はじまり 前編
序章
「というわけなんだよ」
「……作り話じゃなくて?」
友人の田神尋鷹(たがみひろたか)は訝しげな表情でそう言った。お前が普段聞かせてくる怪談の方がよっぽど作り話だろう。という突っ込みは置いておくことにする。
「残念ながら、本当にあった怖い話だよ。見せたとおり、備忘録代わりに書き留めておいたノートもあるしな」
「あ、あぁ……でも、なんだってこんな」
「暑い時こそ怖い話ってのは定番だろ。まさか俺に話すのはいいけど俺から聞くのはイヤだ、なんて言わないよな?」
「まぁ……でも、こないだみたいにトイレに行く時は一緒、なんてのはごめんだぞ」
「あれはお前がビクビクしてたからついて行ってやっただけだろ」
「はぁ?上名(かみな)こそトイレの中から『おい、居るよな?』なんて震えた声で言ってきたじゃないか」
「プヒー プフー」
「吹けてないぞ」
俺が友人を我が家に招いたのは、連日のように蝉の大合唱が響いていたとある日のこと。我々恒例の怪談会はどちらが声をかけるにしろ、集合は昼過ぎくらいになるのが通例だ。だが今日に関しては話が長くなりそうなのと、多少思うところもあって常より早く呼ぶことにした。
何故また、あんなことを思い出したのだろうか?今までも何度か折に触れて思い出すことはあり、その度に浮かぶ記憶の泡に顔を寄せ、見えたとおりにメモをとることを繰り返してはいた。だが今回は違う。山に登ったわけでも、親類に不幸があったわけでも、神社にお参りにいったわけでもない。本当にふと思い出した、という感じなのだ。いや、この表現は正確では無いかもしれない。なにせ、自分でもいつ思い出したのかあやふやなのだから。
暑さでぼーっとしたのかな、などと呑気に考えるのは内容が内容だけに躊躇われる。ならばいっそ、あいつに聞かせてやるのも面白いか。丁度今日はどんよりとしたいい天気なのだし、関係する場所を二人で巡ってみれば新しい発見もあるかもしれない。
問題は自身の体験談という都合上、話していると普通に怖くなってくるということだ。ほとんどノートに書いてあるとは言え、補足や質問への返答はしなければならないだろう。以前にも何度かあったことだが、子供時代の生々しい恐怖の記憶というのは中々の味わい深さなのだ。
まあいい、このまま何故思い出したのか?などという理由で悶々と過ごすのも精神衛生上好ましくないだろう。そう思って折に触れ書き上げてきたノートを倉庫から引っ張り出し、奴に読ませる前に改めて目を通す。
……しまったな、止めておけばよかったか。慌ててノートから目を離すと、スマートフォンのすかすかな電話帳の中から友人の名前を見つけ、タップしながらふと考える。
ひょっとすると、あいつなら俺の長年の疑問に答えを見つけてくれるかも知れない。
1. 初めての
祖父は正義感の強い人間で、ニュースで痛ましい事件が報道される度に顔を歪め「ひでぇなぁや……」と呟くような人だ。助けを請われれば断れない性格で、近所の人の相談にもよく乗っているらしい。過去にはなんと消防署で働いていたという。一度仕事中に顔に大火傷を負って生死の境を彷徨ったらしいが、それでも快復後は職務に復帰したというのだから、我が祖父ながら頭が下がる。
そんな祖父は、孫である俺に口癖のように「悪いことだけはするんじゃないよ」と言う。祖父の影響かは知らないが俺自身犯罪行為とは無縁な生活を送っているので、毎回はいはいと返すのがお決まりになってしまった。
俺が小学校の高学年の時だったか。俺が祖父母と昼食を共にした後テレビを見ながらボーっとしていると、祖母が後片付けを始めたので手伝うよと申し出た。いつものように「ありがとねぇ」と言われると思っていたのだが、祖母は「今日はいいよ、それよりじいちゃんの話をちゃんと聞きな」ときた。驚いて祖父の方を見ると腕を組み、何やら難しい顔で思案に耽っていた。
「じいちゃん、話って?」
「ん?おぉ……」
言ったきり、また難しい顔になってしまう。どうしたのだろう、何か話しづらいことなのだろうか?尚も困惑を深めていると、台所から祖母の声がする。
「じいちゃーん!はよう言っちゃいなー!」
「んによー!うっせぇなぁ」
「ほんとは昨日だったのに、じいちゃんがうだうだ悩んでるから今日にして貰ったんでしょぉ!とっとと秋利(しゅうり)に説明しなー!」
「じいちゃん?」
「お、おぉ。庭出んべ」
言いながら立ち上がった祖父についていく。祖父は車庫にある蚊取り線香を取り、火を付けてから「あっち行くべ」と言って川沿いの裏庭へ向かった。近くにあるP箱を持ってきて腰掛けると、祖父は訥々と話し始めた。
「秋利よぉ、秋山のじいちゃんは知ってんべ?」
「うん。じいちゃんの弟でしょ」
「んだ。その秋山のじいちゃんちによ、今から行ってきて欲しいだよ」
「え?なんで?」
「なんでかは言えねぇけど、行って欲しいだ」
「秋山のじいちゃんち怖いからやだよ……歩いてくの?」
「んだ。秋利一人で行って、一人で帰って来るだよ」
「んー……行って、何すればいいの?」
「いいか、じいちゃんの言う事、よーく聞くんだぞ?」
そう言って祖父が話したことを要約すると以下のようになる。
1. 自分一人で家を出発する。帰りも一人、徒歩で帰宅する。
2. 家を出発してから帰ってくるまで喋ってはいけない。特に、自分の名前だけは絶対に言わないこと。
3. なるべく寄り道をせず、ちゃんとした道を歩くこと。
4. 道中出会う人達には愛想よくすること。挨拶をされたら会釈で返すこと。怖いと思っても、失礼の無いようにすること。
5. 向こうの家には誰も居ないし、鍵もかかっていない。
ここまで聞いただけでも小さかった俺は戦々恐々としていたが、次の説明でいよいよ怖くなってしまった。
「そんでいいか?向こうに着いたら、まず玄関を開けて中に入る。ちゃんと靴を脱いで上がるんだぞ。そんで入ったらまずは左に曲がるんだが、廊下と壁に目印があるけぇそれを辿りゃあいい。帰りもな。目印を辿っていくと、おっきなお星さまが書いてある襖があっから、開けて入る。入ったらちゃんと閉めるだよ。
その部屋は秋利も何回か見たことあるべ、あのでっかい鹿の剥製があるとこだ。その部屋に入ったら、部屋の真ん中に猟銃が置いてあっから……猟銃って分かるか?んだ、そのばんばんするやつだ。使い方は分かっか?こうやってもって、ここに引き金があるから人差し指で……そうそう、流石じいちゃんの孫だなや。
んで、部屋に入っと中央にそれがあっから近くに行って持ち上げて、そんで鹿の剥製に向けて撃つだ。へーきだ、弾は入ってねぇからよ。狙いも鹿の方に向けてりゃ適当でええし、ちゃんと撃ててりゃカチッって音がすんからな。
撃てたら猟銃は元あったとこに戻して、後は帰るだけだ。襖と玄関を閉めるの忘れんじゃねぇぞ」
「要するに、行ったら目印を辿って進んで、お星さまの部屋に入ったら襖を閉めてから銃で鹿の剥製を撃って、できたら帰ってくればいいんだよね」
「んだ。出来そうか?」
「……やらなきゃいけないんでしょ?」
そう聞くと、祖父はなんとも言えない顔を浮かべながら、俺の頭を撫でてくれた。やらせたいけどやらせたくない、そんな感じに思えた。
「聞きたいんだけど、喋っちゃいけないっていうのは――」
「だめだ」
「え?」
「答えてやれねぇだよ。もう一度決まり事を教えてくれってんならともかく、なんでやらなきゃとか、これはどういうとか、そういうのはダメだだよ」
「……分かった。今から行けばいい?」
「あぁ。道は分かっか?」
「うん、大丈夫」
「よし……」
そう言うと、祖父は俺にお手洗いに行ってこいと言った。確かに親戚とはいえ、誰も居ない他人の家で用を足すのは憚られる。用を足して玄関に向かうと祖母、そして祖父が何やら持って待っていた。後から考えれば、これを用意するためにもってことだったんだろう。祖父は、以下のようなものを渡してくれた。
・秋山のじいさんちまでの手書きの地図
・ティッシュとハンカチ、それに絆創膏
・お葬式の時なんかに持っていく数珠(やたら大きく、俺の首からネックレスみたいにかけてくれた)
・糸切り鋏(今考えると危ない話だが、剥き身のまま胸ポケットに入れられた)
俺が全て身につけると、祖母が今まで見たことのない表情でとにかく気をつけるんだぞ?じいちゃんの言ったことは全部覚えたか?ちゃーんと守るだぞ?と肩を掴んで捲し立ててきた。祖父がばあちゃんと強めの口調で言うと祖母は名残惜しそうに手を離して、気をつけるんだぞ、帰ったらご馳走作っといてやるからな。と言って居間へ入っていった。もしかすると、泣いていたのかもしれない。
俺は祖父に手を引かれて玄関で靴を履き、家の門まで歩いていった。門の近くまで行くと祖父は立ち止まり、祖母のように俺の肩を掴んでこう言った。
「いいか秋利、まだ話してねぇことがある。まずは、この門を出たらさっき言ったことを守るだ。出た瞬間からだぞ?それと……この門を出てから、戻ってきてこの門をまたくぐるまでのことは誰にも、じいちゃんにもばあちゃんにも話しちゃなんねぇ。大人になるまで、全部秋利の心の中にしまっとくだ。いいか?」
「う、うん。分かった」
「ええ子だ……」
ここまで言うと、初めて祖父は悲しげな表情を浮かべた。俺にとって祖父母とは超然とした存在であり、そんな彼らがこんな表情をするとは信じられなかった。
「よし、じゃあ行ってこい!怖いことなんかなんにもないからな、さーっと行ってさーっと帰ってこい!」
そう背中を叩いた祖父に送り出され、俺は歩き出した。門をくぐる前に一度振り返ると、祖父は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに手を振って見送ってくれた。
いざ門をくぐって道路に出てもなんてことはなく、いつも通りの光景が広がっているだけである。門を出た瞬間から何か起きるのかと身構えていた俺は多少安堵すると喋っちゃダメ、喋っちゃダメ!と心の中で強く念じながら、秋山のじいさんちに向かって歩き出した。
2. 冒険
家を出た俺は、意外とケロっとしていた。確かに言われたことを考えると何が何やら訳がわからないし、何となく不気味でもある。だがそれ以上に、祖父母の態度から俺がやらなきゃいけない、俺がじいちゃんとばあちゃんを助けるんだ!と、ある種ヒーローみたいな気分になっていた。そういう意味では、むしろ気分が良かったと言える。
家を出てすぐは普段より車の交通量が多かったので慎重に歩いていたが、途中からは完全に散歩気分だった。秋山のじいさんちまでは子供の足でゆっくり歩いても15分程度なので、体力のない俺でもそうしんどいということは無い。思わずあくびをしそうになったが、あくびをする時のふあぁぁって声も喋ったことになるのか?と思うと怖くなって、口を手で抑えて必死に噛み殺した。我ながら可愛いものだ。
下手に我慢したせいで普通より涙は出るし、顎は痛いしでちょっと立ち止まっていると、何やらいい匂いがしてきた。家を出て五分も歩いた頃だったろうか?
