物語欠乏症

鹿条一間

第一夜 物語欠乏症

 「物語欠乏症です」


「……え、いま何て言いました?」


「物語欠乏症。物語が欠乏することで起きる症状です。放っておくと動悸、胸やけ、呼吸困難の症状が現れ、時には死に至ることもあります」


「そんな。治るんですか」


山井は慌てた。心当たりがあったからだ。


 最近、にわかに呼吸の仕方が分からなくなり、壁にもたれかかることが増えた。深呼吸を意識すれば治るとはいえ、このまま放っておいたら息ができなくなるのではないか。そういえば、時々動悸もある。今朝も心臓がバクバクして目が覚めた。週に二回はそんな日がある。あぁ、なんだか胸焼けもしてきた。


 「簡単です」


前田は細いフレームの眼鏡を外した。


「毎夜一話、物語ればいいんです。そしたらすぐに良くなりますよ」


「そんなものですか」


「そんなものです」


「物語るというのは、その、誰かと語り合えということですか」


「いいえ、書くのです。肝心なのは、物語の消費者ではなく生産者になることですから」


「生産者……」


「原稿用紙を処方しておきますので、二週間ほどしたら見せに来てください」


「はあ」


なるほど物語が欠乏しているのなら、物語を補給する必要があろう。


 しかし、本当にそんな治療があるのか。疑わしい気持ちもありながら、前田医師の言葉は信頼できるような気がした。彼女はいくつもの試練をくぐり抜けた、歴戦の魔法使いのように見える。


「ご達筆に」


席を立つとき、前田が声をかけた。


「あ、はい」


(お大事に、の聞き間違いかな)


山井はぎこちなく笑いながら、両手でそっと、扉を閉めた。

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