで中った。

「では、条件A・Bに適う人物は永井さん一人だけと言うことになりましたね。最初にいったように、真犯人Ⅹ=条件A+条件Bであるならば、真犯人X=永井さん、と言うことになり、以上をもちまして、Q、E、Dとさせていただきたいと思今す」

 伊勢谷くんが証明終了を告げると、場が完全に静まり返り、みんなの視線は永井にあつまった。

「ち、違う」

 小刻みに頭を横に振りながら、永井は呟く。

「犯人ではないと」

 伊勢谷くんの口調は挑むようだった。

「素人探偵さん、みごとな演説ぶりだったが、そんな状況証拠だけでは、彼を犯人と決めつけるわけにはいかない」

 鱒沢は揶揄するのではなく、真面目な口調で言った。

「つまり物的証拠が必要だと言うことですね この漢方薬を突きつけてもダメですか。うーん、困りました。残念ながら、他に決定的な証拠は見つかっていないのです」

「ホームズ気取りも、そこまでか」

 鱒沢はため息を吐く。

「ご期待に添えなくて、もうしわけないです、レストレード警部殿。最後に一つイタチの最後っ屁と言うわけではないですが、永井さんに質問させてください」

 永井は、おそろしげな表情を浮かべながら伊勢谷くんの顔を見つめ返す。

「何だ」

 鱒沢が乱暴な口調で促すと、伊勢谷くんは退屈そうに欠伸をし、何でもないような口調で聞いた。

「永井さん、あの蔵にある鍵のかかった冷凍庫の中には、一身体何が入っているのでしょうか」

「そ、それは」

 永井の顔にサッと暗い翳が差す。その様子を見てようやく、職業的な勘が働き始めた鱒沢は、永井の顔を睨みつけ、

「何か、隠しているものでもあるんですか」と、凄んだ。

「あ、あれは、あの男が勝手に」

 永井は弁解がましく呟くと、自分の失言に気づいてハッとした表情を浮かべた。

「あの男? あの男とは、一身体だれのことです」

 獲物が罠にかかったのを喜ぶかのように、伊勢谷くんは笑みを浮かべて聞いた。

「そ、それは」

 永井の声はもはや、よほど注意していないと聞きとれないほどに小さくなっている。

「もしや、あの男と言うのは、三上のことではないのですか」

 伊勢谷くんの言葉に、永井は返事をしようとしない。

「子どもの頃、よく探偵ごっこをしましてね。ああ言う南京錠を開けるのはわけないんですよ」

 伊勢谷くんはポケットから、クリップを伸ばした針金を取り出して、

「勝手に覗いてしまったことはあやまります」

「ねえ伊勢谷くん、あの冷凍庫には、一身体何が」

 堪らなくなって、僕は聞いた。

「僕の口からは言いたくないね」

 伊勢谷くんはなぜか顔をしかめる。

「何も疚しいことがないのであれば、鍵を渡してもらおうか」

 鱒沢が永井にゴツイ手を突きつける。永井は観念したようにポケットから鍵束を取り出して、そのうちの一つを鱒沢に手わたした。

「おい」

 鱒沢はすぐ近くにいる警官にその鍵を手わたし、蔵に向かわせた。

「さて、永井さん」

 伊勢谷くんは急に元気を取り戻し、

「そろそろ白状したらどうです。三上に茜さんと明恵さん殺害を手伝わせ、さらにはその三上と淳司夫妻を殺害した真犯人、すなわち魔女の末裔はあなたなのだと」

「な、永井、それは本当なのか」

 章造が、信じられないといった口調で呟く。その章造を永井は一瞬睨むが、まだ降参するものかと言うような気がまえを見せ、伊勢谷くんのほうへ顔を向けた。

「い、今、茜お嬢さんを殺した時、三上に手伝わせたと言ったね」

「ええ、言今した」

 伊勢谷くんは、どんな反論も受けてたつ、と言う堂々とした態度だった。