今でもハッキリ思い出せるが、どう例えていいか皆目見当がつかない。無理矢理にでも例えるのであれば、干したての布団に愛する家族と愛するペットが乗っていて、その匂いが一度に押し寄せて来たとか、庭の花が全部一斉に咲き誇って、その匂いに包まれながら縁側で昼寝をしている……等だろうか?とにかくあの匂い!という例えが見つからない。ポジティブな感情そのものの匂いと言うのが一番近いと思う。
その匂いがして、何だろう?と周りを見渡してみたが、特にどの方向から強く香ってくるわけじゃなかった。困惑しているといつの間にかそのいい匂いは消えていて、何だったんだろうなぁと思いながらも遅くなると祖父母が心配すると思い歩みを再開した。
道程の半分は過ぎただろうか。距離にしては時間がかかっていたが、その日はいつもより車の交通量が多かったからだろう。何しろ田舎だから下道には信号なぞ殆無く、十字路や丁字路は特に気を付けて渡らねばならない。その時もいつも通り前後左右、前後左右と3回ずつくらい確認してから渡り始めた。
渡り終えた直後だったろうか、俺が渡ってきた方からチリンと涼し気な音がした。金属質なものが地面に落ちたような音だった。振り返ってみるが、誰も居ない。道路に目を落としても音源らしきものは見当たらず、何だったんだろう?と体の向きを戻して進もうとすると、進行方向右手の空き地に子供が立っていた。
怪談として語るのならここはいかにも不気味な幽霊然とした格好をさせるべきなんだろうが、残念ながら普通の子だった。服装は詳しく思い出せないが、確か白い服だった。さらさらな長髪を見て女の子かな?と思ったのを覚えている。歳はその時の俺と同じか少し下くらいか、その髪が風に靡くのに正直見惚れてしまっていた。通り過ぎたところで未練がましく振り向いてみるともう居なくなっていて、随分と残念に思ったような気がする。
後はもう大きな道路は渡らないのですいすいと進み、もう少しで目的地というところで道が二手に別れる。右に行けばすぐ目的地だが、ちょっと高くなった山の斜面にある用水路に登らないといけない。左に行けば普通の道だが、やや遠回りになる。少し立ち止まって考えたが、確かちゃんとした道で行けと言われていたなと思い出して、左を選んだ。
そっちの道は他に比べて古い家が多い通りで、奥まで行ってからぐるっと右に回ると秋山のじいさんちがある。我が家でもお馴染みの瓦屋根なんかに少し安心しながら歩いていると、ちょっとした違和感を覚えた。別にその辺りに慣れているわけでもないので違和感を覚えるのもおかしいのだが、確かに感じる。これはなんだ?周りの家をキョロキョロ見回して、やっと違和感の正体に気付くことができた。
各家の門柱や玄関、低めの軒先に何かがぶら下がっている。それはどうやら光を反射するものらしく、チカチカと目に入った結果違和感を覚えていたようだ。興味津々な俺は確かめてみたいと思い、行けそうな玄関先や軒下の近くに寄ってみた。
近くで見てみると、なんと剥き身の包丁ではないか。柄を上にして無造作にぶら下がっていたり、玄関先に置いてあったり、適当なものでは門柱に無造作に置いてあるのである。今だったら危ないという感想が一番に出てくるのだろうが、当時は疑問符しか浮かばなかった。幸い手に取ったりはせず、棚上げにして目的に戻ることにした。なんというしっかりした子どもなのだろうか。
殆どの家に包丁があるなぁ、なんでだろうなぁ等と考えながら歩いていると、漸く目的地、秋山のじいさんちに着いた。数度しか来たことがなかったので不安だったが、門の表札を見ると【上名】の文字があったので恐らく合っているだろうとホッとした。
田舎だからなのか、この地域だからか、はたまたうちの家系だけなのか……うちでは知り合いのことを住んでる地名で呼ぶ。だから殆どの親戚の名字も名前も知らないのだ。最も親戚といえば大体上名なのだが。
件の秋山のじいさんは秋山地区に住んでいるので秋山さんだ。もっと言えばうちのじいちゃんの弟で、若い頃は猟師をやっていたようだ。
早速門をくぐろうとするとふと気付く。あれ、ここには包丁が無い。元より各家に包丁が飾ってあった理由が分からないので、当然ここに無い理由も分からない。
気にしてもしょうがないかと敷地に入っていくと、大量の動物の檻が目に入る。勿論中身入りで、だ。基本は犬だった様な気がするが、確か大きなカラスや猫も居たと思う。ただ見えたのは手前の檻だけで、奥の方に何が居たのか、それとも居なかったのかは分からない。以前来た時はいつも誰かと一緒だったのでさほどでもなかったが、一人で対面すると凄まじい圧を感じた。もっともこの時一番思ったのは(うるさくしないでくれ、騒がないでくれ)という気持ちだったが。
幸い動物たちは多少檻を揺らしたり荒い息を吐いたりするだけで静かなものだった。その檻の前をおっかなびっくり右に曲がると玄関に出る。呼び鈴を鳴らそうとしたが、じいちゃんが誰も居ないと言っていたのを思い出し、そのまま引き戸に手をかけた。まるで悪事を働いている気分に陥り、複雑な気分になったのを覚えている。呼び鈴を鳴らさず声もかけずに他人の家に入ろうとしているのだから。
心の中でお邪魔しますと言って中に入ると、覚えているような覚えていないような間取りだった。辿った道順は殆ど覚えていないので説明は出来ないが、言われていた通り廊下にテープだろうか?黄色い線が貼られていて、それは壁にも同様だった。明かりは廊下だけでなく、全部屋で点いているようだ。何故分かったのかというと、見える限り、全ての部屋の入口が開いていたからである。
俺は玄関を閉め靴を脱いできちんと揃えると、テープに沿って進んでいった。しばらく進んでいくと、これまた言われた通りお星さまが書いてある(これはテープ等ではなく、襖の模様としてきちんと描かれていた)四枚襖が目の前に現れた。その襖を目にした瞬間、俺は驚きで声を上げそうになった。
その襖の前に、見知らぬ子供が正座していたからである。
歳は俺と同じかちょっと下くらいだろうか。さっき空き地で見かけた女の子とは違い、眼の前にいるその子は髪が短く、その後聞いた声から考えても男の子だったと思う。普通ならこの家の子かな?と思うところだが、じいちゃんは誰も居ないって言っていたし、秋山のじいさんちの子供なら何度か会ったことがある。では見覚えのないこの子は?わけが分からなかった。
しかも着ているのは狩衣とでも言えばいいのか、今思い出せばまるで映画【陰陽師】に出てくる安倍晴明のようだった。烏帽子は被っていなかったが。そんな今では神社の神主さんしか着ないような服装を、しかも子どもが着て目の前に座っている……俺は途方に暮れてしまった。
どうすればいいか分からず固まっていると、その子と目が合った。彼は無表情のまま立ち上がると、四枚襖の手前側を開いてどうぞ。と声をかけてきた。お手伝いの子なのかな?と思いありがとうと言いかけ、慌てて口に手をやる。それを見たその子は少しだけ目元を緩ませると、入って。と続けた。
喋れない代わりにその子の方を見ながら会釈をして、部屋の中に入る。俺が完全に部屋に入ると、後ろで襖が閉まった。あの子が閉めてくれたらしい。
畳敷きのその和室には、中央にうちにもあるような一枚板の立派なテーブルがある以外に普通の家具が見当たらなかった。その代わり、奥にある板間の上には聞いていた通りの大きな鹿の剥製が壁にかけてある。
これは角の生えた頭〜首だけのものだったが、それだけでも当時の俺と同じくらいの大きさがある立派なものだった。目玉はまるで本物かのように俺を……いや、正面を見据えており、覗き込むとまるで吸い込まれそうな魅力があった。角も頭の大きさに比例するような立派なもので、枝分かれも普通より多いのではないかと思われた。
