第八夜 8月1日(後編)

 私は面倒くさいことが嫌いだ。特に子どもの扱いにくさと言ったら、飲み過ぎてゲロを吐く大人以上である。


 まず、奴らは悪戯が好きだ。そして限度を知らない。以前、私が愛用していた夢見蚕ゆめみかいこのコートに染みを作られたことがある。コーヒーの染みだ。他の教員も、仕方がないと笑って慰めてきたが、私は「仕方がない」なんて思わない。十五万だ。十五万もするコートだったんだぞ。仕方ないことがあるか!


 学生が自由なのが悪いんだ。動物並みにバカな奴らは、きちんと首輪を付けて躾けなければ。


 「君には、答えが分かっていそうですね」


私は、授業の初めから目を付けていた生徒に声をかけた。ボサボサの赤毛に、妙な衣装をまとった女学生。気怠そうに机に突っ伏して、チャイムが鳴っても私の顔を見ようともしなかった。愚物め。


「……わたしは別に、答えを見つけたわけじゃありません。ただ、逆に考えてみただけ」


彼女は妙な前置きをしてから、心底どうでもいいことのように答えた。そう、「どうでもいい」ことを強調するかのように。


「逆とは?」

「『今日は8月1日である』。それを前提に考えてみたんです」

「それを否定するために?」

「いいえ。。遠い昔、どっかの誰かが今日を8月1日ってことにしてれば、今日は8月1日だったはず」


まずい。頷くしかない。否定できない。反駁を、何か――。


「つまり、8月1日は自然界には存在しない。わたしたちの頭の中にある。今日が8月1日じゃないのは、わたしもあなたも、この教室の誰も、今日を8月1日だと思っていないから。……だと、思います」

「……唯心論ですか」

「問題の設計ミスですよ」


こいつ……さては知っているな? 全てのからくりを。私のを。


 どうする。どうする。上層部の奴らに密告されるのは困る。なぜならこの学校において、「人の心を操る魔法」は使用を禁止されているからだ。


 仕様がない。こうなったら実力行使だ。学校に通っているような青二才に、私が負けるわけがない。私は懐からチョークを取り出して、でたらめなことを書き始めた。コンコンと黒板を叩く音が、広い教室にこだまする。


 カッカッ、コツコツ。カッカッ、コツコツ。


 意味不明の文字列がびっしりとスペースを埋め尽くし、巨人のような迫力をもって立ち上がる。


 私の「人の心を操る魔法」においては、小さな綻びが決定的な意味をもつ。格下相手にずーっと敬語を使っていたのも、奴らの警戒を解くためだ。油断していた相手から実存を揺さぶられることほど、精神の動揺を誘うことはない。


 さらに、チョークにはサイミンチョウの鱗粉が仕込んであるし、文字を書くときの一定のリズムは、人の心を落ち着かせる。催眠術師が十円玉をぶらさげて、振り子にして見せるのと同じ原理だ。


 これが私の本気。


 さぁ、お前も他の生徒たちと同じように、無駄な思考をすべて放棄してしまえ――。


 「『いつもの癖を抑えられなくなる』」

「……なに?」

「『正常な思考ができなくなり、特に抽象概念を扱うのが難しい』。『術にかかった瞬間、強い眠気におそわれ、一時的に意識を失う』。『催眠中に起こったことは記憶していないが、得た知識や技能は思い出されることがある』」

「…………」


この魔法の作用と副作用だ。全て正しい。


「私は否定しませんし、誰かに告げ口もしません。今までもこのやり方で、みんなの成績を上げていたんですよね?」


その通りだ。私が教えた生徒は、いつも総じて成績が良い。この魔法で心を操って、知識を直接身体と精神に叩き込めば、無駄なことをしなくても必要事項を学ばせられる。まぁ、生徒たちは皆「内容は覚えてるけど、授業で何をしたかは覚えていない」と言うのが常だが、それで困ったという話は聞いたことがない。


 所詮こいつらは、試験に合格さえできればいいのだ。


 「だから別に、いきなり変な魔法使ってきたことに文句はないんですけど」


赤毛の少女は、こともなげに告げた。


「さっきから隣の貧乏揺すりが酷いんで、それだけ何とかしてもらえません?」


 魔法学校中等部二年。


 これが、後に伝説の魔女として語り継がれることになる忌まわしい少女の名が、私の記憶に永遠に刻まれた瞬間である。

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