「で、でも、あの事件があった夜、三上にはちゃんとしたアリバイがある。そ、それに、何より、あの井戸の中からどうやって、死身体を湖に移動させたと言うんだ」

「そ、そうだよ、伊勢谷くん。一番肝心な問題が残っていたじゃないか。きみは、あの密井戸のトリックをどう説明する」

 僕の心配をよそに、伊勢谷くんは微笑を浮かべ、

「では、そのトリックを今から再現してみせようと思今す。た出しただでさえ子ども騙しのトリックなので、このミニチュア版のセットで再現すると、みなさんの失笑を買ってしまうのではないかと、僕はただそれだけが不安ですよ」と、自信満々の口ぶり。

「いいから、さっさと見せてもらおうか」

 鱒沢が急かした。

「では」

 伊勢谷くんは水のはいった桶を居間の片隅に移動させ、

「鳴瀬くんと歩美さん、ちょっと手伝ってくれるかな」と、ロウソクに火を点けて、それを桶の周りに立て始めた。

「金網は」

 ロウソクに火を点けるのを手伝いながら、僕は聞いた。

「そんなものはあってもなくてもいいんだけど、より忠実に再現するために、用意しようか」

「あってもなくてもいい、だって」

「うん。健夫さん、そこの七輪に乗っかっている網を取ってもらえませんか。ありがとうござ今す」

 伊勢谷くんは、健夫から受けとった網を桶の上に置き、歩美から十センチぐらいの大きさの人形をもらうと、それが網の目を通らないことを示しながら、

「さて、鳴瀬くん。これで満足かい」

「うん。ちゃんとトリックを解明してくれればね」

「もちろん、するさ。では、事件発生時の状況を忠実に再現しようか。きみは由衣ちゃんの部屋にいたんだったね」

「そうだよ。それで突然、魔女の笑い声が聞こえてきて」

「魔女の笑い声ね」

 伊勢谷くんは吹きだし、

「失敬。それで」

「それで」

 僕は由衣のほうを向き、

「由衣ちゃんが外を見て、茜ちゃんの姿を発見した。と同時に、何かが水の中に落ちる音がしたんだ」

「茜さんが井戸の中に落ちる所を目撃したんだね」

 伊勢谷くんは由衣に聞いた。由衣は夢見心地な表情をしながらうなずく。

「それで」

 伊勢谷くんは僕に顔を向けた。

「それで急いで外へ出て、井戸に駆け寄ってその中を覗くと、茜ちゃんは何かに引きずられるようにして、井戸の底へと沈んでいった。それから少し経って、また魔女の笑い声が聞こえてきた。以上だよ」

「うん。ありがとう。それを今から再現しよう。でもね、再現するのは、きみの視点だけだよ」

「僕の視点? どう言う意味だい」

「つまり、由衣ちゃんが茜さんの姿を見た、と言う証言はなし」

「そんなのズルいよ」

「いや、そっちはそっちで、べつに再現するよ」

 伊勢谷くんは永井の様子をチラッと窺うように見ながら言った。

「きみがそう言うなら、何か考えがあってのこと何だろうね。いいよ、はじめよう」

「では電気を消して、きみは目をつぶる。僕が魔女の笑い声を真似るから、由衣ちゃん……でなく、歩美さんにお願いしようかな。歩美さん、僕が笑い声をやめたらすぐに、『茜ちゃんが井戸の中に落ちた』と言ってくれるかな」

「は、はい」

 歩美は、少し緊張気味に返事をする。

「歩美さんがそう言い終わったら、水の音がする。そこで始めて、鳴瀬くんは目を開ける。そして真っ直ぐにこの桶のほうへ来て中を覗き込む。その際の注意点。桶のそばには僕が立っているけど、一切こっちを見ないこと。いいね 僕のほうを見てしまっては、事件当時の再現にはならないからね。ああ、それともう一つ注意点」