他には大きな鳥(鷹?鷲?)や兎、猿、猪、狸、さらには子熊の剥製があった。これだけ聞くとまるで博物館の様なイメージを受けるかもしれないが、その時受けた印象はまるで違った。
鹿以外の剥製が全て檻に入れられ、それぞれの大きさに見合った金剛杖を手に持ち(手のないものは咥え)更には黒い布のようなもので首から上を覆われているのだ。
まるで何かの儀式のようだ……そう光景に途端に怖くなってきてしまったが、同時に好奇心を刺激されたようで、まずは彼らが本当に剥製なのかを確かめてみることにした。恐る恐る檻を突いたり、揺らしてみても何の反応も無い。だが、これらが剥製なのだという確信を得られたとはいえ、であれば檻など必要ないはずだ。子どもの俺が来るのが分かっていたから、イタズラをされないようにしたのだろうか?だがそれなら、祖父が俺にイタズラするでねぇと注意しておくはずだ。
分からないことだらけだったが、とにかくやることをやってしまおう。そう思った俺が中央のテーブルに目をやると、そこには長い桐の箱が置かれている。開けてみると、中にはこれも聞いていた通りの猟銃が萎びた藁のような物に包まれて入っていた。所々に掠れや汚れがあり、随分と使い込まれた物のようだ。持ってみると意外と重く、落とさないよう両手で必死に持ち上げた。その瞬間、急になんとも嫌な臭いを感じて猟銃を落としそうになってしまう。
一言でいってしまえば、獣臭だ。野生の獣の濃い臭い。それが急に辺りに立ち込めてきたのである。剥製がこれだけの数揃っていれば仕方ないのだろうが、その鼻が曲がりそうな臭いに鼻を塞ぎたくなる。だがあいにく持っている猟銃は片手では持つには重すぎた。マズイ、このままでは吐いてしまう。そう思った俺は慌てて鹿の剥製に銃口を向け、引き金を引いた。
次の瞬間、鳴り響いたのは祖父に聞いたカチッという音ではなく、ズドォンという銃声だった。
3. 山
今日は不調だな。やはりマズかったか……だが、身ごもっているあいつに精のつくもんを食わせてやりたい。それに、あんちゃんのとこも二人目の予定があるっていうじゃないか。日頃の礼をしてやろう。
だが、いくらなんでも兎一匹居らんとは、ヤマイラズはやはり先人の経験からだったのか……仕方ない。次で最後にして、駄目ならコゴミかワラビでも取って帰ろう。
新しく当たりをつけておいた場所へ移動していると、ふと視線を感じた気がした。辺りを見渡すが、誰も居るはずがない。その後も何度かその粘つくような、値踏みするような視線を感じたが、気にしないよう努めた。山ではよくあることだ。
その場所へ着くと、目印の傷を付けた楢の木を探す――お、あったぞ。確かこんな形の枝の……ん?あんなに高い場所に付けたか?まぁいい、間違いなく俺がつけたものだ。
座って楢の木に背中を預け、改めて猟銃の手入れを行う。すると、相反する2つの言葉がいきなり心中に浮かび上がった。
今日は大物が穫れるぞ!
早く帰れ
この仕事をしていると、こういう勘が働くことはよくある。後者は恐らく、ヤマイラズにも関わらず来てしまっていることに対する引け目からだろう。ならば、前者の予感こそ吉兆だ。そう考えつつ、猟銃を握りしめながら辺りの気配に神経を集中させる。
風に木の葉が舞う音……風向きが変わったな、今はあちらが風上か。シジュウカラと、これはアオゲラか。鳴き声が近いな……それにこの匂い、マズイな、降ってくるか。ここからだと下までの時間は……
かささ
……興奮を獲物に気取られぬよう、慎重に音のした方へ身体を向ける。おお。
彼方に見えたのは、今まで見たことのないような大きさを持つ、神々しいまでに立派な鹿だった。角といい、体躯といい、あれほどの獲物に出会えるとは……なんという僥倖か。ヤマイラズの由来も忘れて獲物を注視していると、淡い違和感を覚えた。なんだ?……いや、今はあいつを。しかし、これは一体……シジュウカラ?土の匂い……枝葉のざわめき……風向きか!
指を咥えて風を聞いてみると、やはりあちらが風下で間違いない。にも関わらずアレは、あの大きな鹿は逃げるどころか、こちらへ近づいてきてさえいるのだ。
ありえない、どうして?あの距離ならば気付くはず……いや、今はそんなことよりも……
逡巡していた男が顔を上げると、既に獲物は男の射程距離にいた。震える手で遊底を引き、弾を込めようとするが上手く入らない。心中で悪態をつきながらやっとのことで装填し終え、再び顔を上げると、もう獲物の姿は無かった。
……いや、違う。獲物はそこに居た。余りにも近すぎて、獲物がそこにいるという現実を認識できなかったのである。ヤツは、目と鼻の先に居た。
うわぁ!と叫んで尻もちをつくが、その叫び声に獲物は反応しない。まさか……獲物はやつではなく、俺?そんな想像が頭を過ぎる。やはり、山に入るべきでは無かったのか。こいつはきっとヤマイラズの……
心の中で家族に別れを告げ、一思いにやってくれよと目を閉じる。
……腹、胸、続いて顎先に、荒い息遣いと湿った感触がした。驚いて目を開けると、眼前の目玉に自分の顔が映る。ヤツはまるで俺に立ち上がれとでも言うように、鼻先で俺を押し上げようとしている。
恐怖は未だ拭えないが、とりあえず立ち上がらねば。だが、足に力が入らない……猟師という身の上で情けない話だが、腰が抜けてしまっているようだ。尻もちをついている猟師に頭を垂れる獲物、というなんとも奇妙な構図が束の間出来上がっていたが、ヤツの角に掴まることで、なんとか立ち上がることが出来た。
改めて、目の前の獲物……いや、ニホンジカに目をやる。立ち上がってみるとその大きさがよく分かる。なんと、目線の高さが俺と同じではないか。角を全て視界に収めるにはかなり顔を上げねばならず、その先端まで含めれば体高はゆうに六尺は超えていよう。ここ数年は寒かったとはいえ、ここまで大きくなるものか……おぉ、こいつは凄い。角がひのふの……五本にも枝分かれしているではないか。しかもその角には苔が生え、蔓が巻き付き……まさか、そんな。巻き付いているのではない、角から生えているのだ。よく見れば新芽と思しき双葉や、何とも知れぬ果実まで実っている。こんなことが……いや、現に目の前にあるのだから認めざるを得ないのだが……しかし、これではまるで鹿神様のようではないか。まさか本当に……
ヤツを観察していると、再び目が合った。当たり前といえば当たり前だが、その瞳も普通のニホンジカより大きく、まるで黒い宝石のようだった。このまま見つめているだけで、俺の存在そのものが吸い込まれていきそうな……いや、それならそれでいい。今日ここでこのようなモノに出会えたというだけでも、俺の生まれてきた意味はあったのだろうという気がする。
こいつを撃たなくて本当によかった。上名家は益々栄えるぞ、子ども達も、きょうだい達もきっと……
どさっ
突然聞こえた音で我に返ると、自身と同じ高さだったヤツの目線が、今や俺の足首の高さとなっていた。
「おい、どうした!!」
動物に話しかけてもしようがないのは分かる。だがその時の俺は感情を抑えられず、ヤツに向かってしゃがみ込んだ。
「おい、しっかりし……くそ、重い!」
ヤツの頭を抱えるのは断念し、倒れ伏すヤツの周囲を周って異常がないかを探る。だが目立った傷や出血は無い……それなのに、今まさにこいつの命は失われようとしている。いくら見てみても、ただ荒い息を続ける体が上下に動いているだけだ。一体何が……どうする、こいつを助けるにはどうすればいい!?
……そうだ!
