揺らぎのドレスコード

夜の風が頬を冷たく撫でる。


人気のない路地裏を歩く直哉は、自分の居場所を探していた。


高校二年生の彼は、どこかで心が落ち着く場所を求めていたが、家庭にも学校にもそれを感じることができないでいた。


女子制服や可愛い服に憧れながら、それを言い出せない自分がもどかしく、また恥ずかしかった。


その時、薄暗い路地の隅で誰かがうずくまっているのが目に入った。


酔っているのだろうか?派手な服に身を包んだその人は、足元をフラつかせながらベンチにもたれかかっていた。


直哉は少し迷ったが、放っておけなかった。


「大丈夫ですか?」


その人物は顔を上げた。


きれいな顔立ちに化粧が施されているが、どこか疲れた表情が浮かんでいる。低めの声が返ってきた。


「……ああ、ごめんね。ちょっと飲みすぎちゃっただけ。」


「えっと、何か手伝えることありますか?」


「ふふ、優しい子ね。でも大丈夫よ、ほら。」


立ち上がろうとするその人の足は覚束なく、バランスを崩して再び座り込む。


直哉は思わず手を差し伸べた。


「無理しないほうがいいですよ。近くで休める場所、探しましょうか。」


その言葉に、その人は少し驚いたようだったが、直哉の顔をじっと見て柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。君、名前は?」