「いろいろと注意点があるんだね」

「後一つだけだよ」

 伊勢谷くんは手に持っていた人形を僕に見せ、

「実際の井戸とちがって、この桶は深くないからね。姿が消えるまで沈めることはできない。だから、この桶の中にこの人形の姿があることを確認したら、すぐに目を閉じること。いいね」

「いいよ」

「じゃあ、はじめようか。電気を消してください」

 伊勢谷くんは、電気のスイッチのすぐそばに立っている警官に声をかけた。電気が消され、部屋の中の灯りは、桶の周りに立つロウソクの火だけになった。

「鳴瀬くん、目をつぶって」

「わかったよ」

 伊勢谷くんの要望どおり、僕は瞼をとじた。すると伊勢谷くんが、

「キィーキィー」と素っ頓狂な声をだし始めた。

 どうやらそれが、魔女の笑い声の再現らしい。僕の周りで、失笑がもれる。

 やがて伊勢谷くんの口から発せられる雑音は消え、

「茜ちゃんが井戸の中に落ちた!」

 歩美が棒読みでセリフを吐いた。と同時に、ポシャン、と言う水の中に何かが落ちる音が響いた。

「いいよ、鳴瀬くん」

 伊勢谷くんのその言葉で僕は目を開け、ロウソクの火を目標に桶まで走り、その中を覗きこんで、

「あ!」

 おどろきの声を上げた。桶の水の中に人形の姿があったからだ。その人形は、あの夜の茜がそうだったように、万歳するかのように両手を上げた状態で、桶の底へと沈んでいく。

「鳴瀬くん、目をつぶってくれるかい」

 伊勢谷くんの声が頭上から聞こえてくる。僕は言われたとおり、瞼をとじた。すると、伊勢谷くんはまた魔女の笑い声を真似て、

「はい、終了。鳴瀬くん、目を開けて桶の中を覗いてごらん」

 僕は目を開け、桶の中を覗き込んだ。

「ない!」

 桶の中に人形の姿は中った。僕は呆気にとられて、伊勢谷くんのほうを見上げる。周りにいる一同も、同じような表情を浮かべていた。

「網を取っ払ったわけではないよね」

「そんなズルしないよ。人形は濡れてもいないだろう」

 伊勢谷くんはニヤニヤ顔を浮かべながら、人形を僕に見せる。不思議なことに、人形はまったく濡れてい中った。

「そんな馬鹿げたトリックがあるか」

 鱒沢が憤慨とも困惑ともとれる口調で言った。

「伊勢谷くん、ちゃんと説明してくれないか」

 僕だけが取り残されたようで、早く密井戸のトリックを教えてもらいたかった。

「じゃあ、説明するね。鳴瀬くん、もとの位置に戻ってくれるかな」

「うん」

 僕は桶から離れた位置にもどった。

「まず、魔女の笑い声」

 伊勢谷くんは魔女の笑い声を真似ながら、人形を桶の真上に空中移動させた。

「ちょっと待ってよ。茜ちゃんは、空でも飛べたと言うのかい」

 僕は思わず笑い声を上げた。

「いや、これはちょうどいい具合の道具が用意でき中ったからこうしているだけだよ。ここの部分は後で説明する。次に」 

 伊勢谷くんは歩美のほうを見た。

「茜ちゃんが、井戸の中に落ちた」と、歩美。

 伊勢谷くんは小石か何かを桶の中に落とす。ポシャン、と言う音がむなしく響いた。

「鳴瀬くん、こっちへきてくれるかい」

「うん」

 僕は桶に駆け寄る。

「それで」

「桶の中を覗き込んで見て」

 言われるがままに、桶の中を覗き込んだ。万歳をするような姿で、人形が水の中ではなく、水面に映っている。

「いくよ」

 伊勢谷くんがそう言うと、水面に映った人形が桶の底へ沈んでいくように見え始めた。僕は伊勢谷くんのほうを見た。伊勢谷くんは、逆さにした人形の足に紐を結びつけて引っぱりあげている。