「いいか、俺が戻るまで頑張ってろよ!死ぬな、絶対死ぬんじゃないぞ!!」
言うやいなや、荷物のことなど気にも留めずに走り出す。目指す先は、兄の家だ。
「お~い!」
「は~い」
「ちょっと出かけて来る。遅くなるかもしんねぇから、何か食いもん用意してくれ。すぐ出るからよ、適当なもんに包んで……ん?」
「はい。とりあえず、六つ入ってますからね」
「お前……どうして」
「今日はヤマイラズですもの。それにさっきから山の方からざわざわするような気を感じるし、お出かけになるのではと」
「……すまん、なるべく早く戻る。安子を頼んだぞ。それと、俺が居ない間にもし何かあったら――」
「分かっていますわ、いってらっしゃいまし。気を付けてくださいね、あなた」
「あぁ。じゃあいって」
どんっどんっどんっ ……ーん! ちゃ……!
「あら。お客様かしら?」
「いいよ、俺が出てくる」
荷物を持って玄関に向かうと、誰かが戸を叩いて叫んでいるようだ……ん?この声、マサか?戸を開けると、息を切らした弟が鬼気迫る表情で転がり込んできた。
「あんちゃん!っっ大変だ!山で、鹿が倒れて、ヤマイラズで、でも俺……!」
「お前……いいから落ち着け。おーい!マサだ、水を持ってきてやってくれ」
「んくっんぐっ……ぶはぁっ!はぁ……はぁ……」
「少しは落ち着いたか?」
「ごめん、あんちゃん……それよりも!!」
「大丈夫、全部聞くよ。最初から一つづつ教えてくれ、な?」
「あ、あぁ…うん」
弟が語った内容はやはり予想通り、しかしその最悪を極めるものだった。
「馬鹿野郎!!親父がなんで死んじまったか忘れたのか!!!」
「ごめん……でも今は!」
「……分かってる。山撃ちに行ったんなら、小刀なんかも持ってたな?」
「え?あ、あぁ、うん。いつも通りの用意をしていったけど、でも、全部置いてきちまって……」
「いやいい、すぐ出るぞ。おーい!行ってくる!」
「はーい!」
そう言って最近買ったばかりのスバル360に乗り込むと、家内が作った塩むすびを弟と一つづつ食べながら車を走らせた。間に合うと良いんだが。
4. 慚愧
「どの辺りだ?」
「もうすぐだ、もう一つ越えると楢が群生してて……あそこ!」
興奮しながら斜面を登っていくとやがて木立が姿を消して、先程の楢の木の根本にヤツが横たわっているのが見えた。まだ体が上下しているところを見ると、間に合ったようだ。
「おい!あんちゃん連れてきたからな、もう大丈夫だぞ!」
力なく息をするヤツに声をかけたところで、兄が少し遅れて到着した。しまった、興奮のあまり急ぎすぎたか。
「あんちゃん!こいつが……」
「分かってる、ちょっと待ってろ」
そう言って、兄はヤツのことを色々と見てくれた。蹄を確認したり、角に触ったり、腹や背中を撫でたり、しまいには肛門に指を突っ込んで、糞の匂いまで嗅いでいた。俺には何をどうすればいいのか皆目見当もつかなかったのに……流石あんちゃんだ。最後に、兄はヤツの目を見つめていた。やはり、惹かれるものがあるのだろうか?
「なぁあんちゃん、助かりそうか?」
俺は希望を込めて兄を見つめる。だが兄は――薄々、最初から俺にも分かっていたのだろうが――力なく首を横に振るだけだった。
「そんな……」
体から力が抜け、思わず膝をつく。
俺は猟師だ。生きるためとはいえ、今まで数多くの生命を奪ってきた。なのに、つい先刻まで奪おうとしていた命に涙を流すのか。とんだ偽善だ。しかし、これは……
ぼやける視界で兄が何かをしているのが見える……手伝わなければ。袖で溢れる涙を拭い、力の入らない身体に喝を入れて立ち上がる。
「あんちゃん……」
兄は、息も絶え絶えのヤツの頭を撫でていた。俺も真似て、ヤツの体を撫でてやる。
「こいつはな、寿命だ」
「寿命?」
「あぁ、詳しい説明は全部終わったらにしよう。とりあえず今は……これだ」
「俺の銃じゃないか、これで何を……まさか」
「苦しむ姿を、いつまでも見られていたくはないだろう」
「……介錯しろ、ってことだよな」
「そうだ。お前が看取ることになったのも何かの縁だろう……この大きさじゃ刃物で〆るにしたって、一瞬とはいかないだろう。だが、お前のそれなら」
「苦しまずに、送ってやれる……」
「……出来るか?」
「……あぁ。あんちゃんは知らないかもしれないけど、俺って結構上手いんだぜ」
立ち上がって少し歩くと、兄に耳を塞ぐよう合図する。
ドンッ
既に込められていた弾を近くの楢の木に向かって撃ち込む。零点は狂っていないようだ。散らばっていた荷物から弾丸を取り出すと、淀みない動作で排莢から装填までを終え、ヤツに向き直る。
……すごい。いつの間にか、ヤツは立ち上がってこちらを向いていた。なんという気高さだろう。瞬間、俺の双眸からまたぞろ涙が溢れ出す。邪魔をするなと気合で流れる涙を押し留め、兄が渡してくれた手ぬぐいで視界を開く。
ヤツの眉間に照準を合わせる。必然、視線が交差する。大丈夫だ、任せておけ。
『すまないね』
ズドォン
どさっ
「……どうだ?」
「間違いない、即死だよ」
「そうか……よくやったな」
「いや……それで、この後はどうする?」
「そうだな……まずは、葬ってやらにゃいかんな」
「分かった。小屋に円匙があったはずだから、取ってくるよ」
「いや、必要ない。それより担架だな。材料は俺が採ってくるから、ソレまでの間にお前は……」
言って立ち去る兄の背中を見ながら、俺は呆然として立ち尽くしていた。罰当たりではないのか?しかし、兄の言う事なのだから……
決心してヤツに……いや、鹿の死体に近づくと、首元に刃を入れる。手を使って肉を皮から剥がしつつ、肉が剥がれた部分をまた切っての繰り返しだ。そうして首元の皮を胴体から断ち切ると、今度は肉に刃を入れていく。通常であれば血抜きをしてからだが、今はそうも言ってられまい。吹き出すであろう血に備えながら小刀を進めるが、辺りに立ち込める獣臭とは反比例し、不思議と出血が少ない。
何度か保存食用に小屋で解体作業をした経験はあるが、いくら血抜きをしていても太い動脈に当たればどうしたって血は吹き出るものだ。だというのに、これは一体……疑念は脇に置いて無心で作業を進めていると、やがて白く輝くものが顔を覗かせた。俺は鉈に持ち替えると、赤い液体で艶めくソレ目掛けて勢いよく振り下ろした。
「おう、終わったか」
「あぁ……流石に大変だったよ。そっちは?」
「これだけありゃあ足りるだろ。アレが乗る大きさで作んぞ」
戻ってきた兄は竹やら蔓やらをどっさり持ってきており、二人で竹細工に勤しんだ。あっという間に出来上がった担架は取っ手を兼ねる太い竹を二本間隔を置いて並べ、その間に葉と蔓で作った落下防止のための膜があるだけの簡素なものだった。
俺が蔓の結びなどを確認している最中、兄は胴体から分かたれた首部分の周りに何やら白い粉で円を作りつつ、時折その円の中にも撒いていた。獣除けの薬剤か何かだろうか?
