第七夜 8月1日(前編)
「マリナくん」
授業がはじまるや否や、サンミィ教授は前列の学生に声をかけた。
「今日は何日でしょうか」
つまらない問題だ。わざわざ生徒に訊くことがあるか。マリナは鉛筆をくるくると指で回しながら、「7月26日ですけど」と答えた。すぐ後に「なにか?」とは続けなかったが、教室にいるほぼ全員が同じ疑問を抱いていたことだろう。
しかし、彼は思わぬ方向に授業の舵を切った。
「なるほど。今日は7月26日ですね。では、今日が8月1日ではないことを、いかにして知ることができるでしょう」
「はい?」
「実は、8月1日までにやれと言われている仕事がありまして。もしかしたら今日が締め切りの日ではないかと、朝から気が気でないんです」
「……カレンダー見れば良いじゃないですか」
「さっき見てきました。そしたら、驚くべきことに、今日は7月26日だったんですよ」
見開かれた先生の目が、白玉団子に似ている。丸くて白くてツルツルしていて、夏のこの時期にシロップをかけたらとっても美味しく食べられそうだ。抹茶味のかき氷にトッピングしたら、あんことの相性が抜群ですねって、眼球が抜け落ちたサンミィ先生も笑ってる。
マリナの妄想は、他人には理解されがたい。
「じゃあ」
平静を装ってマリナが続ける。右手ではペンを回し、左手では机をコツコツと、苛立たしげにノックしながら。
「今日は7月26日で、問題ないんじゃないですか?」
「えぇ。しかしですね……今日が7月26日であると同時に8月1日である可能性を、どうやって否定するのでしょうか?」
教室の温度が一度下がった。ような気がした。
なんてくだらないジョーク! 今日が7月26日なのは分かっているけれど、まだ確証が足りないだって? どの頭のネジが外れたら、そんな奇天烈なことを考えつくんだろう?
マリナの不満は、もう最高潮に達していた。
「有り得ない」
「なぜ?」
「だって、今日は7月26日で……」
「だから、どうして8月1日ではないことになるんです?」
「それは……」
「天体の動きでしょう」
と、そこで別の男子生徒が助け舟を出した。
「と言うと?」
「7月26日と8月1日では、星の配置がちがう。今日の空は7月26日の空だから、8月1日ではない」
おー、と賞賛の声が上がった。これは確かに、さっきより正解に近い気がする。
「なるほど」
サンミィ先生も納得した、と誰もが思った。
「今日の空は、本当に7月26日の空でしょうか」
「え?」
「あなたが7月26日に固有だと思っている天体の位置、日の長さ、星座の種類、月の満ち欠け、夕暮れの色。それらが全て、実は8月1日の性質であったら、どうします?」
「どうって……」
ボリボリボリボリ、と短髪の頭を掻きむしる。この無意味な問答に、彼も苛立ちを隠しきれなかった。
「ところであなた。本当にこの学校の生徒でしたっけ?」
「え?」
「この学校の生徒ですか?」
「そうですけど」
「証明してみせてくださいよ」
「ここに学生証が――」
「それが証明になりますか? そもそもあなた、本当にあなたなんですか? 今、あなたの中に渦巻いている思考が、記憶が、知識が、あなたのものであるとどうやって断言できるんです? 母親の姿を想起しますか? お腹を痛めてあなたを産んでくれた母親? 愛してくれた母親? それだって捏造された記憶ではないと、どうして確信できるんです?」
英雄はただちに没した。後には骨も墓も残らないだろう。
さらに何人かの学生が反論したが、ことごとくサンミィ教授に論破され、戦没者の碑には新たな名が刻まれていった。
「ふぅ」
気が付けばもう顔を上げている生徒はなく、サンミィ教授はポキポキと首を鳴らした。
授業初日。彼にとって、今学期で最も重要な一日である。
なぜなら。
「そこの君」
放っておくと面倒くさいことになるからだ。
「君だよ君。そこで寝たふりをしている、赤毛の娘」
「……まだ寝てます」
――こういうズル賢い奴は。
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