028 第26話:日常と非日常

 4月22日火曜日、午前7時40分。


 聖蹟中学校へ続く通学路を、デヴォラントは花音と並んで歩いていた。桜の花びらが風に舞い、春の陽光が穏やかに二人を照らしている。周囲には他の生徒たちの笑い声が響き、平和な朝の風景が広がっていた。


 しかし、隣を歩く花音の表情には、わずかな不満が浮かんでいる。


「お兄ちゃん、最近また平和すぎない?」


 花音が小声でそう呟いた。彼女の右手の指先が、無意識に小刻みに震えている。デヴォラントは、それが何を意味するのかを理解していた。暴力衝動の蓄積。退屈による欲求不満。花音という連続殺人鬼が内に秘める獣性が、表に出ようとしている兆候だ。


「焦るな」


 デヴォラントは平静な声で答えた。


「もうすぐ動きがある」


「本当?」


 花音の瞳が、一瞬だけ鋭く輝いた。しかしすぐに、いつもの愛らしい少女の表情に戻る。この切り替えの早さ、演技の完璧さこそが、花音の最大の武器だった。


 二人の前方、五十メートルほど先を、一人の女子生徒が歩いていた。李美琳だ。彼女は何かに気づいたように振り返り、デヴォラントたちと目が合った。


 自然な笑顔。柔らかな雰囲気。しかしその視線は、明らかにデヴォラントを観察していた。


「おはよう」


 李美琳が軽く手を振る。デヴォラントも笑顔で応えた。二人の間には、周囲の生徒たちには見えない緊張が走っている。


(まだ確証は持っていないようだが、確実に俺を疑っている)


 デヴォラントは内心で分析しながら、「普通の中学生」の仮面を維持した。




◇◇◇




 午前8時10分、3年A組の教室。


 デヴォラントが教室に入ると、既にクラスメイトたちが話題で持ちきりだった。


「神崎、お前テレビ出るんだって!?」


 クラスメイトの一人が、興奮した様子で声をかけてきた。彼の手には、芸能情報誌が握られている。そこには、美沙との兄妹共演の撮影風景が掲載されていた。


「あ、ああ……まあ、エキストラみたいなものだから」


 デヴォラントは謙虚に答えた。高橋蓮の記憶から引き出した、適切な謙遜の技術。過度に卑下せず、しかし自慢もしない。この絶妙なバランスこそが、好感度を高める秘訣だった。


「すげえよ、神崎! 俺、芸能人の知り合いとか初めてだわ!」


「将来、有名になったら俺たちのこと忘れんなよ」


 次々と声がかかる。デヴォラントは完璧な笑顔で応えながら、教室の雰囲気を観察していた。


 羨望。好奇心。そして、わずかな嫉妬。


 人間という生物は、感情を隠すことが下手だとデヴォラントは改めて思った。彼らの表情、声のトーン、身体の動きから、あらゆる感情を読み取ることができる。


 隣の席では、李美琳が静かに教科書を開いていた。しかし、その視線は時折デヴォラントに向けられている。


「神崎君、すごいね。芸能活動なんて」


 李美琳が声をかけてきた。その声には、好奇心と、何か別の感情が混じっていた。


「ありがとう。でも李さんもすごいじゃないか。体育の授業とか、中学生とは思えない動きだよね」


 デヴォラントは自然に会話を返した。李美琳の瞳が一瞬だけ鋭くなる。


 だがそれは一瞬のことで、すぐさまいつもの表情に戻った。


(これは流石に皮肉が過ぎたかな)




◇◇◇




 午前10時、グラウンド。


 体育の授業では、男女合同でサッカーが行われていた。春の陽気の中、生徒たちは元気に走り回っている。


 しかし、この平和な授業の中でも、二人の存在は際立っていた。


 李美琳の動きは、明らかに常人を超えていた。ボールを完璧にコントロールし、誰も追いつけないスピードで駆け抜ける。跳躍力も驚異的で、男子生徒たちの頭上を軽々と越えてヘディングを決める。


