002 第2話:刺激と覚醒

 翌日、本格的な実験が開始された。


 研究チームは前日よりも充実した体制で観察室に集まっていた。田中主任、ウォルシュ博士、山田研究員に加えて、技術者チームも加わっている。機械操作、データ収集、設備管理を担当する2名の技術者が、各種装置を操作していた。


 観察室の照明は昨日よりもさらに明るく調整され、■■を照らす投光器が追加されている。新たに設置されたカメラは高速度撮影が可能で、わずかな変化も見逃さないよう配置されていた。


 田中主任は実験計画書を手に、チーム全体を見回した。


「まずは光刺激から始めよう」


 田中主任が指示を出す。


 最初に可視光線の照射が開始された。通常の白色光から始まり、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、虹の七色を順番に照射していく。光の強度も段階的に上げられ、最終的には直視が困難なほどの強烈な光が■■の表面を照らした。


 ■■には、それが不快な刺激として感じられた。まるで眼球に強烈な光を浴びせられているような、鋭い不快感。だが外見には何の変化もない。黒銀色の粘体は、微動だにしなかった。


 続いて紫外線照射。UV-A、UV-B、UV-Cの各波長が順番に照射される。人間であれば皮膚に深刻なダメージを与えるレベルの紫外線だった。


 ■■の感覚では、肌に熱いものを押し当てられるような強い不快感。しかし表面的な変化は皆無だった。


 最後に赤外線照射。遠赤外線から近赤外線まで、幅広い波長の熱線が照射された。観察室内の温度計は急激に上昇し、40度を超えた。


 ■■には蒸し暑いサウナの中にいるような不快感だったが、やはり外見上の変化はない。


「光刺激に対する反応は観測されません」


 技術者の一人が報告する。


「表面温度の上昇も、赤外線照射による環境温度変化の範囲内です」


 続いて音響刺激が開始された。


 最初は人間の可聴域からスタート。20Hzから20,000Hzまでの周波数を順番に再生していく。音量も段階的に上げられ、最終的には120デシベルを超える轟音が観察室内に響いた。


 ■■の内部では、それが激しい振動として感知される。まるで全身が楽器の共鳴板になったかのような、骨の髄まで響くような不快な振動。しかし粘体の表面は微動だにしない。


 続いて低周波音。人間には聞こえないが、内臓に直接響くような不快な振動。5Hzから19Hzまでの超低周波が、観察室内を満たした。


 最後に超音波。20,000Hzを超える高周波音。コウモリやイルカが使用する領域から、さらに高い周波数まで照射された。


 ■■には、それらすべてが不快感として感じられた。特に超音波は、脳の奥深くでザラザラした感覚を生み出す、極めて不愉快な刺激だった。


「音響刺激にも反応なし」


 山田研究員が記録を取りながら呟く。


「完全に不活性状態を保っています」


 ウォルシュ博士が興味深そうにデータを確認している。


「しかし、内部の熱分布に微細な変化が見られるわ。何らかの反応は起きているのかもしれない」


 次に振動・衝撃テストが開始された。


 観察室の床に設置された振動装置が起動し、■■の身体に物理的な震動が加えられる。最初は微細な振動から始まり、徐々に強度を上げていく。


 ■■の内部では、それが全身を揺さぶる激しい震動として感知された。まるで地震の中にいるような不安定で不愉快な感覚。


 続いて衝撃波発生装置が作動。圧縮空気を使って■■の表面に衝撃を与える。


 ■■には叩かれるような強い不快感として感じられるが、それでも外見は変わらない。黒銀色の粘体は、あらゆる刺激に対して完全に無反応を装い続けた。


「振動・衝撃にも無反応です」


 技術者が報告する。


「表面の変形も、振動の直接的影響による範囲を超えていません」


 ■■の内面では激しい不快感と怒りが渦巻いていた。


 ――なぜ気付かない? 俺は確実に不快感を感じている!