「これでいいな……よし、じゃあちゃちゃっと済ませちまうか」
「済ませるって、どうするのさ?」
「運ぶんだよ、俺とお前で」
「それは分かってたけど、どこに?」
「お前よ、俺んちの裏にある塞の神さん見たことあるか?」
「え?あるけど……」
「じゃあよ、その塞の神さんに似た石をこの山で見たことねぇか?」
「えぇ……ん?あぁ、あの沢ぁ渡った先の?」
「おう、それそれ。そこまで持ってくぞ」
「分かった」
「それとよ、歩き始めてから下ろすまでの間、ぜってぇに口きくんじゃねぇぞ。何を見てもだ」
胴体部分のみをなんとか担架に乗せ、お互いに野太い声を上げながら持ち上げる。これならなんとか動かせそうだ。一応先ほどの石がある場所の見当は付いているが、念の為兄を前にして歩き始める。
兄が時折変なことを言い出すのは俺達が幼い時からだった。今日は小便するなとか、川で遊ぶなとか山に入るなとか。破ると決まってひどい目にあうので、いつの間にか兄の言うことに誰も逆らわなくなっていったものだ。久々に聞いたなと昔を懐かしんでいると、前方から荒い息遣いが聞こえてきた。流石の兄も、山を降りて久しい身では堪えるのだろう。だが大丈夫か?と聞くことは出来ない。せめて心の中で応援しつつ、兄の背中を見ると――
は?一瞬声が出そうになるのを必死に止める。
先程まではそこそこな斜面に沿って歩いていたが、今は比較的なだらかになっていて曲がる時もいちいち進行方向に対し俺と兄が向きを合わせる必要がない。つまりどちらかに曲がりながら歩いている時に限れば兄の進行方向、というより兄の目の前にあるものが見えるのだが、そこにありえないものを認めたからだ。
白い毛の子鹿が、口になにやら白い布のようなものを咥えて兄の行く先を歩いているのである。
それだけではない。いつの間にか辺りには複数の気配があり、改めて見渡してみれば
先程の子鹿が進む先には親だろうか?一回り以上も大きな白い鹿が
俺と兄の間が持っている担架の両脇には一頭づつの猪が
彼らの斜め前方向には一体づつの猿が何歩か毎に足元の落ち葉を舞い上げながら
猪の後ろには茎の曲がった蕗の葉を高く上げるように咥えた狸が続き
俺の後方はすぐ近くに先頭をいくのと同じような白い鹿が葉を何枚か咥えつつ
その斜め後方にはまだ葉を何枚も茂らせている枝を両手で掲げ持つ熊が
俺と兄と共に進んでいるのだ。気配から察するに、もっと後方にはまだ居るに違いない。熊を見た時は流石に心臓が飛び出るかと思ったが、この異様な光景の前ではそれも一瞬のことだった。
そう、これは葬列なのだ。恐らくは彼らの主、あるいは家族の。
そう考えると、心なしか彼らも肩を落として、あるいはとぼとぼと歩いているように見えるのだから不思議なものだ。いつの間にか彼らのことを怖いもの、ありえないものとは思えなくなり、共に故人を送る同輩なのだという認識まで芽生え始めた。
最後の坂をなんとか越え沢を渡ると斜面の中にぽつんと二坪ほどの平地があり、その端には子どもの背丈ほどの石柱が見える。
その石柱の下まで担架を運ぶと、兄が振り向いて合図をしたのでそこで下ろす。途端緊張の糸が切れたのか、疲労が一気に押し寄せて俺も兄もその場に崩折れてしまった。
「はぁ……っもう喋っていいぞ」
「はああぁぁぁ……しんどい……」
「息だけ……っ整えたら、立て。もう一仕事だ」
そう言って立ち上がる兄に釣られて俺も腰を上げると、いつの間にか先程の動物たちの姿はなかった。
「よし……黙祷だ」
二人で首の無い、胴体だけの死体に黙祷する。
お前は自分の死期を悟っていたんだろう?だのに何故、俺の前に現れた?やはりお前はヤマイラズと関係があるのか?さっきの動物たちは?
色々な疑問を振り払い、せめて今だけはとヤツの冥福を祈った。
「済んだか?」
「あぁ……それで、この後は?」
「とりあえず、休んでから首んとこに戻るぞ」
また歩くのか……と項垂れている俺に、兄は車内で食べた残りの塩むすびを差し出した。二人で笑い合うと沢まで飛んでいき、手を洗ってから貪るように平らげる。こんな美味く感じる塩むすびを食ったのは、生まれて初めてだ。
5. 隔世
道中の山は、まるで生命の気配がしなかった。聞こえるのは我々の足と風が落ち葉を動かす音だけで、まるで山そのものが喪に服しているかの様だった。
「なぁ、あんちゃん……」
「あんまり喋らずに、余裕を持っとけ。こっからが一番辛いかもしれねぇぞ」
そういう兄の顔は未だ何も終わっていないことを物語るかのように、憂いと覚悟に満ちていた。俺は相変わらず頼りになる兄に安心すると共に、自分にもまだ何か役割があるのだと褌を締め直した。
元いた場所に戻るとヤツの首から上は荒らされた形跡もなく、そのまま残っていた。よかった。兄はその首に近づいていくと、傍に屈み込んで何やら観察しているようなので、俺もそうしてみることにする。
その瞳は生きているかのように鋭く天を見上げ、角に宿る生命たちは主の死に気づかないといったように、未だ青々とその生命を誇っている……ん? その瞬間、強烈な違和感を覚えた。いや、違和感という言葉では形容できない、何かあるべきでないものが目の前にあるという気がしてならない。
気づかなくていい、見るな。
探せ、それだ。
またも相反する言葉が脳内に過る。なんなのだ、これは。縋るように隣の兄を見ると、物憂げな表情で一点を見つめたまま顎に手をやっている。何か見つけたのかと視線を追うと、その先には
……おや、あの実じゃないか。
その実を見た瞬間、この形容し難い感覚の根源はこれだという確信を得た。
血のような色といい丸い形といい一見万両の実のようだが、先刻目にした時とは違い三、四倍は大きくなっている。それに前回は大きさのせいで見えなかったのか、あるいは大きさを増すと同時に現れたのか。実の表面はまるで葉痕の様な隆起に覆われ どくん、どくんと心臓のように鼓動していた。
いや、のようにではない。きっと、これはあいつの心臓なのだ。死期を悟ったあいつが最後の力を振り絞り、何らかの目的を達成するために拵えた、生命の精髄そのものなのだ。
食い入るようにしてその実を見ていると、隣から声が聞こえる。どうやら何度も話しかけられていたようだ。
「…い……おい!」
「あ、あぁ。大丈夫だよ」
「ならいいが……見たか?」
「……その赤い実のことだよな」
「あぁ。神々しい雰囲気にあの大きさ、生命を宿した体、そしてその死に様、そこに宿る異形の実……間違いない。小さい頃親父が言ってた〓〓ズの実だろう」
「なんだよそれ?」
「……お前んとこのカミさん、身ごもってたよな」
「え?あ、あぁ。だから精のつくもん食わせてやりたくて、それで……」
「そうだよな……マサ」
そう言う兄の顔は先程までとは違い、俺達が子供の頃川や山で遊んでいた頃の優しい表情だった。親父が早くに逝ってしまったので、一番上の男手である兄は俺達家族を養うため出稼ぎや炭焼き、牛飼い等にまだ子供にも関わらず精を出していた。その上で俺や弟、妹達が遊ぼうと言うといつも笑って受け入れてくれた。父親代わりに助けてくれる大人の男性も多かったが、折り悪く皆満州へ行ってしまったため結局自分たちのことは自分たちでなんとかするしかなかった。
何故今そんなことを思い出したのかは分からない。子供の頃、遊んでくれとせがむ俺やきょうだい達と、恐らく忙しかっただろうに時間を作って遊んでくれた兄。
「マサ、俺に万が一のことがあったら、うちの家族のことを頼む」
そんな兄の言葉に、知らず涙が溢れていた。
「な、なんでだよ……何をする気なんだよあんちゃん」
「こうなった以上、誰かがやらなきゃなんねぇ。ヤツを看取った俺とお前、どちらかがやらなきゃなんねぇんだ」
「な、なら俺がやるよ!ヤマイラズなのに山に入っちまったのも俺、あいつと初めて会ったのも俺、あいつの命を終わらせたのも俺だ!俺が……」
「気にすんな、あんちゃんに任せとけ」
そう言うやいなや兄は件の実をもぎ取り、赤い液体が滴るそれをためらいなく口に入れた。
その瞬間陽の光は一瞬でかき消え、眼前に真の暗闇が広がったかと思うと、辺りは静寂に包まれた。
そんな……俺がやります。なんで
君では駄〓だ。君の役〓は……男の……守……
だけど……俺の子は、あの子は女だ!