「李さん、すげえ!」


「どうやってあんな動きできるの!?」


 周囲の生徒たちが驚嘆の声を上げる。しかし李美琳は、わざと照れたような表情を作った。


「中国で雑技団にいたことがあるから……」


 嘘だった。正確には、中国人民解放軍特殊部隊で過酷な訓練を受けた結果だ。しかし、それを口にすることはできない。


 デヴォラントも、適度に身体能力を発揮していた。目立ちすぎず、しかし確実に優秀なレベル。彼の動きは計算され、洗練されていた。


 休憩時間、給水所で二人は隣り合わせになった。


「神崎君、運動神経もいいんだね」


 李美琳が自然に話しかける。


「李さんほどじゃないけどね」


 表面上は普通の会話。しかし、互いに相手を探り合っている緊張感が、空気に満ちていた。


(さて、ここらで布石を打っておくか)


「李さんは……綺麗だよね」


「え……?」


 突然の言葉に、一瞬彼女の動きが止まった。


「いきなり何をッ」


 訝しげな表情を見せながらも、若干頬が紅潮している。心拍数も僅かに上昇し、発汗量が増加したのをデヴォラントは把握していた。

 

「なんというか、動きの一つ一つが洗練されて、綺麗だなって」


「あ……」


 意図に気付いたのか、李美琳は拍子抜けしたような声を出した。


「以外ね。神崎くんってそういう冗談も言うんだ」


「冗談、ってわけでもないんだけどね」


「そう。それならありがとうって言うべきかしらね」


 いつの間にか、緊張した雰囲気がいくらか和らいでいた。

 その後も軽い談笑を続けて授業に戻ったが、デヴォラントは李美琳の視線の色が僅かに変化していることを感じた。



◇◇◇




 昼休み、聖蹟中学校屋上。


 李美琳は一人、屋上のベンチに座っていた。手には弁当があったが、まだ箸をつけていない。彼女はポケットから小型の暗号化端末を取り出し、通信を開始した。


 画面には、龍海峰副隊長の冷たい表情が映し出された。


「神崎優の監視状況を報告しろ」


 副隊長の声は、いつも通り慇懃無礼だった。


「確証は得られていません。しかし……」


 李美琳は慎重に言葉を選んだ。


「彼の行動パターンには、明確な計算が見られます。全ての動作、全ての言葉が、意図的に選ばれているように見えます」


「それだけか?」


「はい。現時点では状況証拠のみです」


 副隊長は不満そうに鼻を鳴らした。


「慎重に監視を継続しろ。まだ動くな」


「了解しました。しかし……」


 李美琳は言葉を濁した。


「何だ?」


「大規模な術式の準備、本当に必要なのでしょうか。標的が確定していない状態で、龍脈を操作することは……」


「それは楊道士の判断だ。お前が口を出すことではない」


 副隊長の声が冷たくなる。李美琳は黙って従った。軍人として、命令に従うことが彼女の務めだ。しかし、内心では疑問が拭えなかった。


 その時、通信に割り込みが入った。画面が一瞬乱れ、別の顔が映し出される。


 呂閻王だった。


「ダラダラとまだるっこしいんだよ、クソ猫女」


 粗暴な声が、端末から響いた。李美琳の表情が険しくなる。


「呂閻王……!」


「お前は監視ばかりで何もしやがらねえ。俺ならもっと手早く済ましてるぜ」


 画面の向こうで、龍海峰副隊長が制止しようとする声が聞こえた。しかし、呂閻王は通信を一方的に切断した。


 李美琳は端末を握りしめた。指先が震えている。


(あの男……勝手な行動を起こすつもり?)


 嫌な予感が、彼女の胸を満たした。呂閻王という男は、部隊の中でも特に危険な存在だ。残虐で、独断専行を繰り返し、民間人の被害を顧みない。


(呂閻王は危険すぎる……)