「どうだい鳴瀬くん。金網があろうが中ろうが関係ないと言った意味がこれでわかったろう」

 伊勢谷くんは得意げな笑みを浮かべている。

「井戸の底に沈んだように見えたのは、実際はこうして吊りあげられていたんだ」

「そ、そんな」

 あまりにも単純なトリックに、僕は信じられない気持ちだった。

「そして」

 伊勢谷くんは人形を手にすると、魔女の笑い声をあげながらそれを空中移動させ、

「犯人はこのまま、茜さんを山一つ向こうの湖へと移動させた」

「伊勢谷くん、その思いつきは素晴らしいと思うけど、犯人はどうやって、そん何も自由に空を移動で聞いたって言うんだい それこそ魔女の空飛ぶホウキでも使ったとしか思えないよ」

「魔女の空飛ぶホウキね。そんなものなくても、この村では自由に空を行き来できる乗り物があるんだ」

「そんな乗り物がこの村に」

 健夫はまるで詐欺師でも見るような目で伊勢谷くんを見つめている。

「はい。みなさんこちらへどうぞ。あ、もう電気は点けていただいて結構です」

 電気が点けられ、伊勢谷くんは窓ぎわに行ってカーテンを開けた。その窓からは旅館の裏、つまり魔女の井戸が見えた。

「みなさん、あれを見てください」

 伊勢谷くんは、井戸の真上にある電線を指さした。

「電線がどうかしたのかい」

 みんなを代表して僕が聞いた。

「一見すると、ただの電線だね。でも違うんだ」

「電線じゃないってじゃあ」

「さ、さくどう」

 章造が掠れた声で呟いた。

「そうです」

 伊勢谷くんは嬉しそうな顔をして、

「章造さんはやはりご存知でしたね」

「さくどうって」

 僕はすかさず口を挟んだ。

「索道。ロープ上っていったほう側かりやすいかな」

「ロープ上 何でそんなものが」

「この村が昔、鉱山村だったって話は聞いたね」

「うん」

 うなずきながら、僕は健夫のほうを見た。

「索道は、鉱山から掘り出したものを運ぶために使っていたんだ。この辺りは山が多いから運搬に便利何だよ。ほら見てご覧」

 伊勢谷くんは井戸の上の索道を指さし、

「向こうの山のさきまでずっと続いているだろう。犯人はきみに茜ちゃんが沈んだと見せかけた後に、あそこまで移動して茜さんを湖に沈めたんだ」

「ちょ、ちょっと待ってよ、伊勢谷くん。聞きたいことがたくさんある」

「いいよ。一つ一つゆっくり答えていこう。まずは」

「そもそもなぜきみは、あれが索道だって気づいたんだい」

「ああ、それならあの三上の住んでるログハウスの近くに、古びた小屋があったのを覚えているかい」

「ああ、あったね」

「あれが索道の中継所何だ。三上はあそこから茜さんをゴンドラに乗せ、その井戸の真上まで移動させた」

「じゃあ、もしかしてあの変な音って」

 歩美が眉間に皺をよせる。

「そう」

 伊勢谷くんは歩美に微笑みかけ、

「鳴瀬くんが言う所の魔女の笑い声の正身体は、ゴンドラが索道を移動して軋る音だったってわけさ」

「満月の夜に聞こえてきたって言うのは」

 すかさず僕は口を挟む。

「おそらく三上が、発掘現場から発掘したものを運搬するために使っていたのが、満月の夜だったんだろうね。理由まではわからないけれど、一番明るい夜を選んでいたってことじゃないかな」

「三上が。じゃあやっぱり犯人は」

「いや、三上は運んだだけだと思う。実際に茜さんと明恵さんを殺害したのは」

 伊勢谷くんは永井に視線を向けた。

「永井さんが? いや、その前になぜ三上は死身体を運んだりしたんだ」

「矢継ぎばやだね」

 伊勢谷くんは笑い、

「じゃあ、今回の一連の事件の舞台裏を話していくよ。だけどこれから話すのは、何か証拠があるわけじゃなく、僕が勝手に推理だてした話だから、あたっているかどうかは永井さんに聞いてほしい」

