第15話 夜明けを待たず
港へ向かう車は、舗装の悪い裏道を軋みながら進んでいた。
座席で、篠森は栞の身体を支えている。彼女の体温は人間のそれよりわずかに低く、肌は硝子のように冷たい。
助手席のナユタは、時おりルームミラー越しに視線を寄越してきた。
それは敵を値踏みする眼であり、同時に、父の背中を護る戦士の眼だった。
「……変な気を起こしたら、あたしがやるからね」
わざと軽く言い放ち、身をひねって、篠森を指先で軽く突く。冗談めかした声音の奥に、警戒の色が滲んでいる。
篠森は返す言葉を探したが、喉の奥でかすれ、結局は小さく息を吐くにとどまった。
栞の髪が肩にかかり、かすかな花の香が鼻をかすめる。
それはかつての日々を思い起こさせ、同時に遠ざけもした。
やがて車は港外れの倉庫に滑り込み、重いシャッターが閉められる。
中にはザンビの仲間が待っていた。囚われていた女たちは、毛布に包まれ、促されるままに車から降ろされる。協力者たちは彼女たちを文字通り抱え上げ、闇の中へ連れ去るように保護していった。
残った倉庫の一角で、栞は壁にもたれた。唇は薄く色を失い、指先は硬く冷え切っている。
「……ひどい負担だな」
ザンビが一瞥し、低く言った。
栞はかすかに頷く。
「半覚醒のままでは、肉体が保たない……血の儀式が必要なの」
篠森の脳裏に、日本で見た光景が閃く。
冷たい金属台の上で痙攣し、牙を剥き出しにした“グール”。
——彼女も、あれのようになってしまうのか。
胸の奥に、不意に重たい鉛が沈んだ。
ザンビは港の地図を広げ、その上に節くれ立った指を置いた。
「……第5世代を放置すれば、奴らは必ず勢力を立て直す。儀式もまだ続いている可能性が高い。夜明けまでに片を付ける」
その声は低く、石を削るように硬かった。
篠森は黙って聞いていた。正しい判断だ。引き返せば、今日までの血と汗が無駄になる。それは理解している。だが——。
横目に見た栞は、毛布にくるまりながらも、肩で息をしていた。肌は蒼白で、頬の赤みはすでに消えている。
これ以上、負担を掛ければ壊れる。
強がっているナユタも、先ほどの戦闘で消耗は激しい。額の汗を拭おうともせず、壁に背を預けたまま視線を外している。
——こんな時、俺にもっと力があれば。
拳が勝手に固くなる。刑事を辞めてから鍛え直したつもりでも、あの異形と互角に渡り合える技は持たない。刀や弾丸でどうにかなる相手なら、とうに終わっていた。
己の無力さが、胸の奥に鈍い石のように沈殿していく。
ザンビは視線を栞に移した。
「……お前の力が必要だ」
短く、しかし拒絶を許さぬ口調だった。
篠森は反射的に栞を見る。彼女は目を伏せたまま、長い睫毛の影が震えている。
——血の儀式には、ノクターンの奥にある祭壇が必要。
それを告げれば、篠森はまた危険な場所に飛び込むだろう。この三人と私だけで第五世代に勝てる見込みは薄い。
だが、私がここで協力を拒めば——篠森は日本に帰れる。何も知らなかった頃の彼に戻れる。
栞は唇を噛み、胸の奥で言葉を押し殺した。
「……私が行けば、負担になる」
それは事実であり、同時に、彼を遠ざけるための嘘でもあった。
そのやりとりを聞いていたナユタが、不意に声を荒げた。
「なんでこの人に頼むの? ヴァンパイアなんでしょ!」
言葉は鋭く、倉庫の空気を裂いた。
篠森の目が、思わずナユタに向く。
——何を知っている。何を見てきた。
そんな問いが、瞳に宿っていたのだろう。
ナユタは一瞬だけ、その視線に射抜かれ、肩をすくめた。
「……ごめん。言いすぎた」
声の熱は急速にしぼみ、彼女は視線を逸らす。
ザンビが歩み寄り、行き場を失った娘をそっと抱き寄せた。
「いいか、ナユタ……ヴァンパイアすべてが俺たちの敵じゃない。あちらにも社会があり、掟がある。俺たちハンターは、その境界の秩序を守るためにいる」
低く、よく通る声だった。
「人を害する者は狩る。だが、そうでない者まで切り捨てれば、ただの虐殺になる」
ナユタの肩からわずかに力が抜けた。
父の胸に額を預けたまま、小さく頷く。その表情は篠森からは見えなかったが、指先の震えが彼女の感情を物語っていた。
倉庫には、波の音と遠い船笛だけが響いていた。
倉庫の隅、毛布に包まれた栞の傍らに腰を下ろす。
「……血の儀式って、どうやればいい」
声は抑えたつもりだったが、耳に届いた瞬間、自分でもその焦りに気づく。
栞は顔を上げなかった。
白い指先が毛布の端を掴み、かすかに震えている。
沈黙が降りる。篠森はその横顔を、答えを待つ時間ごと抱きしめるように見つめた。
——いま話したら、助けてって言ってしまう……。
栞の胸の奥で、その言葉が何度も反響する。彼を巻き込めば、帰る道は断たれる。だが、黙っていれば、自分は……。
「栞を救うなら、あれを倒すしかないでしょ」
不意に、倉庫の外から声がした。聞き覚えのない響き。だが、軽やかな抑揚の奥に、どこか冷たい硬質さが潜んでいる。
ナユタが即座に腰を浮かせ、刃のような気配を纏った。
「……!」
彼女の視線は扉の向こうに釘付けだ。
「大丈夫だ」
ザンビが短く言った。
その声は娘を制しながらも、微かに警戒を帯びていた。
扉がきしみ、薄明かりの中に影が伸びる。
「逃げたんじゃないのか?」
皮肉めいた口調でザンビが話しかける。
そこに立っていたのは、ノクターンの廊下で篠森がすれ違った、あの青年だった。
月光を浴びた金髪は柔らかく波打ち、瞳は宝石のように淡く輝いている。人間のものではない透明な冷たさが、その全身に漂っていた。
「レニ」
その名を呼んだのは栞だった。
立ち上がった彼女は、毛布を肩から落とし、わずかに息を荒げている。
レニは薄く笑った。
「……調子はどうだい、栞。状況は分かっている。君を救うには、あれを倒すしかない」
その瞳が篠森を一瞥する。そこには計るような光と、拒絶も敵意もない奇妙な静けさがあった。
倉庫の空気が、ひときわ重くなる。
篠森は言葉を飲み込み、ただ目の前の青年を見据えた。
——夜明けまで、あとわずか。
だが、その短い時間が、彼らの命運をすべて決める。
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