 李美琳は空を見上げた。青く澄み渡った春の空。しかしその下で、不穏な計画が進んでいた。




◇◇◇




 同時刻、富士山麓の日米合同指揮所。


 グレイ少佐は、本国から送られてきた機密情報を精査していた。彼の前のモニターには、龍脈の異常を示すデータが表示されている。


「中国人民解放軍の異能部隊、道師連が日本に潜入……」


 グレイは低く呟いた。横には、高峰香織一等陸尉と鳳修弥が立っている。


「龍脈の乱れ、パターンが人工的です」


 鳳が分析データを指し示した。


「最近の龍脈の変動を解析したところ、明らかに意図的な操作の痕跡があります。青木ヶ原の異星生命体事件とは、別の原因ですね」


「誰かが龍脈を……」


 高峰一等陸尉が地図上にマーキングを加えた。


「世田谷区周辺で局所的な龍脈の乱れが観測されています。しかし、これは異星生命体が原因ではない。むしろ、道師連の術式準備の副作用かもしれません」


 グレイは腕を組んで考え込んだ。


「異星生命体の捜索と並行して、道師連の動向を調査する。彼らが何を狙っているのか、突き止めなければならない」


 三人は、互いに頷き合った。複数の脅威が同時に存在している状況。それぞれの思惑が複雑に絡み合い、東京という巨大都市の水面下で蠢いている。




◇◇◇




 午後1時、警視庁捜査一課。


 加藤修三警部は、机の上に広げられた事件ファイルを見つめていた。定年まで残り三ヶ月。しかし、彼の刑事としての直感は、この事件を見逃すことを許さなかった。


「神崎優……」


 加藤は低く呟いた。ファイルには、神崎優という少年の周辺で発生した数々の不可解な事件が記録されている。


 半グレ集団BLACK WOLVESの壊滅。蛇島建設の社会的破滅。鰐淵美桜の刺殺事件。研究所の爆発事故と時期が重なる失踪・帰還。


「これらが偶然とは思えん……」


 加藤は長年の経験から培われた直感に従っていた。事件の背後には、何かがある。そして、その中心に神崎優という少年がいる。


 しかし、証拠は不十分だった。全ての事件は、表面上は神崎優とは無関係に見える。完璧なアリバイ、完璧な偽装。まるで、高度な知能を持つ何者かが、全てを計算しているかのようだ。


 加藤はデータベースにアクセスし、神崎優の行動履歴を検索した。しかし彼は知らない。このデータベースが、デヴォラントによって監視されていることを。


「証拠は不十分だが、俺の刑事としての勘が告げている」


 加藤は拳を握りしめた。


「神崎優、お前がそうなのか?」




◇◇◇




 午後4時、渋谷のスタジオ。


 放課後、デヴォラントは撮影現場に向かった。小規模なCM撮影だ。スポーツドリンクの学生役という、ありふれた仕事。しかし、デヴォラントにとっては全てが計算の一部だった。


「それじゃあ、本番いきまーす!」


 監督の声が響く。カメラが回り始めた。


 デヴォラントは、演技力を完璧に発揮した。自然な笑顔。爽やかな雰囲気。しかし同時に、微妙な感情の揺れを表現する。たった十五秒のCMに、プロの俳優としての全てを詰め込んだ。


「カット! OK! 神崎君、完璧だよ!」


 監督が興奮した様子で叫んだ。


「新人とは思えない! わずか二テイクで完璧だ!」


 スタッフたちが驚嘆の声を上げる。デヴォラントは謙虚に頭を下げた。


 撮影終了後、社長兼マネージャーの川村が近づいてきた。


「優君、映画のオーディションの話が来てるよ!」


「本当ですか?」


 デヴォラントは、適度な驚きと喜びを表情に浮かべた。完璧な演技だ。


「このまま順調にいけば、夏には知名度が跳ね上がるよ。神崎兄妹のブランドイメージも確立できる」


 川村は満足そうに頷いた。デヴォラントは内心で計算を続けていた。


(芸能界進出は順調。布石は整いつつある)


 しかし同時に、別の懸念も頭をよぎった。


(道師連の動きが気になる。慎重に動いているようだが、不確定要素もある)




◇◇◇




 午後7時、神崎邸。


 夕食を終えたデヴォラントは、自室でノートパソコンを起動した。ハッキング技術を駆使し、各組織の通信を傍受する。


 まず、道師連の暗号通信を解読した。


『大規模な術式の準備中。標的確定まで待機』


『副隊長の慎重な指示を確認』


 デヴォラントは冷静に分析した。


(道師連は術式とやらの準備が整うまで、直接的な行動は起こさないだろう)


 次に、神域保全機構の通信を傍受した。詩織からの報告内容を把握する。霊的バリア強化計画が進行中だ。


 そして、警視庁のデータベースにアクセスした。加藤警部の捜査資料を閲覧する。


 画面には、自分自身の名前が主要な捜査対象として記載されていた。


(マークされたか……厄介だが、証拠は不十分だ)


