第15話 魔女の笑い声

「うわああああっ」

 自分の叫び声に驚いて、不覚にも目を覚ました。

 そこは新幹線の中だった。周囲にいる他の乗客たちの視線が痛い。

 顔を隠すようにして、大粒の雨が叩きつけられている窓ガラスに目をやった。激しく流れ落ちる雨滴の隙間から、田園風景が広がっているのが見える。

「ふう」

 今見たのが夢だったのだと認識して、僕は心の底から安堵のため息を吐いた。

 たった今見た夢。それは―――

 暗い畦道を、僕は茜に手を引かれて走っていた。前方には、ロウソクの火でぼんやりと光る巨大井戸がある。

「早く早く! あの人が待ってるんだから!」茜が言った。

「あの人って?」僕は息を切らしながら訊き返す。あの人とは、山口のことを言っているのか、と思った。

「行けばわかる」茜は微笑みながら、僕の手を引っ張り続ける。

「誰もいないじゃないか」巨大井戸には、誰の姿もない。

「その中を覗いて」茜が井戸の中を指差す。「この中」

 僕は言われるままに、井戸の中を覗き込んだ。けれど、金網の張られた井戸の中には、やはり誰もいない。

「何も見えない……」茜に文句をいおうとした、まさにその時だった。

 キィ――キィ――キィ――キィ――

 魔女の笑い声だ! と思った次の瞬間、井戸の底からわし鼻をした老婆が勢いよく浮かび上がってきた、かと思うと、金網の隙間から両腕を突き出してきて、僕の両肩を恐ろしい力で掴み、井戸の中へと引きずり込もうとしてきた。

 僕には抵抗する術がなかった。身体が宙に浮き、目の前に金網が近づいてくる。ぶつかる! と思い、目を瞑った次の瞬間、僕は井戸水の中にいた。まるで金網をすり抜けたように、何も感じることなく、井戸の中に移動していたのだ。

 魔女に両足を掴まれ、井戸の底に引っ張られる。助けを求め、水面のほうを見上げると、井戸の縁に茜の姿が見えた。僕に手を振りながら笑っている。

 その茜の肩越しに、大きな満月が浮かんでいるのが見えた。その満月に、まるでアニメのように、ホウキにまたがる魔女のシルエットが浮かんだ。そして、またあの音が聞こえてきた。

 キィ――キィ――キィ――キィ――

 僕はそのまま、真っ暗な井戸の底へと引っ張られ――目が覚めた。

 バッグからタオルを出して、悪夢によって吹き出した汗を拭った。

 やはり茜は魔女につれ去られてしまったのだろうか? ただ雑誌の取材に行っただけなのに、大変な事件に巻き込まれてしまった。……雑誌の取材? しまった、中島さんに連絡するのを忘れてた! 

 慌ててデッキへ出て、中島さんに電話をかけた。

「もしもし」中島さんの眠そうな声が返ってくる。

「鳴瀬です」

「ああ、鳴瀬くん。どうした? 取材は順調に進んでる?」

「それが……」僕は、昨日から今朝にかけての出来事を、掻い摘んで話した。

「まさか、そんなことになっていたなんて」

「すぐに連絡しなくて、すいませんでした」

「警察の取り調べを受けていたなら、しょうがないよ。しかし、山口さんが前科者だったとはねぇ」中島さんは、重い吐息混じりに言った。

「もし山口さんが、何か重大事件に関わるようなことをしていたら……」

「大変なことになるね。うちの雑誌が、非難の矢面に立たされることになる可能性が出てくる」沈黙が流れた。

「まあ、とにかく、直接会って詳しい話を聞きたい。今日は都合が悪いから、明日、編集部のほうに来てもらえるかな」気を取りなすようにして、中島さんは言った。

「はい」

 通話を切ると、雨の降り注ぐ窓の外を眺めながら、僕は大きなため息を吐いた。

 東京駅に到着したのは昼過ぎだった。電車を乗り継ぎして、三軒茶屋駅で降りた。

 空はすっかり晴れ上がり、絵に描いたような春日和になっていたけれど、僕の暗鬱な気分はまったく晴れなかった。

 きさらぎ荘に戻り、伊勢谷くんの部屋のドアをノックしてみた。

「伊勢谷くん?」

 返事はない。諦めて自分の部屋に入り、畳の上に荷物を置いて横になった。どんなにボロくて狭い部屋でも、あんな事件を体験した後では、自分の部屋が一番落ち着く。

 窓の外からは、心地よい春の風が吹き込んでくる。原稿の仕上げをしようと思っていたけれど、気持ちよくなってそのまま寝入ってしまった。

 目を覚まして時計を見ると、十七時を回っていた。眠気覚ましに銭湯へ行くことにして、部屋を後にした。

 まだ人気のない銭湯の湯船に浸かり、思い切り手足を伸ばした。江神旅館の檜風呂と比べるのは酷だけど、広さだけなら勝っている。湯加減も最高だ。両手で湯を掬い、顔にかけた。湯面に映る自分の顔を見ているうちに、井戸の底へ沈んでいく茜の姿が一瞬、脳裏をよぎった。あのキィ―キィ―という、耳障りな音も。