〓の長〓…の長〓が……だ
ってことは、その子以外の子どもらには……
そう〓
……分かった。だが、俺だっていつか死ぬ。守れったって、どうすりゃ……
それは、あの方が〓〓
気がつくと、俺は兄の家で寝かされていた。様子を見に来てくれた義姉さんに話を聞くと、兄に運び入れられてからなんと丸一日寝ていたらしい。兄はと聞くと義姉さんが既に呼んでいてくれたのだろう、襖を開いてその兄が顔を覗かせた。
開口一番大丈夫かと聞いてきたが、それはこっちの台詞だと言うとどちらからともなく笑いが起こり、やがて子どもが起きるでしょうと義姉さんに怒られるまで二人で笑い続けていた。茶の用意をしてくれた義姉さんが下がると、俺は気になっていたことを兄に問いただした。だが兄は
「大丈夫だ、俺はなんとも無いから心配するな。まだお互い疲れてるんだから、今度時間を作ってゆっくり話そう。そうだ、あいつの頭だけどな、お前んちに剥製が置いてある部屋があったろ、そこにしっかりした場所を作ってお祀りしよう。もうやっさんには話を付けて取り掛かってもらってるから、近い内に届くだろ。その時にでも話そうや」
と言い、最後にお前んちには連絡してあるから安心しろ。と付け足してくれたおかげで安堵のため息が出た。
やっさんというのは俺の師匠だ。実家の集落で戦争から帰ってこられた数少ない内の一人で、山のことや獲物のこと、猟師になるのに必要な知識は全てその人から教わった。ヤマイラズのことも、主に教わったのは兄ではなく師匠からだ。
あの師匠が受け入れたということは、やはり必要なことなのだろう。それに兄が後日時間を取ると言っているのだから、急ぐこともあるまい。俺はもう少し寝ると言って目を閉じると、兄のおやすみという声、襖の閉まる小気味いい音を子守唄に、心地よい微睡みへと落ちていくのだった。
そろそろ起きなさい。あまりお待たせしてはいけないよ――
6. 白と白
目を開けると視界は滲んだ白と茶色とに分かれ、目尻から冷たい感覚が重力に引かれ耳に向かって伝い落ちていく……どうやら寝てしまっていたようだ。涙を流すほど悲しい気分になっているのは、なにか悲しい夢でも見たのだろうか?手で目を擦って視界を開くと、視界に入る白の正体に気づいて思わず飛び起きて後ずさる。部屋の前に座っていたあの少年に、膝枕をされていたのだ。
口を抑え恐らくは驚愕の表情で彼を見ていると、彼は無表情のまま立ち上がり俺が入ってきた襖とは別の襖(件の襖には内側にもお星さまが描かれていたので別の襖だと分かった)を開けると、まるで俺にそこから出るよう促しているようだった。俺はどうしようか迷ったが、折角案内してくれているのを無下にするのは悪いと思い、素直に従うことにした。
その襖から出ると暗い廊下が真っ直ぐ伸びており、なんとなく突き当りに別の襖があるように視えた。再び、道中で覚えたような違和感がよぎる。ここに来てはいけなかったのではないか。早く戻るべきなのではないか。そう思い直して振り返ってみると既に襖は閉じられ、年相応の笑みを浮かべた少年が俺に向かって片手を差し出していた。
またもや迷っている俺の手を取ると、少年は暗い廊下をすいすいと歩き始める。どうすればいいか分からず手を引かれるままになっていると、もと来た方からか細い声が聞こえたような気がした。
振り返ってみても見えるのは相変わらず暗い廊下と、もうこんなに進んでいたのかと思うほど遠くにある襖だけだった。先程までは自分を先導するように歩いていた少年はいつの間にか隣におり、俺と同じように振り返っていた。だが先程までとは違い、その表情は不機嫌そのものといった風情で、忌々しげに後方を見つめている。彼には何か視えているのだろうかと呑気に考えていると、彼は俺の方を見もせずに再び早足で歩き出した。
痛い痛いと口に出しそうなのを抑えつつなすがままになっていると、先程よりハッキリとした声が聞こえた。
「だめ!」
その声が聞こえた瞬間、まるで繋いでいた手を誰かに無理矢理引き剥がされたような感触を覚えた。手元を見てみると既に彼は手を離しており、またも不機嫌な表情で俺を見つめていた。その表情に何となく不安を覚えた俺が体の向きはそのままに一歩下がると、少年も一歩近づいてくる。一歩、また一歩。
流石に怖くなってきた俺が踵を返そうとすると、まるで彼の腕が蛇のように伸びたかと思うと、再び俺の腕を強く握ってきた。驚いて振り払おうとするが、俺が腕を振るたび彼の腕は骨など無いかのように左右に力なく揺れる。掴んでいる指を引き剥がそうとしても、まるで牙が食い込んでいるかのように強く握られ、到底歯が立たない。
どうしよう、どうしようと顔を上げると、状況とは打って変わっていたずらっ子のような笑みを浮かべている少年と目が合った。あれ?俺は何で怖いと思ってたんだっけ?そう思い直して彼に付いていこうとすると、彼に掴まれていない方の腕にも掴まれたような感触があった。驚いて後ろを振り向くと、彼と同様白い狩衣の、だが髪の長い少年が居り、まるで行かせまいとするかのように元来た方向へ腕を引っ張っている。
いよいよ混乱した俺はしばらく綱引きの綱のようになっていたが、引き戻そうとする力はやや控えめなのに対し、進ませようとする力は遠慮というものを知らずぐいぐいと強い力で引っ張ってくる為、徐々に均衡が崩れ俺と髪の長い少年は諸共引き摺られていくことになった。
このままでは連れて行かれてしまう……だがどうすればいい?恐らく俺を助けてくれようとしている少年は必死に引き戻そうと努力してくれているようだが、力の差は歴然で最初は遠くに見えていた襖も今ではハッキリと見て取れる距離まで近づいていた。更に悪いことに、そちらへと近づいていくにつれ引っ張る彼の力は強くなり、引き戻そうとする少年の力は弱く細くなっていく。襖は、彼が手を伸ばせば届くところまで迫っていた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。じいちゃんの言いつけ、守れなかったのかなぁ
もうどうしようもないと悟った時、覚えたのはもうダメだという恐怖ではなく、自分に何かを託してくれた祖父への罪悪感だった。
藁にも縋る気持ちで後ろを振り返るも、俺を後方へ引き戻そうとしてくれていた少年の姿はどこにもなく、目の前には襖の隙間から差し込む一条の薄明かりと、逆光に照らされながら片腕をこちらに伸ばしている彼の姿があった。
ごめんじいちゃん、ばあちゃん。帰れないや
俺の心臓を鷲掴もうとでもするかのように、彼の腕が静かに伸びてくる。逆光なのでよく見えないが、どうやら彼は微笑んでいるようだ。なんと美しい……
彼と合わせていた視線を伏せ完全に目を閉じると、彼の腕が更に伸びてくるのを感じ
ばちん!!!!!
ばらばらばら かんころ かんころ
ごとん きぃん
途端、胸の辺りで何かが弾けたような音と衝撃が走り、驚いた俺は尻餅をついてしまった。音と衝撃に驚く暇もなく鈍い痛みが臀部を襲い、たまりかねて腰を上げて出来た隙間に手を差し込むと、手に触れた何かを摘み上げる。
茶色い、木の玉?
見ればそこかしこに同じ様な、しかし大小のある玉が転がっているではないか。驚く心とは裏腹に、頭の方は冷静に――これは数珠の子玉、親玉だ。さっきの衝撃で中通しの紐が切れて散らばってしまったのだろう――そう判断していた。同じ様に、どう転がり出たのか、祖母が胸ポケットに入れてくれていた糸切鋏も落ちている。
まさか、これらが自分を守ってくれたのだろうか?そう思って顔を上げると、そこには腕を伸ばしたままの姿勢で、しかし明らかに先ほどとは違う表情を浮かべた彼が俺を見下ろしていた。
まるで楽しい遊びを大人に邪魔された子供のよう。そう思った。
だが、そんな微笑ましい気持ちになったのも束の間、彼は表情をそのままに両腕を伸ばして俺の肩、そして髪を掴んできた。更には痛みで顔を歪めた俺の視界の先で、儚げな光を廊下へ投げかけていた光の筋が太くなり、明るさを増していく。襖が開いているのだ。
襖の向こうには、何があるのだろう。そんな好奇心のせいか広さを増していく隙間から目を離せずにいると、目の前の彼もそれに気づいたのか、俺を掴む力を弱めて体ごと振り向いた。
丁度その瞬間、向こうの空間からニュッと腕が伸びてきたかと思うと、彼の顔の前で止まるやぱちんという小気味いい音を響かせた。
同時に彼も、目の前にあった襖も、奥で光を放っていた空間も、そこから伸びていた腕も、体を預けていた床すら消え失せ、俺は真の暗闇の中を音もなく落下していった。
ような、気がした。
……ここはどこ?