 デヴォラントは冷静に状況を分析した。加藤警部は優秀な刑事だ。直感で真実に近づいている。しかし、証拠がなければ動けない。日本の法治国家という枠組みが、彼の行動を制約している。


 最後に、日米合同チームの通信を傍受した。龍脈の乱れが道師連の術式準備によるものだという分析結果を確認する。


(龍脈……この星のエネルギーラインの一種)


 デヴォラントは全ての情報を統合し、戦略を立案した。


 彼の脳内で、複数のシミュレーションが同時に走る。戦略思考、情報戦技術、科学的分析。全てが統合され、最適な行動計画が導き出される。


(完璧だ。全ての駒が揃った)


 しかし、わずかな懸念が残っていた。


(呂閻王という人物。李美琳の報告では、組織内で対立があるようだ)


(独断専行の可能性がある……まあ、対処可能だろう)


 デヴォラントは、呂閻王を「可能性がある」程度のリスクとして認識していた。彼は知らない。明日、その「可能性」が現実になることを。




◇◇◇




 午後9時、デヴォラントの部屋。


 ノックの音が響いた。花音が入ってくる。


「お兄ちゃん、何か面白いこと見つけた?」


 花音の瞳が期待に輝いている。デヴォラントは簡潔に説明した。


「道師連という組織が大規模な作戦を準備している。ただし、まだ動かない。慎重に準備を進めているようだ」


「えー、まだ待たなきゃいけないの?」


 花音が少し残念そうに言った。その指先が、また無意識に震えている。


「焦るな。警察も俺に注目し始めている」


 デヴォラントは慎重に説明を続けた。


「刑事が、俺の周辺で起きた事件に関心を持っている」


 花音の表情が真剣になった。


「お兄ちゃんが? 私じゃなくて?」


「ああ」


 デヴォラントは頷いた。


「お前の仕事は完璧だった。パターンには気づかれているが、証拠は残っていない。むしろ、俺の周辺で起きる不可解な事件の方が注目されている」


 花音は安心したように微笑んだ。


「そっか。でもお兄ちゃんは余裕そうだね」


 彼女の言葉には、純粋な信頼が込められていた。デヴォラントは、その信頼を裏切るつもりはなかった。少なくとも、今は。


「早く何か起きないかなー」


 花音が再び言った。デヴォラントは微笑んだ。


「もう少しの辛抱だ」




◇◇◇




 翌日、4月23日水曜日、午後12時30分。


 昼休み、聖蹟中学校の屋上。


 李美琳は一人、手すりの近くのベンチに座っていた。弁当箱は膝の上にあったが、まだ蓋を開けていない。彼女の視線は、遠くの空へと向けられていた。


 春の青空が、どこまでも広がっている。白い雲がゆっくりと流れ、遠くで鳥の声が聞こえる。都会の喧騒から離れた、この屋上だけは静寂に包まれていた。


 美琳は目を閉じた。風が頬を撫でる。心地よい。しかし、その心は穏やかではなかった。


(神崎優……)


 昨日の会話が、頭から離れない。あの視線。あの言葉。そして、自分の中に生まれた、名前をつけられない感情。


 軍人として、任務に集中しなければならない。感情に流されてはいけない。それが美琳に課せられた規律だった。


 しかし。


 扉の開く音がした。


 美琳は反射的に振り返る。そこには、神崎優が立っていた。


 彼も一瞬、驚いたような表情を見せた。しかしすぐに、柔らかな笑みを浮かべる。


「李さん、ここにいたんだ」


 その声は、春の風のように優しかった。


 美琳の心臓が、一つ大きく跳ねた。


(この偶然……本当に偶然なのだろうか)


 疑問は心の隅にあった。しかし今は、それを問いただす気にはなれなかった。


「神崎君……」


 美琳の声は、自分でも驚くほど柔らかかった。


「どうしてここに?」


「静かな場所で昼食を食べたくて」


 優は弁当を手に持ちながら、少し照れたように笑った。


「邪魔だった?」


「いいえ」


 美琳は首を横に振った。


「全然」


 優がゆっくりと近づいてくる。美琳の隣、適度な距離を保ってベンチに座った。七十センチほどの空間。近すぎず、遠すぎない。しかし、美琳にはその距離が妙に意識された。


 二人とも、すぐには弁当を開けなかった。


 沈黙。


 しかしそれは、気まずい沈黙ではなかった。春の風が二人の間を吹き抜け、遠くで校舎の窓が小さな音を立てる。街の喧騒は遠く、ここだけが別世界のようだった。


 美琳は横目で優を見た。彼もまた、空を見上げている。その横顔は穏やかで、まるで何も企んでいない普通の少年のようだった。


(でも……本当にそうなのだろうか)