 みんなの視線が永井にあつまる。永井はうつむき、全身を小刻みに震わせていた。

「まず茜さんの事件。密井戸のトリックはもう話したとおり」

「ちょっと伊勢谷くん」

 僕はまだ納得していないことがあった。

「何だい」

「三上はどうやって、茜ちゃんをゴンドラに持ち上げたんだい」

「電動ウインチでも使ったんだろうね。あの華奢な身体で、数メー通る下に吊りさげた茜さんを引き上げるのは、ちょっと無理がある」

「もう一つ質問がある。さっききみは話を流していたけど、あの時茜ちゃんが井戸の中に落ちるのを、由衣ちゃんが目撃してるんだ。それをどう説明する」

「そう鼻息を荒くしなくてもいいじゃないか、鳴瀬くん」

 伊勢谷くんはからかうような口調で言い、

「さて、彼女は本当に茜さんを見たのだろうか」

 由衣と永井の顔を交互に見くらべるようにして、鋭い視線をおくった。

「ど、どう言うこと」

 僕も由衣と永井の顔を交互に見た。

「言わされていたんじゃないか、と思ってね」

「何で由衣ちゃんがそんなことを。それに三上はなぜ、永井さんのいいなりになって殺人何か」

「健夫さん」

 伊勢谷くんは僕の質問を無視して健夫のほうを向き、

「奥さんが亡くなられたのは、いつごろです」

「半年ほど前になります」

「それが原因で由衣ちゃんは気を落としてしまった」

 由衣のほうをチラッと見て、

「では、永井さんがこの旅館で働くようになったのは、いつごろからです」

「それは」

 健夫は少し考え、

「妻が亡くなる一ヶ月ぐらい前からですかね」

「なるほど。それでは、永井さんに質問です」

 伊勢谷くんは、永井をキッと睨みつける。永井は目をそらし、うつむき続けている。

「由衣ちゃんに飲ませていたお茶。あれには一身体何が含まれていたのでしょうか」

 伊勢谷くんの言葉に、永井はハッとした表情を浮かべた。

「お茶 それがどうした」

 今まで黙っていた鱒沢が、焦れったそうに口を挟んだ。

「おそらくですが、大麻か何かの麻薬が含まれていたのではないでしょうか。永井さんはそれを少量ずつお茶に入れ、由衣ちゃんに飲ませつづけた。そして母親の病死。永井さんは、ここぞとばかりに彼女を洗脳した」