 だが同時に、冷静な部分もあった。今はまだ正体を明かす時ではない。研究者たちがどの程度の実験を予定しているのか、まずはそれを把握する必要がある。


 怒りが込み上げる。38年間の惨めな人生への怒り。冤罪で失った仕事への怒り。親族に騙し取られた保険金への怒り。


 そして今、この屈辱的な扱いへの怒り。


 しかし■■は必死に我慢した。


「電気刺激を試してみよう」


 田中主任の指示で、微弱な電流が■■の身体に流される。


 電気刺激装置から伸びたプローブが、遠隔操作によって■■の表面に接触した。最初は1ミリアンペアという、人間なら感じるか感じないかという微弱な電流からスタート。


 電気が身体を貫く。


 不快だ。不快だ。不快だ。


 ■■の内部では、針で軽く突かれるような鋭い不快感が走った。だが表面的な反応は皆無だった。


 電流の強度が徐々に上げられる。5ミリアンペア、10ミリアンペア、50ミリアンペア。人間なら筋肉の痙攣を起こすレベルの電流だった。


 ■■の内部では強い不快感が走るが、表面的な反応は皆無だった。


 さらに強度が上げられる。100ミリアンペア、500ミリアンペア、1アンペア。もはや人間なら心停止を起こしかねないレベルの電流だった。


 ■■の意識の奥深くで、何かが蠢いた。


〈警告。外部カラノ有害刺激ヲ検知〉


 機械音声が響く。


〈防衛機能ノ起動ヲ検討シマス〉


 だが■■は、その衝動を必死に抑え込んだ。まだだ。まだその時ではない。


「電気刺激にも無反応。完全に不活性状態ね」


 ウォルシュ博士が結論づける。


「しかし電気抵抗値が異常よ。普通の生体組織とは明らかに違う」


 田中主任が首を振る。


「だが内部構造は複雑だ。何らかの機能を持っているはず」


 次に化学物質への暴露テストが行われた。


 様々な薬品が観察室内に噴霧される。最初は中性の塩類溶液から始まり、徐々に刺激性の強い物質へと移行していく。


 酸性物質。塩酸、硫酸、硝酸の希釈溶液が噴霧された。人間の皮膚なら化学熱傷を起こすレベルの濃度だった。


 ■■には強烈な刺激として感じられる。まるで肌がピリピリと痺れるような不快感。だが外見上の変化はない。


 続いてアルカリ性物質。水酸化ナトリウム、水酸化カリウムの溶液。これもまた、人間には深刻なダメージを与える腐食性物質だった。


 ■■の感覚では、酸性物質とは異なる種類の不快感。ヌルヌルした嫌な感触が表面を覆うような感覚。だがやはり表面的な変化は見られない。


 最後に有機溶媒。アルコール、アセトン、トルエンなどの揮発性物質が噴霧された。


 ■■には窒息感を伴う激しい不快感として感じられたが、やはり反応は示さない。


「化学刺激にも無反応です」


 技術者が報告する。


「表面の化学組成にも変化は見られません」


 田中主任が重大な決断を下した。


「もう一段階、侵襲的な検査に移ろう」


 観察室内の緊張感が高まった。


「組織サンプルの採取だ。わずかな量で構わない」


 田中主任の指示で、山田研究員がメスを準備する。


「慎重にね。0.1グラム程度で十分よ」


 ウォルシュ博士が念を押す。


 遠隔操作アームがゆっくりと■■に近づいていく。アームの先端に取り付けられたメスが、■■の表面まで数センチの距離に迫った。


 金属の冷たい感触が、■■の感覚器官を刺激する。


 ――メス? 俺を切ろうとしている? 実験動物のように?


 ――違う。俺は人間だ。意識がある。尊厳がある。


 ――許さない。絶対に許さない!


 ■■の内部で、何かが弾けた。


〈警告。外部からの侵襲ヲ検知。防衛機能ヲ起動シマス〉


 メスが■■の表面に触れた瞬間、異変が起きた。


 冷たい金属が■■の中に「溶けて」いく。


 分子レベルで理解できる。鉄、炭素、クロム…合金の組成が瞬時に解析される。硬度、密度、結晶構造。すべてが情報として蓄積される。


(これは…この身体がメスを喰った?)


〈物質吸収完了。再構成モードニ移行シマス〉


 そして、再構成。意思に従って、金属が形を変える。鋭利な刃だ。先ほど自分を脅かしたソレだ。


「何が起きた!? メスが消失した……?」


 田中主任が慌てる。


「Impossible! 物質の取り込み? 再構成も……」


 ウォルシュ博士の震えた呟きが、突然の音によって途切れた。


 亀裂が走る。観察室の強化ガラスに、蜘蛛の巣状の傷が広がった。再構成されたメスがガラスに突き刺さっている。


「ガラスに亀裂が……!」


 山田研究員が怯えた様子で後退った。


 ■■の内部で何かが変化していた。意識と身体が同期し始めている。ついに、動ける。


 しかし■■は冷静だった。己を傷つけられた怒りは不思議なほど落ち着きを見せていた。


 今はまだ力を見せる時ではない。様子を見るべきだ。


 研究者たちの恐怖と驚愕の中、■■は次の段階への準備を整えた。


 体内に取り込んだメスの分子構造を完全に記録。金属の組成、硬度、加工法。すべてが詳細に分析され、必要に応じて再現可能になった。


 さらに重要なことに、■■は自分の新しい能力を理解し始めていた。


 物質を取り込み、分析し、再構成する。それがこの身体に備わった基本機能の一つだった。


 そして今、その能力が覚醒している。


 明日からは、さらに厳重な警戒の下で実験が行われるだろう。だが、それも■■の計画の内だった。


 一度に全てを見せてはいけない。段階的に、計算されたタイミングで能力を開示しつつ、必要な情報を収集する。


 それが■■が導き出した生存戦略だった。


 研究者たちは慌ただしく観察室を後にしていく。緊急会議が開催されるのだろう。新たなセキュリティ対策、実験プロトコルの見直し、上層部への報告。


 ■■は一人、暗闇の中で考えを巡らせた。


 今日の実験で判明したことがある。この身体は、あらゆる刺激に対して極めて高い耐性を持っている。そして、外部からの侵襲に対しては自動的に防衛機能が作動する。


 さらに重要なのは、物質の取り込みと再構成能力だ。これを使えば、あらゆる道具や武器を作り出すことができる。


 だが今はまだ、その全貌を見せるべきではない。


 研究者たちには「予想外の現象」として認識させ、警戒心を適度に保ちながら、さらなる実験を継続させる。


 その過程で、より多くの情報を収集する。施設の構造、セキュリティシステム、研究者たちの詳細なプロフィール。


 そして、機が熟した時に行動を起こす。


 ■■の胎動は、まだ始まったばかりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る