「直哉です。」


「そう。私は美咲。よろしくね、直哉君。」


美咲の提案で、近くの彼女の家に行くことになった。


アパートの中は、外観の落ち着いた雰囲気とは違い、華やかで明るい空間だった。


壁にはポスターやアートが飾られ、テーブルの上にはメイク道具や香水が整然と並んでいる。


「ふふ、ちょっとごちゃごちゃしてるけど気にしないで。お茶でも淹れるから座ってて。」


直哉は少し緊張しながらソファに座り、周囲を見回した。


美咲は慣れた手つきでポットにお湯を注ぎながら、こう尋ねた。


「君、どうしてこんな夜遅くにひとりで歩いてたの?」


「……ただ、なんとなくです。」


「ふーん。でも君、普通の高校生には見えないね。どこか繊細というか、独特な雰囲気がある。」


直哉はドキリとした。まるで自分の内面を見透かされているような気がした。話題を変えようと、机の上にある服や化粧品に目を向ける。


「美咲さん、すごいですね。こんなにたくさん……全部使うんですか?」


「まあね、仕事柄必要だから。でも、君も興味あるんじゃないの?」


「えっ?」


「だって、君の目、こういうものを見るときだけキラキラしてるよ。」


その一言に、直哉は思わず赤面した。


「試してみる?」


美咲の何気ない提案に、直哉は最初、強く首を横に振った。


「いや、そんなこと……無理ですよ!」


「無理って何?男が可愛い服を着ちゃいけないって誰が決めたの?ここには誰もいないから、安心して。」


「でも……。」


「ほら、この服なんて似合いそうじゃない?」


美咲が手に取ったのは、薄いピンクのフリルが付いたワンピースだった。


直哉は目を奪われたが、それを素直に認めることができなかった。


「試しに着るだけでいいから。嫌だったらすぐ脱げばいいでしょ?」


美咲に押される形で、直哉は浴室で着替え始めた。


ワンピースを着て鏡を見ると、自分が自分ではないような感覚に陥った。


普段の無難な制服姿とは全く違い、そこには柔らかい雰囲気を纏った自分が立っている。


「おー、やっぱり似合うじゃん!」


リビングに戻ると、美咲が歓声を上げた。


「いや、なんか……変ですよね。」


「全然変じゃない。むしろ自然だよ。」


その時、美咲がクローゼットから何かを取り出し、ニヤリと笑った。


「でも、服だけじゃ物足りないよね。下着もつけてみない?」


「えっ!」


直哉の顔が一気に赤くなった。


「冗談じゃないよ。服を着るなら、下着から揃えるのが本当の女装でしょ。」


美咲は手際よく、レースの付いたブラジャーとショーツを差し出した。


直哉は戸惑いながらも浴室に戻り、それを身に着けた。


鏡に映る自分を見た瞬間、心臓がドキドキと高鳴った。


普段は意識もしなかった「女性らしさ」に包まれる感覚が、彼を不思議な興奮と恥ずかしさで満たした。


「どう?」


浴室から出てきた直哉に、美咲が嬉しそうに尋ねる


「……すごく、恥ずかしいです。でも……なんだか


「うん、それがいいのよ。恥ずかしいのは最初だけ。慣れると、これが自然になるんだから。」


直哉は頷きながら、胸の中のざわめきを感じていた。


この感覚は一体何なのだろう?彼は言葉にできない気持ちを抱えたまま、その夜を過ごした。


それから数週間、直哉は学校のない夜や週末になると、美咲の家を訪れるようになった。


二人だけの特別な時間は、次第に直哉の心を軽くしていった。


美咲は直哉が気後れしないよう、ゆっくりと彼の興味や好奇心に寄り添い、無理のない範囲でさまざまな服やメイクを提案してくれた。


この夜も、直哉は美咲のクローゼットの前で悩んでいた。


「今日はどれにしようかな……。」


「直哉君、だいぶ慣れてきたね。」美咲は微笑みながら彼の隣に腰を下ろした。


「最初の頃は、服を手に取るだけで真っ赤になってたのに。」


「だって、やっぱり最初は恥ずかしかったんですよ。でも……最近は楽しいなって思うようになってきました。」


美咲は嬉しそうに頷き、棚から薄紫色のシフォンワンピースを取り出した。


「これなんてどう?少し落ち着いた色だから、君にぴったりだと思う。」


「うん……着てみます!」


直哉はもう躊躇しなかった。


浴室で素早く着替え、リビングに戻る。


彼はワンピースの下に美咲が選んだレース付きの下着を身に着けていたが、今ではそれすら自然に感じられるようになっていた。


「おー!完璧じゃない!」美咲は満足そうに言った。


「やっぱり直哉君、スタイルいいし、顔立ちも中性的だからこういうの似合うのよね。」


「本当にそう思いますか?」


「もちろん。鏡、見てみなさいよ。」


美咲に促され、大きな姿見の前に立つと、直哉の胸が軽く高鳴った。


そこに映る自分は、まるでいつもとは別人のようだった。


細やかなフリルや揺れるスカートが、彼の中の新しい一面を引き出しているように感じた。


「……なんか、楽しいです。」


直哉がぽつりと漏らすと、美咲は軽く笑った。


「でしょ?服ってただの布じゃないの。気持ちまで変えてくれるのよ。」


二人はそのままリビングのソファに座り、他愛ない話をしたり、映画を見たりして穏やかな時間を過ごした。


美咲が彼のために用意してくれたハーブティーの香りが部屋を満たしている。


「直哉君って、女の子になりたいわけじゃないんだよね?」ふと美咲が尋ねた。


「うん、そうだと思います。僕はただ、こういう服が好きで、こういう時間が楽しいんだと思います。」


「それでいいのよ。性別とか気にしなくていい。大事なのは、自分がどう感じて、何を大切にしたいかってことだから。」


その言葉に、直哉は静かに頷いた。


これまでずっと「普通」とされるものに縛られていた自分が、少しずつ解放されていくのを感じた。


その夜、直哉は化粧までしてもらい、すっかり「女の子らしい自分」に仕上がっていた。美咲は彼を眺めながら満足げに言った。


「本当に素敵。ねえ、このまま外に出かけてみない?」


「えっ!?」直哉は驚いたが、少し考えた後、小さく頷いた。


「でも、次回でお願いします。今日はもう少し、ここでゆっくりしたいので……。」


二人の関係は、特別なものへと深まっていった。


直哉にとって美咲は、新しい世界を見せてくれた恩人であり、友人であり、自分らしさを肯定してくれる存在だった。


夜が更けていく中で、直哉は心から笑い、美咲もまたそんな彼を見て微笑んでいた。


二人にとって、性別や見た目を超えた「自分らしさ」の追求は、新たな日常の一部となっていった。

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