「洗脳って」と、僕。

「死者を生き返らせる方法がある、と」

「何だって」

「由衣ちゃんの部屋にあった黒魔術の本。鳴瀬くんも覚えているだろ」

「う、うん」

「あの時、僕はチラッと内容を目にした。死者を蘇らせる方法が載ってたよ」

「そんなものあるわけないじゃないか」

「あるよ」

 由衣は突然、不機嫌そうな声で僕に言った。

「由衣ちゃん」

「お母さんは生き返る。そうだよね」

 無邪気な顔で永井のほうを見る。けれど永井はウンともスンとも返事をしない。

「永井さん、そうでしょう」

 由衣は少し不安そうになって、もう一度聞いた。けれどやはり永井は返事をしない。

「由井ちゃん。茜さんが井戸に落ちたと、そう言えと永井さんにいわれていたんじゃないのかい」

 伊勢谷くんは由衣に近づき、その顔を覗き込むようにして聞いた。由衣はかすかにうなずく。

「そう何だね」

「うん。お母さんを生き返らせるためだって。永井さんがそういったから」

「どうです」

 伊勢谷くんは問いつめるような視線を永井に向ける。永井は押し黙ったままだ。

「茜ちゃんを殺すのと、死者を蘇らせるのと、何の関係が」

 僕は不思議に思って聞いた。

「それはね」

 伊勢谷くんが説明しようとしたその時、蔵に行っていた警官が血相を変えてもどって聞いた。

「警部、警部!」

「何だ!」

 鱒沢が怒鳴り返す。

「ほ、ほ、ほ、骨です!」

「骨?」

「ほ、骨と、ち、ち、血です!」

「骨と血だって!」

 鱒沢がそう問い返したのと同時、永井は懐からキラリと光るものを取りだし、うなり声をあげながら章造に躍りかかろうとした。けれど、

「おっと。これ以上、罪を重ねさせるわけにはいきません」

 伊勢谷くんはまるでそれを予測していたように、俊敏な動作で永井の腕をつかみ、その手から包丁を奪い取ってしまった。

「警部殿、手錠を」

 伊勢谷くんが厳かな口調で言うと、鱒沢警部は呆気に取られながらもうなずき、

「殺人未遂の現行犯で逮捕する」

 永井の手首に手錠をかけた。

「な、永井、お前がなぜ」

 章造の目は、恐怖とおどろきで今にも飛び出してしまいそうだった。

「なぜ なぜだって!」

 永井は憎悪に満ちた瞳を章造に向け、

「お前が過去に犯した罪を贖わせるためだ」

「罪?」

「こう言えばわかるか」

 永井は投げやりな笑みを浮かべ、

「わたしの本当の名字は永井ではなく武冨」

 章造の顔色から、血の気が引いていく。永井はニヤッと笑い、つづけた。

「そして、母の名は武冨絹代。この名を忘れたとは言わせない」

「武冨絹代の息子。 永井が そんな馬鹿な。それじゃあ……」

 あまりのショックで、章造の心臓は停止してしまうのではないかと、僕は不安になった。

「六十七年前のあの事件の時、わたしは母のお腹の中にいた。つまり」

「つ、つまりお前は、わ、わたしの、そんな、ああ!」

 章造は心臓をおさえ、苦しみ始める。

「親父」

 健夫が章造を介抱する様子を、永井は冷たい目で見つめていた。

「六十七年前に、何があったんです」

 伊勢谷くんが、落ち着いた声で聞く。

「い、言わなくていい」

 章造が喘ぐように言う。

「いいや、言わせてもらう」

 永井は目を剥き、

「あんたやこの村側たしの母にどれだけ卑劣なことをしたか、こいつらも知っておく必要がある」

 健夫の顔を見すえて言った。

「魔女の末裔。そう名乗ったからには、あの巨大井戸の事件と何か関わりがあるのですね」

 伊勢谷くんが口を挟む。

「そう。あの事件についてはご存じのとおり。表だった事件だけはね」

「表だった」

 永井の肩をおさえている鱒沢が顔をしかめる。

「そうですよ、刑事さん。あの事件が起こった後、この村で何がおこなわれたかは、ほとんど知られていない」

「一身体、何がおこなわれたって言うんだ」

「魔女狩りですよ」

 永井の重苦しい人ことで、室内は一瞬、緊迫とした空気に包まれた。

「そういえば」

 僕は記憶をたどり、

「山口がそんなことをいってた」

「本当かい」

 伊勢谷くんが、僕のほうを振り向く。

「うん。ただ、その時は結局、魔女は見つから中ったって話だけど」

「当然だ」

 永井は突然いきり立ち、

「魔女何てものは、この世に存在するはずがない。だが、こいつらは」

 章造へのあまりの憎しみで、それ以上は言葉にならなくなってしまう。

「落ち着いて、永井さん」

 伊勢谷くんは永井の肩に優しく手をおき、

「あなたの憎しみの根源は一身体、何でしょう 人を殺してまで果たしたい復讐とは、一身体何です 僕はそれが知りたい」

「魔女狩りについて、聞かせてもらおうか」

 鱒沢の声も心なしか穏やかだった。それによって永井は少し落ち着きを取り戻し、訥々と話し始めた。

「六十七年前のちょうど今と同じ季節。豊作祈願の祭りの最中に、村の子どもたちが次々と井戸に飛びこみ溺死した。村びとたちは、その怪奇現象に戦々恐々として、原因究明に躍起になった」

