第16話 夜明け前の策

 倉庫の入口に立つ青年は、夜の匂いと潮風をまとったまま、静かにこちらを見渡した。

 金糸を溶かしたような髪は月明かりを受けて淡く波打ち、灰青の瞳は、湖面の下に冷たい刃を隠しているようだった。細身の体躯に無駄な力みはなく、歩みは羽音すら立てぬ。


 毛布にくるまっていた栞が、小さく息を呑み、身を起こす。その瞳に光が差した。

 ——来てくれた……。

 言葉にはしない。だが、仲間のヴァンパイアが現れたという事実が、張り詰めた気持ちをわずかに解かしていた。


 篠森は、その横顔に胸の奥をざらつかせた。救いが来たのだと理解はできる。だが同時に、その青年は自分の知らない場所へ栞を連れ去る存在にも見える。彼の眼差しは冷たく、どこまでが味方でどこからが敵なのか判別できない。


 ザンビは、何も言わずに視線を固定していた。かつてノクターンで共闘したときの刃筋は忘れていない。力量は確かだ。だが、その力を何のために振るうのか——そこが肝心だった。


 レニは、その視線を受け止めると、一拍の間を置き、場の呼吸を読むように周囲を見渡した。そして、あたかもそれが当然であるかのように、口を開く。

「……状況を整理いたしましょう。ヘカトリカの残りは、第七世代が二名、第五世代が一名。第五世代はノクターン奥の祭壇を拠点に、儀式を継続しています」


 その口調は穏やかで、普段の軽口を封じた礼儀正しさがあった。

「対象だった美咲や他の被験体は奪還されました。しかし、あの者たちは人工マナや、その場にいた人間を糧に儀式を続行し、さらなる強化を目指しています」


 篠森は黙って聞いていた。内容の半分も意味は飲み込めていない。ただ、彼女たちを救った時点で終わるはずだった儀式が、なお続いているという事実だけは理解できた。——何かがおかしい。だが、その「何か」が何なのかまでは分からない。


 レニは淡々と続ける。

「第五世代は、儀式の最中に限って防御が緩む瞬間があります。そこを突くのが最も効率的です。ただし、正面から挑めばこちらが削られるだけ。突入と祭壇破壊を同時に行う必要があります」


 その言葉に、ザンビの眉がわずかに動いた。

「……随分と開けた口を利くな」

「今はそうすべき時ですので」

 レニは微笑すらせず、静かにそう返した。


 篠森には、そのやり取りの意味までは掴めなかった。ただ、目の前の青年が、この場における空気と情報の流れを、意図的に整えていることだけは肌で感じた。


 倉庫の中の空気が、ゆっくりと形を変える。閉ざされていた出口が、わずかに開いたような気配がした。


 ザンビは倉庫の片隅に置かれた木箱を机代わりに、地図を広げた。

「正面は囮だ。側面から祭壇に回り、破壊する」

 指先が海沿いの通路や裏口を叩き、短い音を立てるたび、図上の線が生き物のように動いて見えた。


 ナユタが前に出かけた瞬間、ザンビは低く制した。

「インペポは使うな。短時間で複数回は禁忌だ」

「でも——」

「煙路で後方支援だ。力を無駄にするな」

 娘は唇を噛み、視線を落とす。


「囮は俺がやる」篠森が言った。

 地図の上に影を落とし、ザンビをまっすぐ見返す。

「無茶だ」

「だからこそだ。俺が引きつける」

 声には迷いがなかった。刑事時代に危険な突入を何度も経験してきた記憶が、血肉の奥でまだ熱を帯びている。


 ザンビはしばし黙し、息を吐いた。

「……なら、ナユタをつける。支援に回れば持ちこたえられるはずだ」


 ナユタは一瞬だけ篠森を見やり、短く頷いた。

 その目には、父に与えられた役割を全うする決意と、どこか篠森を値踏みするような光が同居している。


 栞は、そのやりとりを黙って見ていた。

 ——篠森とナユタが並んで戦う……。

 胸の奥が、微かにざわめいた。自分はもう以前のように、彼の隣に立てる存在ではない。それを理解しているはずなのに、心のどこかが反発する。


 「私なら——」喉元まで出かかった言葉を、栞は飲み込んだ。

 彼の身を案じる気持ちと、離れていくような感覚が同時に押し寄せ、胸の奥が重たく沈む。

 ナユタの視線が一瞬、こちらに流れた。そこにあったのは、競うような、試すような光だった。


 レニは壁際に立ち、腕を組んだまま全員を見渡していた。瞳の奥には、何かを測る冷たい光が宿っている。それが、決して感情の揺れとは無縁の計算であることを、栞は感じ取っていた。


 作戦は決まった。だが、倉庫の空気はまだ出発には早いと告げていた。


***


 倉庫の隙間から差し込む光が、わずかに青みを帯びた。夜が薄れ、港の空気が冷たく張りつめていく。夜明けと同時に突入する——それが決まっていた。


 レニが静かにポーチを開け、銀色の小袋を取り出す。手のひらほどの大きさ、中には濃い琥珀色のゼリーが詰まっている。

「私が所属している研究施設で試作された人工マナです。即効性があり、短時間なら戦闘にも耐えられるはず」

 口調は淡々としているが、その視線は栞だけを真っ直ぐに捉えていた。


 栞は視線を落とし、数秒ためらってからそれを受け取る。封を切り、冷たい甘みを口の奥に流し込む。その瞬間、頬の血色がわずかに戻り、呼吸が少し楽になるのが分かった。


 その様子を篠森は黙って見ていた。

 ——必要なことだ。あいつが生き延びるなら、何だって使えばいい。

 そう頭では理解している。それでも、あの青年の手から差し出されたものをためらいなく口にする彼女の姿に、言葉にならない何かが胸の奥に沈んだ。


 その横で、ザンビとナユタが並んで呪具を広げ、残量を確かめていた。

「これ、残り少ないや」

「こっちと交換しろ」

 短いやりとりの中で、二人の動きは滑らかだった。必要なものを補充し合い、無駄なく袋に収めていく。

 やがてナユタが小さな布袋を篠森に差し出した。

「はい、あんたの分」

 中には掌に収まる黒石のような呪具が数個入っていた。


 全員の準備が整う。時間はもうほとんど残っていない。


 シャッターが軋む音とともに上がり、外気が流れ込む。港の向こうにはまだ夜の色が残っていたが、東の空は白く滲み始めている。


 ナユタは一歩外に出て、大きく肩を回した。背筋を反らし、脚を伸ばす。薄明かりの中で、褐色の肌がなめらかに光を返し、しなやかな四肢が猫のように伸びていく。長い手足が静かにしなるたび、筋肉の陰影が浮かび上がり、戦士として鍛えられた体の線が露わになった。

「冷えてると動きが鈍るからね」

 振り返ったその笑みは、獲物を前にした獣のように研ぎ澄まされていた。


 篠森はナイフの刃を光にかざし、ザンビは最後の呪具を腰に納める。

「行くぞ。全員、生きて帰る」

 ザンビの言葉に、誰も異を唱える者はいなかった。

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