1-22_旅立ち

旅立ちの朝は、思いがけず晴れていた。

夜明け前の空は、淡い藤色から徐々に金色へと移り変わり、家の屋根に差し込む光が、一日の始まりを静かに告げていた。


村田は背負った革製のリュックを調整しながら、玄関先で軽く背筋を伸ばす。

そっと隣に目をやると、ライトもまた自分の荷を整えていた。

小柄な体に比べてリュックはやや大きく、背中に乗せると少し傾きそうになる。

それでも、ライトは両手で肩紐をぎゅっと握りしめ、まっすぐ前を見ていた。


「さて……いよいよ、だな」

村田の声は、軽く緊張をほぐすような響きを帯びていた。


ライトはこくんと頷いた。その仕草は小さくても、心は強く結ばれているように見えた。

けれど、瞳の奥に浮かぶのは、わずかに揺れる寂しさ。

十年間暮らしてきた家――思い出の詰まったこの場所を離れることの重みが、無言のままに滲んでいた。


「本当に、行くんだな?……まだ今なら引き返せるからな」

村田が静かに問いかけた。

冗談めかしてはいたが、その表情には明らかな心配が浮かんでいた。


ライトは視線を下に落とし、少しだけ唇を噛む。

だが、すぐに顔を上げ、首を横に振った。


「ううん、大丈夫。僕が行きたいって言ったのに、そんなこと言ったらグレイスに嘘つくことになっちゃうし」

言葉の端には、幼いなりの責任感と、決意がにじんでいた。


それから、ライトは少し照れくさそうに、けれどまっすぐな笑顔を浮かべて、村田を見上げた。


「それに、シュンがいれば大丈夫だって僕は信じてるから!」

その言葉に、村田の胸の奥がじんわりと温かくなる。


思わず表情が緩み、右手を伸ばしてライトの髪を軽く撫でた。

まだ少し寝癖が残るその頭に、そっと「よし」と声をかける。


「行こう。街の入り口でグレイスさんが待ってるぞ」


「うん!」

ライトは力強く返事をし、背筋をぴんと伸ばした。

その小さな背中には、しっかりと旅への決意が乗っていた。



街の入り口へ向かう道には、朝の冷え込みがまだ残っていた。

白い吐息がふっと空に溶け、二人の足音が石畳に響く。


やがて、そこに立っていたのはグレイスだった。

木製の持ち手付きの箱を抱え、じっと二人を待っている。

いつも通りの落ち着いた佇まい――だがその表情には、どこか切なさが漂っていた。


「すみません、お待たせしました」

村田が軽く頭を下げながら声をかける。


「いえいえ、二人とも準備は万全ですか?」

グレイスは穏やかに微笑むが、その目は細かく二人の姿を確認している。

どこか名残惜しさを滲ませながら。


「うん、完璧!」

ライトが胸を張ると、リュックがやや後ろへ揺れた。

思わず村田が軽く支えながら笑みを浮かべる。


「それは良かった。お別れの前に、二人に渡すものがあります」


「まず村田さん、貴方にはこちらを……」

グレイスは木箱を軽く持ち直し、まず村田へと手渡す。


「これは……救急箱ですか?」

箱の蓋を開けると、包帯、消毒薬、縫合道具まで、実用的な用具が整っていた。


「えぇ、道中思わぬ怪我をすることもあるでしょう。もしもの時に役立つかと思って」

グレイスの言葉には、旅の危険を見据えた冷静さと、二人への深い気遣いが込められていた。


「ありがとうございます!大切に使わせてもらいます」

村田は真剣な面持ちで頭を下げた。


「そしてライト。貴方にはこれを渡しておきます」

グレイスはしゃがみ込み、そっと封筒の束を差し出した。


ライトは目を丸くしてその束を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。

「なにこれ?」

小さな手で封筒を受け取ると、その表面を指でなぞるようにして、まるで何かの秘密が隠されているかのように覗き込んだ。


「それは、旅の途中で送るための手紙です。何か新しい発見や、出会った人の事について私に教えてほしいのです」

グレイスはやさしく微笑みながら、ライトの手を軽く握った。


「たまにで良いので、お願いしますね。私も少し安心できるので」

その声はどこまでも穏やかで、けれど確かな愛情が込められていた。


「わかった!ちゃんと書くよ!」

ライトは嬉しそうに笑い、封筒をぎゅっと抱きしめた。


次の瞬間、グレイスは堪えきれなくなったように、ライトを強く抱きしめた。

両腕は自然とその小さな体を包み込み、優しく背を撫でる。

その手には、今にも離れてしまう存在を少しでも長く感じていたいという想いがにじんでいた。


「いつもあなたのことを思っていますよ。もしも辛くなったら、いつでも戻ってきて大丈夫ですから」

その言葉は、願いのようでもあり、祈りのようでもあった。


「うん、ありがとうグレイス……いや、お父さん!」

ライトの瞳が大きく揺れる、けれどその中には迷いのない確かな光が宿っていた。


グレイスは驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりと目尻を下げて、微笑みながらライトの身体をそっと離した。


「ライト」

彼はライトの両肩に手を置き、真剣な表情で語りかける。


「なぜあなたに『ライト』と名を付けたかわかりますか?」


ライトは首を傾げたまま、黙ってグレイスの目を見つめる。


「周りを照らす光、希望になってほしいと思って付けたんです」

声には小さな震えが混ざっていたが、それでもまっすぐに想いを伝えた。


「きっと……そうなれると私は信じていますからね」


ライトはほんの一瞬だけ目を伏せ――そして、顔を上げた時には、少年の顔に勇気と決意がしっかりと刻まれていた。

「任せて……僕、絶対強くなるから!」

拳を軽く握りしめて、胸を張って答えたその声には、自分自身を信じる力がこもっていた。


グレイスはしばらくライトの姿を見つめ、その背をそっと一度だけ叩く。

「えぇ……では、いってらっしゃい」


そうして、二人の背がゆっくりと遠ざかっていくのを、グレイスは微動だにせず見送った。

まるでその姿を一秒でも長く、心に焼き付けるように。


グレイスの目には、やがて滲むものが浮かんだが、口元には誇りと優しさの笑みが変わらず残っていた。

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