 美琳の中で、任務と感情が複雑に絡み合っていた。


「神崎君」


 李美琳が口を開いた。


「芸能活動と勉強、両立大変でしょ?」


 ありふれた質問。しかし、それしか言葉が見つからなかった。


 優は笑った。柔らかな笑み。


「まあ、なんとかね」


 彼は美琳の方を向いた。二人の視線が交錯する。


 美琳の心臓が、また大きく跳ねた。


「でも、李さんの方が大変そうだよ」


「え?」


 予想外の言葉だった。美琳は少し驚いた表情を見せた。


「どうして?」


 優は少し考えるような仕草を見せた。言葉を選んでいるようだった。


「李さん、転校してきたばかりで、友達もまだ少ないでしょ」


 それは事実だった。


「それに……」


 優の声が、少し低くなった。


「なんていうか、いつも一人で何か抱え込んでるような気がする」


 その言葉に、李美琳の胸が締め付けられた。


(この人……)


 表面的な演技の下に隠された、本当の自分。誰にも見せてこなかった孤独。それを、彼は見抜いているのだろうか。


 美琳は、しばらく言葉を失った。風が髪を揺らし、遠くで鳥の声が聞こえる。彼女は視線を空へと戻した。


「そうね……」


 李美琳の声は、震えていた。


「私、実は……ちょっと複雑な事情があって」


 慎重に言葉を選ぶ。どこまで話せばいいのか分からなかった。


「中国の家族と離れて、祖母と一緒に日本に来てるの。祖母が龍鳳エンターテインメントっていう芸能事務所の関係者で……私も研修生として」


 それは表向きのカバーストーリーだった。しかし、その言葉の裏には真実も混じっている。家族という存在を持たない孤独。軍の実験体として生きてきた過去。


「だから、友達とか……作りにくくて」


 美琳は視線を落とした。これもまた、嘘ではなかった。


 優は黙って聞いていた。美琳は、彼が何か言葉を返すのを待った。しかし彼は何も言わず、ただ優しい目で見つめていた。


 その沈黙が、逆に美琳の心を解きほぐした。


 優は少し考えるような仕草を見せた後、適切な言葉を選ぶように言った。


「そっか」


 短い言葉。しかし、そこには本物の共感があるように感じられた。


「でも……」


 優は美琳の方を向いた。二人の視線が、再び交錯する。


 彼の瞳は、春の空のように澄んでいた。しかし同時に、その奥底には何か深いものが潜んでいるようにも見えた。


「李さんは、きっと大丈夫だと思う」


 その言葉と視線に、美琳の心臓が激しく跳ねた。顔が熱くなる。


(なんなの、この感覚……)


 任務中だというのに。監視対象を前にしているというのに。心臓が、制御できないほど早く打っている。


(任務中なのに、心臓が……)