月並みな感想とともに目覚めると、中々目が開かない。なんだろう?慌てて目を擦ってみるが、やはり眼前には暗闇が広がるばかりで、一向に視界が開けない。
いや、そうか。目はしっかと開いている。ただ、自分が暗闇の中に身を置いているだけなのだ。それが分かった所で、ここがどこなのかという疑問が晴れた訳では無い。頬をつねってみるが、鈍い痛みに若干の後悔とこれは夢ではないのだという失望も覚えた。
ひょっとすると、自分はもう死んでいるのではないか?腕を引っ張り先導していた彼は死神かなにかで、襖の向こうは……
何をバカなと頭を振ると、なんとか状況を整理しようと目を閉じ、精神を集中させる(結局暗闇には変わりないのだが、瞼一つ隔てているだけでも多少の安心感を得ることが出来た)
わけが分からない状況ではあったが、それでも俺が絶望せずに冷静でいられたのは、やはり祖父の存在があった。何故かといえば、そもそも今回の発端は祖父に行けと命じられたからである。あの祖父が自分を危ないところへ送り出す訳が無い。更に、祖父ならこの状況を想定していたろう。つまり危ないことなど何も無い、である。
加えて、ここに来てから遭遇した怪異と思しきモノたちには悪意、害意を感じず、暗い廊下で無理矢理引っ張られていた時ですら状況を把握できていない恐怖こそあったものの、過去何度か覚えたことのある嫌な予感とでもいうのだろうか、そういったものを一度も感じなかったことも大きい。そう、この瞬間までは。
ぴりっ
あ、ヤバイ。
軽い頭痛がしたかと思えば、首の後ろがチリチリと焼けたような熱を帯び、左の瞼が痙攣を始めると視界の半分は色を失う。
何度か経験してきた時のように左目を閉じれば、右の目は現実には有り得ない景色を映し始めた……
7. 気付き
ここで、俺が時折覚える嫌な予感について記しておこう。その感覚を覚えたのは覚えている限りで三度。つまり、親戚宅の件で四回目になる。
最初に遭遇したのは何歳かも覚えていない幼少の砌、母方の祖父母の家を探検している途中で二階へと続く階段をはいはいしながら登っていた時だ。
突然のことに混乱する俺が見たのは、階段を登りきった先から覗く見知らぬ老人の顔半分。目玉は半分飛び出ているのかあり得ないほど上方を見つめ、半端に開いた口からは涎がとめどなく溢れており、今にも朽ち果てそうな両手は柱に食い込んでいるかのかと思うほど強く握られ、あーともうーとも取れるうめき声を上げながら、ただじっと虚空を見つめていた。
誰だろうと見つめていたのは数瞬だったろうか?斜め上方を見つめていた目玉は、だがゆっくりとその視線の先を動かし、徐々にその視界を下方に向けようとしていた。つまり、自分の方にである。
そう認識した次の瞬間、俺は何故か階段の一番下に仰向けで転がっていた。顎を下げて階段の上を見るもそこには先程の老人は影も形もなく、俺が階段から落ちたであろう音を聞きつけて母方の祖父母や両親がどたどたと慌てた様子で駆けつけて来た。そこで俺はやっと声を上げて泣き出し、心配する父親に抱きかかえられたという所でこの記憶は終わっている。
二回目の記憶は前回のそれよりも定かでない。
覚えているのは行っちゃやだ、行っちゃやだと駄々をこねる俺を両親が宥めている光景。そして俺と正座して向かい合う祖父に、両親が必死に何かを伝えている。そんな場面だ。
三回目は初めて小学校の担任が変わった歳だったろうか。
いつものように一人で学校から帰っている途中、何となく今日も遊んでいくかという気分になり、通学路の近くにある邑生(むらい)神社に寄ることにした。いかにも田舎の小さい神社という趣で、拝殿と本殿が一体となった権現造りという様式で建てられている。そのため敷地もさほど広くはなく、当時の自分にとっては自然溢れる公園のようなものだった。
遊ぶと言っても、特に何をするわけでもない。その神社は鎮守の森が本来の意味そのままにあり、森の中にいきなり社が現れるという風情が子供ながらにとても好きだった。といっても、これは通学路側の細い道から行くとそう見えるだけであって、大きい道路に面した入口から入ればきちんとした鳥居、参道、手水舎、狛犬が見守る石段を通って社殿にお参りすることが出来る。
だがそちらへ学校、家から行こうとするとかなりの遠回りをすることになる。なのでいつも脇道から入って、さらに玉垣沿いへ密生している木々に丁度子供が通れるくらいの隙間が開いている部分からよじ登ると、ちょっとした冒険をしている気分を味わえて尚更お得なのである。
玉垣を越えて木々の間を抜けると、目の前から注連縄の巻かれた巨木がこちらを見下ろしてくる。この御神木はいわゆる連理木で、二本の木が隣り合い、ついには合体して一本の大きな木になっているというものだ。其の為古くから吉兆として信仰され、縁結びや夫婦円満などの象徴とされている。そういえばこの神社で地元では見かけたことの無い若い男女に会ったことが何度かあるが、恐らくはそういった由来に依るものだろう。
幹周りは子供が四、五人で手を繋げばやっと届くかという大きさで、鎮守の森の主に相応しい威厳と神々しさを併せ持っている。かくいう自分もこの御神木が好きで(信仰心などではなく、単にカッコよかったからだが)よく周りで虫や植物を観察したり、近くの厩にお馬ちゃんが居る時は一方的に話しかけたりしていたものだ。
その日もいつものように細い脇道から入って玉垣を越え、御神木の根本に座って(小さい神社なので柵に囲まれていたりはしない)ランドセルを脇に置き、今日は何をしようかと木立の間から見える空を眺めていると、ふと視界の端に映る梢が音を立てて揺れた。
それだけであればなんてことはない、風で木がざわめく美しい情景だ。しかし、この時は何か違うような気がした。風にしては揺れや音が大きい、もしかすると猿でも居るのではないか?近くで見たことはないが、学校でも地域でも猿に注意しろというお達しを何度も耳にしている。
仕方ない、今日は帰ろうかと思ったその時、今度は違う方向の梢が音を立てる。直後、複数の木々が同様に揺れ始め、まるで周囲の木立が共鳴を始めたかのようにその身をくねらせ始めた。
異様な光景に怖くなり慌てて帰ろうとしたが、元来た場所から帰るには揺れる木々の間を縫っていかねばならない。それは避けようと本来の順路、つまり拝殿の表から伸びる参道の方から帰ろうとそちらに目を向けた。
と、まさにその瞬間。覚えているような、いないような。祖父から直々に気を付けろと言われていたあの感覚に襲われたのである。しかも……まずい、本当にまずい、これは後者だ。
以前家族の命を救ったことのある、この感覚について祖父から言われたことは二つ。
一つ。 行こうとする場所、しようとすることにその感覚を覚えるなら、絶対にやめろ。
二つ。 今居るその場所に感覚を覚えたのなら、なりふり構わず逃げろ。
今分かるのは恐らく視線の先、つまり拝所にこの感覚の源があり(居り)一刻も早く神社から立ち去ったほうが良さそうだということくらいだ。
だが後方の木々は変わらず風では説明のつかない踊りを続けており、何となくではあるのだがやはりそちらには近づきたくない。かといってこのまま進めば、ここから離れたほうが良さそうだという感覚の根源と鉢合わせすることになる。
数瞬考えた結果当時の自分が採った選択は、このまま下を向いて進む。であった。
今考えればもっとマシな選択肢がいくらでも考えられるが、いと賢き少年時代の自分であってもあの感覚に襲われている最中ではそれに気付けないのも宜なきことと言えよう。
不規則に痙攣を繰り返す左目を左の掌で抑えつつ、段々と強まる頭痛に耐えながらやっとのことで拝所を通り過ぎて参道の方へと視線を上げ、もう大丈夫だろうと安堵の息をつきながら狛犬が視線を交わす石段に差し掛かった時、後ろから声が聞こえた。
おーぅい
恐ろしく普通の声だった。こんな状況でなければ、近所のおじいさんに声をかけられたのかと振り向いていたであろうことは疑いないほどに。
だがその声を聞いた途端、首筋には熱さをこえナイフで切れ込みを入れられたような鋭い痛みが走り、頭痛は立っているのも難しいほどの強さと間隔で押し寄せてきた。左目の瞼はそこだけ別の生命が宿ったかのように意志とは関係なく暴れており、強く押さえつけていないと不快感に耐えられそうにない。
間違いない、声の主が感覚の源だ。
早く逃げよう。はやくはやくはやく。
だがそんな思いとは裏腹に、その声に射竦められたかのようにその場からは一歩も動けず、足はいくら脳が指令を発しようとも頑として動こうとしない。左目を抑える左腕と、体の横に無造作に垂れ下がる右腕も同様で、指にすら力が入らず、辛うじて動かせるのは右目の瞼と眼球のみという有り様だった。
にも関わらず、頭と首筋の痛みは変わらず体内で暴れ続けており、まるで自身の生命そのものがこの場に拒否反応を起こしているかのような錯覚に陥る。
全てが灰色の世界で、だが痛みだけが鮮明に脳裏を過る。
やはり、寄り道したのがいけなかったのだろうか。それとも、給食で出る苦手なボイルキャベツをいつも残していることか?そもそもちゃんとした入口から入らないので、神様が怒っているのでは?