「水銀中毒ですよ」

 伊勢谷くんが口をはさむ。

「あの井戸からは、わずかながらに有機水銀が検出された。事件があった時は、もっと濃度が高かっただろうと思今す」

「ご存じだったんですか」

 永井は、感にうたれたような表情を見せた。

「僕もあなたと同じで、この世に魔女や怪奇現象などと言うものは存在しないと考える人間なものでね」

 伊勢谷くんが微笑みかけると、永井はすべて見透かされていたのだとさとり、その肩から力がぬけた。

「では話がはやいですね。そうです。あの井戸水には、高濃度の水銀が含まれていて、子どもたちはその中毒症状で井戸に飛びこみ死んだ。けれど無知な村びとたちに、そんなこと側かるはずもない。だからこいつらは」

 永井は章造を睨み、何とか憎悪の念を抑えつけるように唇を嚙みしめると、

「わたしの母を魔女だと決めつけ、糾弾した」

 吐き捨てるようにいった。

「ちょ、ちょっと、待ってください」

 すかさず僕は口を挟む。

「どうして、あなたのお母さんが魔女だと」

「わたしの母がフイをしていたからです」

「なるほど」

 伊勢谷くんだけが、合点がいったようにうなずいている。

「フイって?」

「巫医。つまり、呪術的な治療を施す、民間療法医のことさ」

「そのとおりです」

 永井はうなずき、

「ただ、わたしの母は呪術的と言うよりも、野草学の豊富な知識をもとに治療をおこなっていたのです」

「なるほど。だから、あなたも薬学に詳しいと言うことですね」

 伊勢谷くんがおだやかな口調で相槌をうつと、永井は完全に落ち着きを取りもどした。それと反比例するように、章造の心臓の苦しみは激しさを増しているようにみえた。

「そうです。わたしの薬学はすべて、母から学んだものです」

「話が横道にそれている」

 鱒沢がたしなめ、

「それで、魔女狩りとは具身体的には、何がおこなわれたんだ」

「村びとたちは」

 永井は再び口を開き、

「何のためらいもなく、まっさきにわたしの母を疑った。母が毒を盛ったのだと。そうして母を捕らえると、あの井戸に櫓を組んで逆さに吊るし上げた」

 ここでまた、章造を睨みつける永井の瞳に復讐の炎が燃えあがるのを、その場にいただれもが感じとった。章造はと言うと、自分の過去の罪を思い起こしているのか、苦悶の表情を浮かべている。

「水責めにした、と言うわけですね」

 伊勢谷くんはそう言うと、急に何かに思いあたったようにハッとした表情を浮かべ、永井の右足に目をやった。その様子を見て、永井はどこか悲しげな微笑を浮かべ、

「そうです。こいつらは執拗に母を虐待した。そしてその間、母は有毒な水銀を含んだ井戸水を大量に飲んだ。その結果、中枢神経系が侵され、死ぬまでその障害に悩まされ続けていた。そして、この足も」

 永井は自分の右足を冷めた目で見つめなた。

「永井さんの足も ど、どうして」

 僕は永井の足から伊勢谷くんの顔へと視線を泳がせた。

「有機水銀は胎盤からも吸収される。しかも、胎児のほうがより、その毒の影響を受けやすい」

 伊勢谷くんは、同情するような目で永井を見つめていた。

「そう」

 永井は伊勢谷くんに感謝するような微笑を見せ、

「さっきも言ったとおり、魔女狩りに遭っていた時、わたしは母のお腹の中にいた」

「そのことを踏まえた上でなぜ、永井さんが江神家へ、いや、章造さんへの復讐心を煮えたぎらせているのか。僕はようやく、今回の一連の事件の裏舞台を、ハッキリと理解することができました」