 美琳は慌てて視線を逸らした。空を見上げる。しかし、隣にいる彼の存在が、強く意識された。


「ありがとう」


 美琳は小さく呟いた。


 しばらくの沈黙。


 今度は、美琳から話しかけた。勇気を振り絞るように。


「でも、神崎君も……」


 彼女は再び彼の方を向いた。


「何か、一人で抱え込んでない?」


 優の表情が、一瞬だけ変わった。何か考えているような、遠い目。まるで、ずっと昔の記憶を辿っているような。


 しかしすぐに、彼はいつもの笑顔に戻った。


「そう見える?」


「うん」


 美琳は頷いた。


「なんていうか……神崎君の笑顔、完璧すぎる」


 優が少し驚いたような表情を見せた。


「完璧……」


 彼は自分の手を見つめた。そして、少し自嘲的に微笑んだ。


「まるで、演技してるみたいに」


 美琳がそう続けると、優は小さく笑った。寂しげな笑み。


 しかしその笑みは、すぐに消えた。彼は深く息を吐いた。


 その瞬間、美琳は見た。いつもの完璧な笑顔が、ほんの少しだけ崩れた。疲れたような、どこか諦めたような表情。ほんの一瞬だけ。


「演技か……」


 彼の声は、いつもより低く、どこか遠くを見ているようだった。


「そうだな。ずっと演技してきたのかもしれない」


 美琳は息を呑んだ。これは、本音だ。


「俺は昔から……誰かの目を気にして生きていた」


 優の視線は、まだ自分の手に向けられていた。


「家族が望む息子。教師が望む生徒。友達が望む仲間」


 その言葉には、重みがあった。


「そうやって生きていくうちに、本当の自分が何なのか……」


 彼は空を見上げた。


「時々わからなくなる」


 沈黙。


 美琳の胸に、痛みに似た何かが広がった。彼の言葉が、あまりにも自分と重なったから。


 優はゆっくりと美琳の方を向いた。その目には、いつもの計算された輝きではなく、何か生々しい感情が宿っているように見えた。


「でも、不思議だ」


 彼は言った。


「李さん――美琳には、なぜか……本当のことを話したくなる」


 その言葉に、李美琳の心臓が大きく跳ねた。


「どうしてだろう」


 デヴォラントは、まるで自分に問いかけるように呟いた。


「美琳と話していると、演技をしなくてもいいような気がする」


 美琳は、言葉を失った。彼もまた、同じことを感じているのだろうか。


 美琳の胸に、共鳴するものがあった。


(私と……同じ……?)


 自分が何者なのか分からない。人間なのか、兵器なのか。居場所がない。誰にも理解されない。


(神崎優……あなたも……)


 美琳は、自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。


「私も……」


 声が震えた。


「同じかもしれない」


 優が彼女の方を見た。美琳は視線を逸らせなかった。


「自分が何者なのか、どこに居場所があるのか……」


 美琳の目に、涙が浮かびそうになった。軍人として、感情を見せてはいけない。そう訓練されてきた。しかし今は、それを抑えることができなかった。


 優は、その表情をじっと見つめていた。何かを考えているような、複雑な表情。


 風が吹いた。桜の花びらが、一枚、二枚と舞い上がる。春の匂い。新しい季節の始まり。しかし、二人の心には、言葉にできない何かが渦巻いていた。


 沈黙。


 それは長く、重い沈黙だった。しかし同時に、何か大切なものが二人の間を流れているような、そんな時間でもあった。


 遠くで鳥が鳴いた。校舎からは、生徒たちの笑い声が微かに聞こえる。しかしこの屋上では、時間が止まったようだった。


「美琳」


 デヴォラントが、ゆっくりと口を開いた。


 美琳が顔を上げる。彼女の瞳には、まだわずかに涙が光っていた。


「……何?」


 彼女の声は、かすれていた。


 優は、優しい目で彼女を見つめた。


「俺たち、似ているのかもな」


 その言葉は、春の風のように柔らかく、しかし確かに李美琳の心に届いた。


「居場所がない者同士」


 美琳の心が、大きく震えた。


(神崎優……)


 彼は敵なのだろうか。任務の対象なのだろうか。それとも……


(あなたは……)


 答えは出なかった。しかし今は、それでもよかった。


 二人は、しばらく無言で空を見上げた。


 青く澄み渡った春の空。白い雲がゆっくりと流れていく。その下で、二つの孤独な魂が、わずかに触れ合おうとしていた。


 美琳は、任務を思い出そうとした。自分は軍人だ。感情に流されてはいけない。標的を監視し、必要ならば排除する。それが自分の役割だ。


(私は……軍人。感情に流されてはいけない)


 しかし。


(でも……)


 心臓が、まだ早く打っている。頬が、まだ熱い。隣にいる彼の存在が、強く意識される。


 これは、危険な感情だと美琳は分かっていた。任務を遂行する上で、最も避けるべき感情。


 しかし、止められなかった。


 遠くで、鐘が鳴った。昼休みの終わりを告げる音。


 二人は、同時にゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、戻ろうか」


 優が笑顔で言った。いつもの、完璧な笑顔。しかし今の美琳には、その笑顔の奥に何かが見えた気がした。


 美琳は少し照れたように頷いた。


「うん」


 二人は並んで、屋上の扉へと向かった。その距離は、来た時よりも少しだけ近かった。


 階段を降りながら、美琳が小声で尋ねた。勇気を振り絞って。


「神崎君、また……話してもいい?」


 優は立ち止まり、振り返った。そして微笑んだ。柔らかな、本物の笑みのように見えた。


「もちろん」


 その言葉に、美琳の胸が温かくなった。


 心の中で、小さな声が囁いた。


(これは……危険な感情……)


(でも、止められない……)


 美琳は、その声を振り払おうとはしなかった。




◇◇◇



 その様子を、三階の窓から見上げていた少女がいた。


 櫻井詩織だ。


 彼女は偶然、屋上の二人を目撃していた。霊的感知能力で様子を探る。


 神崎優からは、相変わらず強い「悪意」が感じられる。しかし、李美琳からは……?