渦巻く思考があちこちで砕けては霧散し、新たな波となって脳内に言葉を形作っていく……これではキリがない。とにかく今は、この窮地からなんとか脱するのが先決だ。
そう強く心に誓ったのも束の間。次の瞬間にはそんな決意など最初から無かったかのように希薄となり、新たな疑問に取って代わられるのであった。
おーぅい
呼ばれている。誰だろう?無視するのは失礼だ。
先ほどこちらの命令も、懇願も聞き入れてくれなかった体はあっさりと向きを反転させ、ソレに向き直る。
何度も遊びに来た邑生神社、その拝所。鈴緒を引き、お賽銭を入れ、二礼二拍一礼にてお参りする場所。本来であれば参拝者が居るであろうそこに、ソレは立っていた。……いや、浮かんでいたという方が正しいだろう。
角の生えた黒い老人の顔を象った能面。
ソレを一言で表現すると、そうなる。
後に調べたところ類似するのは恐らく黒式尉の面だが、記憶を頼りに出来るだけ正確に描写しておこうと思う。
笑っているかのような黒い老人の面、という点では黒式尉と大きな違いはなかったように思う。違いと言えばところどころに小さい罅のようなものがあったり、塗料だろうか?後述する異形の右目からは赤い涙の筋が細く流れている。だが長く伸びた髭は恐らく髭ではなく、顎の先からそのまま枝が伸びたかのような硬質感を持っていた。形状はアルファベットのJと書くのが一番分かりやすいだろう。
だが一般的な黒式尉との一番の違いはそこではない。面の右目がある部分から、あるいは右目そのものから真上に向かって鹿の角のようなものが、まるで昇り龍の様に身を捩り天空へ登っていくかの如くに生えていたのだ。それは枝分かれした鹿の角のような、しかし枝が互生した枯れ枝のようでもあり、面本体と比べると倍はあろうかという長さであった。
おーぅい
そんな代物が、紐も見えないのに切顎の下顎部分が明らかに面とは離れた状態で浮いており、ソレが喋るたびにまるで人が操っているかのように上下するのだ。
だが幸いと言っていいものか、この時の自分は激しい苦痛で驚きや恐怖どころではなく、ただただ左目を抑えながらソレと相対したのみだった。
そんな自分の状況に気がついたのだろうか、ソレは少し大きさを抑えた声で
おぉ……
と、頭痛のせいでよく聞き取れなかったが、まるで悪いことをしたという罪悪感が伝わってくるような声だった。だが実際にその言葉を聞いた瞬間から、首筋の切り裂かれるような灼熱感も、瞼の裏に五寸釘を打ち付けられているような頭痛も嘘のように消え失せ、残ったのは変わらず左目は抑えていなければという使命感、あるいは危機感だけだった。
苦痛は去ったものの、残ったのは空中に浮かぶ不気味な翁面と神社の境内で相対しているという異常な状況であり、結局のところ何も解決していないという失望感が重くのしかかってきた。と同時に、頭痛でそれどころではなかった違和感に気を回す余裕も出てきたのである。
違和感。目の前に異形の翁面が浮かんでいるという状況がそもそも異常なのだが、それ以外になにか気づいたことがあったはずだ。なにか……
改めて、手を伸ばしてもギリギリ届かない程度の距離にあるソレを観察してみる。喉元過ぎればなんとやら、この時の自分を動かしていたのは殆どが好奇心で、恐怖感はどこへいったのだろうか。例の感覚は、恐らくはソレが原因だと思っていたはずなのに。
まさに好奇心は猫をも殺す。だが、その諺通りなら好奇心を満たしてやれば蘇ることが出来るはずだ。ならば、目下の重要事項は逃走ではなく現状の解決、及び違和感の払拭ではないのか?などと自分に都合の良いことを考えながら、まじまじと細部まで観察を始める。
その間ソレは一言も発しなかったばかりか、下顎部分を動かすことすらしなかったのだから、もしかするとこちらの意を汲んでわざわざ動かずにいたのかもしれない。
見れば見るほど美しい面だ。
面自体は黒壇で出来ているのだろうか?光沢はないがその分深みのある美しい黒
顎から伸びる髭はよく見ると二本の細い枝が螺旋状に絡み合って融合しており
天を貫く角はやはり螺旋を描きながら枝?角?が互生するかのようにまばらに生え
根本を見れば痛々しい生え際から赤い血涙が筋を残し
柔和な表情を浮かべた左目はさながら子を見守る親のそれのようにも見える。
改めて見てみても美しい、あるいは神々しいお面だということ以外何も分からない。だが違和感はやはり頭の片隅で燻って……いや、むしろ赤々と燃えだしたかのようだ。まるでソレが流している血涙の……あっ。
なるほどと視界が開けた瞬間、ソレが再び口を動かした。
8. 〓
〓年〓月〓日
以下に会話を記録しておく。覚えている言葉を調べた限りでは中古日本語のように聞こえたが、不思議と意味を解することが出来た。怪異とはそういうものなのだろうが、この言葉は分からないのに意味なら分かるというのがなんとも気持ちの悪い感覚で、文章にしたり他者へ説明するのは中々骨が折れる。
事実、何故か二十年以上経過している今も覚えているその会話を文字に起こす作業は難航している。果たして忘れてしまうまでに全てを書き上げることが出来るだろうか?
〓年〓月〓日
出来た。口調を再現しようとして中古日本語を学ぼうかと血迷ったこともあったが、取り敢えず威厳を損なわない程度の無難な仕上がりにすることが出来た。何度も読み返したが、しっかり記憶通りの内容になっていると思う。忘れてしまった、あるいは脳が理解を拒んだのか意味が分からなかった部分は伏せ字としている。
加えて面が喋る度に上顎と下顎がぶつかるのか、ソレが言葉(呼びかけられた時の声とは違い、老若男女の入り混じった複雑な声だった)を発する度に心地よい木琴のような音が鳴り響いていたが、いちいち挟み込んでいてはキリがないので割愛する。
追記
これは善意で書くのだが、何かの間違いで誰かがこのノートを見ている場合、直ぐに読むのを中止したほうがいい。以前学校の同級生にこの話を掻い摘んで話したところ、次の日から学校に来なくなり二、三週間後に先生から転校したとだけ知らされたことがある。偶然だと思いたいところだが、今までの人生を振り返るにそうも言っていられないだろう。
どうしても興味を惹かれたというのであれば読み進めて頂いても一向に構わないが、単なる備忘録とはいえ自分が書いた物を好んで読んだ方が不幸になるのは忍びない。もし何か障りがあれば、これを盗み読みしているであろう家の住人を探せばいい。
ちなみに、貴方が胡乱な目的の元にこれを読んでいるのであれば、何も心配はいらない。
「大丈夫ですか?」
「……えっ?」
「先程は申し訳ありません。貴方の体質を存じ上げなかったものですから、大変にご不快な思いをさせてしまいました、重ねてお詫びします」
「あ、あの」
「何度かこの辺りでお見受けする内、彼から聞いていた人間だと分かったので次にいらして頂いた時にでもお声がけしようと思っていたのです。それが、とんだ不手際でした。本当に申し訳ありません」
「いや、あの、もういいですから……そ、それより、えっと……」
「確か、挨拶の際は互いに名乗りを上げるのでしたね。私は〓(恐らく御神名。理由は省くがあえて伏せさせて頂く)貴方のお生まれは?」
「お、お生まれ?えっと、この町です」
「かみがた(上方?)でしょうか、それともなかした?(中下?)」
「???えっと・・・」
「おや。それでは失礼ながら、お手を拝借しても?」
そう言ってソレは、見落としていたのか、今まで存在していなかったのか。何本もの細い枯れ枝で編まれた人間の手のようなものを、掌であろう部分を上にして差し出してきた。
これは、こうすればいいのかな?差し出された手に自分の手を重ねると、一瞬ぴりっとした頭痛が走ったのみで、特別何かが起きるということはなかった。もしかして違った……?と戸惑っていると、その手を編んでいた木の枝はゆるりと解け始め、その都度空気に溶けていくかのように消えていった。
「ありがとうございました、秋利殿」
「え?あ、いえ……」
「貴方のお生まれ、よく分かりました。そこでお手を煩わせたついでに不躾ではあるのですが、折いって一つお願いがございます」
「は、はい。なんですか?」
「貴方のお祖父様に、お礼がしたいのでよき日を選んで此方へいらして頂くよう、お言付けをお願いできるでしょうか?理由や、私に言われたこと等は説明しなくても構いません」
「えっと、じいちゃんが何か……?」
「そう不安がる必要はありませんよ、感謝と謝罪をしたいと思っているだけですから。ただ、お祖父様は勘違いでもされているのでしょう。我々の家(住んでいる場所といった意味合いに感じた)にはあれ以来一度もお越しいただけておりませんので、こうして言付けをお願いする他ないのです」
「わ、分かりました。ここへ来るようにじいちゃんに言えば良いんですよね」
「はい、ありがとうございます。それと……おや。そう身構えないでください、お願いは以上です。我々の不手際にて多大なご迷惑をかけ、常ならば要らぬ苦労まで背負わせた挙げ句、更には言伝をお頼みする有り様、このままお返しするわけには参りません。何卒ご助力させて下さいませ」
「えーっと……でも、あんまり困ってないです」
「そうですか……分かりました。では今後何かあれば、是非此方へ足をお運び下さい。出来る限りのことをさせて頂きます。それと……」
「?」
「貴方の体質のこと、努々お忘れなく。それは一生付き合っていかねばならぬもの、そして貴方を救うもの。呪いにして祝福、貴方が〓〓たる烙印」
「体質って……頭が痛くなったり、目の前が灰色になったりすることですか?」
「それもそのうちの一つ、とだけ申し上げておきます。押し付けておいて何を勝手なと思われるかもしれませんが、これは貴方自身が気づかなければならないのです。故に委細全てをお話することは叶いません、お許しください」
「?えっと、その体質は〓さまが僕にくれたんですか……?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えます。その〓……おや、時間が来てしまったようです。長話にお付き合い頂きありがとうございました。またこうやってお話するのは難しいかもしれませんが、どうぞこれからも遊びにいらしてください。そして、くれぐれもご自愛下さいますよう。それでは……」
こちらの息災を祈る台詞と共にソレが消えた瞬間、弾かれたように腕を顔から離して左目を開くと、世界は鮮やかな色に染まっていた。見れば右手の御神木の近くには犬を散歩させている老婦人が、左手の奥の方では自宅の庭を掃除する壮年の男性が、そしてたった今まで翁面が浮いていた場所から視線を下ろした先には、そこになければ間違いなく忘れて帰っていただろう、ランドセルが転がっていたのだった。
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