 井戸の中から姿を消した茜と失踪した山口。あの二人の間に、一体何が起きたのか。

 待てよ。僕はさらに考えを巡らせた。

 江神章造に届いた、『復讐の時、きたれり  魔女の末裔より』と書かれた、あの手紙。あれを見て、章造は心臓発作を起こし、玄鶴和尚の様子がおかしくなった。あの二人は何か隠し事をしているに違いない。復讐=茜の失踪に何か関わりがあるのだろうか? だとすると、山口が魔女の末裔? 事実は小説よりも奇なり、とはよく言うけれど、そんな馬鹿げた話があるのだろうか。

 長湯のせいでのぼせそうになってきた。湯船から上がり、素早く着替えを済ませて銭湯を後にすると、コンビニでビールを一本買ってからアパートへ戻った。

 自分の部屋に戻り、窓際に腰を下ろして、缶ビールのプルトップを開けた。一口含む。……美味い! 嫌な記憶は、ビールの泡できれいさっぱり流してしまうに限る。

 頬に当たる風が心地よく、創作意欲が湧いてきて、メモ帳にプロットを書き始めた。と言っても、伊勢谷くんの望むような推理小説ではない。僕はヘミングウェイの『日はまた昇る』のような作品が書きたかった。

「今度は、どんな傑作を読ませてくれるんだい?」

 突然、伊勢谷くんの声が聞こえてきた。見下ろすと、狭い路地に伊勢谷くんが立って、こちらを見上げていた。

「きみも飲まないか」僕は缶ビールを掲げてみせた。

「いいね。そっちへ行くよ」姿を消したかと思うと、階段をのぼる音が聞こえてきた。

 ドアが開き、伊勢谷くんが入ってくる。近くで見ると、今にも眠り込んでしまいそうなほど疲労困憊していた。

「今回もまた随分と根を詰めたようだね」

「来月に、スイスで開かれる学会で発表するためのデータ集めをしていてね。かなりタイトなスケジュールなんだ。今日休んで、また明日の夜からしばらく帰ってこない」伊勢谷くんはそう言うと、僕から受け取った缶ビールのプルトップを開けた。

「乾杯」缶を突き合わせて、一口飲んだ。

「きみも疲れてるようだね」僕の顔を覗き込むようにしながら、伊勢谷くんは言った。さすがに鋭い。

「実は……」待ってましたとばかり、僕は昨夜の出来事を話し始めた。

「魔女ねぇ」

 僕の話をすべて聞き終え、スマートフォンで撮った巨大井戸の写真を眺めながら、伊勢谷くんはいかにも眉唾ものだ、と言いたげな表情で呟いた。

「本当に、僕の目の前で井戸の底に沈んでいったんだ」

「だけど、井戸には金網が張り巡らされていた、と」

「うん。断っておくけど、いくら茜ちゃんがスリムだといっても、絶対に通り抜けられないほど狭い隙間しかなかったんだよ。そりゃ、無理にこじ開ければ、力ずくで隙間を広げられるかもしれないけど、そんな痕跡は一切なかった。つまり、井戸の中は密室、いや密井戸だったってわけさ」

「密井戸か、ハッハ!」伊勢谷くんは、遂に堪らずといった感じで笑い出した。

「何がおかしい?」僕はムッとした。

「例えば、の話だけどね」伊勢谷くんはそう前置きをすると、「きみは、隙間を広げた痕跡はなかったといったね?」

「うん。たった今、言ったばかりだよ」

「じゃあ、その金網が超弾性、つまり形状記憶合金だったとしたら?」

「形状記憶合金?」

「チタンやニッケル合金は、他の金属と違って、変形ひずみを残すことなく元の形に戻すことができる。ほら、曲げても元の形に戻る眼鏡があるだろう? あれのことだよ」

「ああ……」僕はあっけなくも納得してしまった。そんな可能性、考えてもみなかった。

「怪奇現象なんてものはすべて、人間の恐怖心の産物だよ」

 伊勢谷くんはそう言うと、急に興味を失ったような顔をして、スマートフォンを僕に返してきた。瞼がトロンと落ち、今にも眠ってしまいそうだ。

「じゃあ、聞くけど、茜ちゃんが井戸の底に沈んだ後に聞こえてきた、不気味な音は一体何だったんだろうね」僕は挑むような口調で訊いた。

「さあ。少なくともきみが思っているような、魔女の笑い声なんかではないだろうね。話の途中で悪いけど、部屋に戻るとするよ。アルコールのせいで急激に眠気が……」

「伊勢谷くん?」

「……」

 ダメだ。完全に寝てしまった。肝心な所でまったく。

 仕方がないから、僕は伊勢谷くんを背負って彼の部屋へ連れて行き、布団の上に寝かせた。

 帰り際、推理の参考になるかと思い、本棚から密室物の巨匠ディクソン・カーの小説を何冊か失敬して、自分の部屋に戻った。

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