(李さんからも、何か……普通じゃない気配)


(人間と、何か別のものが……混ざってる?)


 詩織は困惑した。李美琳も、何か特別な存在なのかもしれない。そして、神崎優との関係は……


(二人の雰囲気……まるで……)


 詩織は十二歳の少女らしい反応を示した。


(恋愛……? いや、でも二人とも何か隠してる)


 彼女は、神宮寺機構長に追加報告が必要だと判断した。複数の「異常」が、一つの場所に集まり始めている。




◆◆◆




 その夜、龍鳳エンターテインメント事務所。


 呂閻王が一人、地下室で僵尸キョンシーの維持作業をしていた。保存された死体たちが、冷凍庫の中で静かに眠っている。


 端末に、龍海峰副隊長からの通信が入った。


「呂閻王、勝手な行動は慎め。術式の準備が整うまで待機だ」


 呂閻王は吐き捨てるように答えた。


「チッ……苛つくんだよ」


「あのクソ猫女、ダラダラと監視ばかりで何もしやがらねえ」


 彼は李美琳への通信を強制的に繋いだ。李美琳の顔が画面に映る。


「呂閻王……! 勝手な行動はしないで」


「黙れよ、クソ猫女」


 呂閻王は冷笑した。


「俺は俺のやり方でやる。標的が本物かどうか、すぐに分かる」


「待って! 副隊長の指示は……」


「知るか」


 呂閻王は一方的に通信を切断した。


 彼は腰の骨壺を撫でながら、不気味な笑みを浮かべた。


「僵尸どもに美味い餌をくれてやるぜ」


「神崎優……お前が本物なら、いい戦いになるだろうよ」




◇◇◇




 同時刻、富士山麓の神域保全機構本部。


 神宮寺機構長が詩織の報告を精査していた。


「李美琳……中国系の転校生か」


 彼は地図上にマーキングを加えた。


「道師連が動いている可能性が高い」


「詩織と連絡を取りつつ、状況を監視せよ」




◇◇◇




 警視庁捜査一課。


 加藤警部が夜遅くまで、証拠を整理していた。


「神崎優……お前の周りで起きすぎている」


 彼は拳を握りしめた。


「必ず真相を掴んでみせる」


 しかし、決定的な証拠には至らない。彼の執念は、まだ届かない。




◇◇◇




 日米合同チーム指揮所。


 グレイ少佐が龍脈データを分析していた。


「道師連の術式準備……何を狙っている?」


「世田谷区が鍵になるかもしれない」


 彼は部下たちに指示を出した。監視体制を強化し、あらゆる可能性に備える。




◇◇◇



 午後11時、神崎邸。


 デヴォラントは全ての情報を統合し、最終的な戦略シミュレーションを完了していた。


(道師連は慎重に動いている)


(警察は証拠不十分)


(各組織は相互に連携していない)


 彼の脳内で、完璧な戦略が組み上がった。


(完璧だ。全ての駒が揃った)


(李美琳……お前は利用価値がある)


(しかし……あの会話は……)


(何だ、この感覚は……)


 デヴォラントは首を振った。感情という不確定要素を、彼は排除しようとした。


(まあ、些細なことだ。計算通りに進んでいる)


(不確定要素はあるが、対処可能だろう)


 窓の外を見る。満月が不気味に輝いていた。


(嵐が来る。そして、その嵐を利用する)


 デヴォラントはベッドに横たわった。しばらくは平和な日常が続くはずだった。


 しかし、運命は予測不可能な方向に動き始めている。狂犬が、その牙を研いでいる。


 穏やかな日常の終わり。


 デヴォラントが予測しなかった、ただ一つの変数が、明日、学校という舞台に現れる。

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