 伊勢谷くんが納得顔を浮かべる。その言葉の意味を吟味するように、一瞬、室内が静まり返った。

 その沈黙を破ったのは、みんなよりも一瞬早く伊勢谷くんの仄めかした言葉を理解した健夫の、悲鳴に似た叫び声だった。

「そんな、まさか!」

 健夫は、父親と永井の顔を、驚愕の目で交互に見やった。

「そのまさかですよ」

 伊勢谷くんが、その場にそぐわないほどに落ち着いた声で言った。

「わたしの身体には」

 永井は汚物を見るような目で章造を見つめ、

「こいつの血が流れている」

 その人言ですべてを理解した一同は、ある者はおどろきのあまり叫び、またある者は息を呑み、またある者は……僕は説明を請うように、実と伊勢谷くんの顔を見つめた。

 伊勢谷くんはただ肩を竦ませ、永井の話に耳を傾けるように顎で示した。

「わたしの母とこの男は、村びとのだれにも知られることなく、秘密裡に交際をしていた。だが、魔女狩りがおこなわれた時、こいつは」

 永井は激情に駆られるようにして足を踏みだし、章造に近づこうとしたけれど、鱒沢のゴツイ手がそれをあっさり制止した。

「こいつは」

 永井は急激に虚脱して、

「自分も糾弾されるのをおそれて、母を守ろうともせず、あろうことか虐待する側に加わった」

 章造は目をつぶり、まるで永井の言葉一つ聞くたびに、刃物で刺されているかのように、苦悶の表情を濃くしていった。

「永井さん。それで、お母さんはどうなったんですか」

 それまで黙って聞いていた歩美が、堪らなくなったように口を出した。その目には、永井の母親に対する同情心から、涙がいっぱいに溜まっていた。それを見た永井は、少し狼狽したような表情をみせた。

「母は当然のごとく、村から追いだされた。着ぐるみ全部剥がされた状態で。何日も山道を必死で歩いて、その途中でわたしを産んだ。そして、水銀中毒で歩行障害を患いながらも、村から村へと渡り歩き、わたしを育ててくれた」

 歩美のすすり泣く声が室内に響く。永井は訥々と話をつづけた。

「わたしは子守唄側りに、毎夜きかされた。江神章造への恨みごとを。そしていつか、母のかわりに復讐を果たすことを誓わされた」

「で、でも何で、章造さんをまっさきに狙わずに、茜ちゃんや明恵ちゃんを」

 僕は口を挟んだ。

「こいつに恐怖を味わわせてやりたかった。そして、こいつと同じ血が流れている人間は全員、抹殺するつもりでいた」

 永井の恐ろしい告白に、だれもが息を呑んだ。

「わたしも」

 由衣が、夢から覚めたような顔を永井に向けた。その無垢な瞳に見つめられ、永井はかすかに狼狽した。

「わたしのことも殺すつもりでいたの」

 由衣が問いつめる。

「茜と明恵の姿を、わたしはもう見ることができない。きさまのせいで」

 健夫が突然叫び声をあげ、永井に躍りかかろうとした。それを、近くにいた警官らが必死になって制止しようとして、その場はしばらく混乱状態におちいった。

「いけない!」

 突然、伊勢谷くんが叫び、永井の腕に手を伸ばした。けれど一拍早く、永井は懐から取り出した小瓶の中身を飲み干してしまった。

「わたしにも、こいつの血が流れている。だから、復讐を果たした今、この命は――」

 永井は言葉の途中で吐血し、そのまま絶命してしまった。

「クソッ」

 床に倒れ込む永井の身体を支え、鱒沢が悪態を吐いた。

「復讐を果たしただって?」

 僕は疑問に思いつぶやいた。

「永井さんは、たしかに復讐を果たしたようだね」

 伊勢谷くんは静かにいった。その視線のさきには、心臓をおさえたまま絶命した江神章造の姿があった。

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