第3話


 陣に戻ると、徐庶じょしょは真っ直ぐ救護用の幕舎に向かった。

 すぐに幕舎の側に姿を見つける。

 馬から飛び降りた。


賈詡かく殿」


「徐庶……、ああ……郭嘉かくかがなんか言ってたな……解毒剤を探しに行ってたとか……持って来れたのか?」


「はい。あの、陸議りくぎ殿は……」


「……そこの幕舎に移した」


 すぐ側を指差される。見張りがいた。

 賈詡の様子が変だ。

 それに、辺りの空気も。

 変にシンとしているのだ。

 出て来た時の状況からすると、陸議は突然倒れて苦しみ出したので、大変な騒ぎになっているのではないかと思っていたからだ。


「あの……」


 思い出す。

 出て来る時、郭嘉が側にいた。


郭嘉かくか殿は」


 郭嘉、と聞いた瞬間、賈詡が苦虫を噛み潰したような顔になり、徐庶は思わず言葉を止める。


「あいつは自分の幕舎だ。俺の部下に見張らせてるけど、俺の許可を得たって言えば通してくれるだろうよ。会いたきゃ会いに行け。俺はあいつのことはもう知らん」


 賈詡は憤慨したように、歩き去ってしまった。

 徐庶が困惑した顔で、そこに残っていた賈詡の副官を見ると、ずぶ濡れになって戻って来た徐庶の姿に、さすがに哀れみを感じたのか、小さな声で教えてくれる。


「……実は、徐庶殿が陣から離れた直後、郭嘉殿が陸議りくぎ殿の腕を切って、処置を」


「えっ⁉」


 徐庶は驚いた。


「幕舎の中が血の海ですよ」

「何故そんな……いや、彼は……陸議殿は無事なんですか?」

 副官は厳しい顔で小さく首を振った。

「傷はすぐに縫ったのですが、厳しいと軍医は言っています」

「何故郭嘉殿はそんな無謀なことを……解毒剤を取りに行くと、彼にはちゃんと言って……」

「分かっています。確かに、毒に汚れた血を流して毒の効果を薄めるやり方はありますが、私も状況を見ましたが、酷い切り口でした。普通はあんなに切ったりしないと軍医も……」


 副官は郭嘉の幕舎の方を見た。


「郭嘉殿は……曹操殿が幼い頃から目を掛けていた神童と言われていたので、私も常々知っていたつもりになっていましたが、一体何を考えておられるのか分からなくなりました。

 陸議殿は司馬懿しばい殿の副官です。それを無意味に瀕死に追いやった。

 司馬懿殿はさすがに総大将として、陣に動揺があってはまずいとひとまず幕舎に戻られましたが、賈詡将軍が司馬将軍と郭嘉殿の間に入って、空気が生きた心地がしません。

 賈詡将軍はよく感情を抑えておられる」


「それで、陸議殿は」


「軍医は、血を失いすぎていて、非常に危険な状態だと言っています。

 先程までは随分人がいたのですが、打つ手が無くなったのか今は状況を見守ることしか」


 徐庶はすぐに駆けて行った。


 幕舎に飛び込むと、姿が見えた。

 奥の寝台に陸議が寝かされていて、側に司馬孚しばふ、軍医が一人だけいた。

 しかし軍医はすでに道具を片付けている状態だった。


「司馬孚殿」


 呼ばれて、司馬孚がハッとした。


「徐庶殿、」


 徐庶が歩み寄って来る。


「今、そこで少し話を聞きました。驚いて……」

 ぐっ、と司馬孚が涙を飲み込んだようだった。

「すみません。私が郭嘉殿を止めるべきだったんです。

 まさかこんなことになるなんて。兄上にも伯言様にも、私は申し訳なく……」

 顔を伏せ、彼はそれ以上言葉にならないようだった。


 徐庶は側に寄る。


 陸議は眠っているようだが、縫合されたという腕は布で幾重にも捲かれていた。

 血を大量に失ったと言っていた。

 その通り、陸議は血の気を失って、死人のような顔色をしていた。


 まさか、もう息絶えているのではないかと恐ろしく思うほどで、徐庶は手の平を、彼の首筋に当てた。

 雨に打たれて冷え切っていた手に、温もりは感じた。

 だが脈は弱く、よく分からなかった。


 毒。


 苦しんでいた陸議を思い出し、軍医を振り返る。


「あの、彼の肩に毒と見られる斑紋が出ていました。様子を見たいのですが、見ても?」


 毒? と軍医は怪訝そうに聞き返し、数秒後「ああ」と思い出したように頷いた。


「そうでしたね。最初はそうだった。もはやそんなこと忘れていましたよ」

「解毒に使えそうな薬を貰ってきたのです。様子を見たい」

「構いませんが、慎重に願います。傷が開いたら絶対にもう助からない。決して腕を動かさないように」


 司馬孚が布をそっと持ち上げてくれた。

 裸で寝かされていたので、すぐに肩の様子は見えた。


「……斑紋がない。確かにここに出ていたのに」


 司馬孚しばふが小さく頷き、すぐにそっと布を戻した。


「それは……あれだけ血を流せば、毒は薄れるかも知れませんが。

 命を失ったら無意味です。郭嘉かくか殿は若いながら聡明な方。何故我々軍医の処置を待たず、こんな無謀な処置をなさったのか分かりません」


「……陸議殿の左腕は?」


「腱が傷ついているかがまだ分かりません。しかし容赦なく郭嘉殿が二の腕を切っている。あれで再び腕が動けば陸議殿は余程の幸運。再び剣が握れるかは、更に奇跡のようなことです。

 徐庶殿、分かっておられると思いますが。

 陸議殿の問題は、今は腕ではない。命です。

 出来る限りのことはしましたが、覚悟なさって下さいと司馬孚しばふ殿にも、司馬懿殿にも申し上げました。亡くなるならばこの数時間だと」


 司馬孚は陸議の側に、無事な右腕の方に座り、陸議の手を両手で包み込んだ。


「……私はずっとここにいます。

 兄上にも、そうお伝えしてあります」


「……。郭嘉殿と話して来ます」

「私は、話したくありません」


 司馬孚しばふが言った。

 穏やかな人柄の彼が、初めてそんな風に言った。


伯言はくげん様は……見所の全くない私の、人柄を誉めて下さいました。

 今、私の中には、郭嘉殿に対する醜い感情が渦巻いています。

 これを外に出したら、きっと伯言様が悲しむ」


「……司馬孚殿。それは醜い感情とは言いませんよ」


 徐庶じょしょがそう言うと司馬孚の目から涙が零れた。

 彼は陸議の寝てる寝台に顔を伏せて、声を押し殺して泣いた。



 徐庶は静かに一礼してから、幕舎を出た。



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