第6話 彼方の都市(まち)へ
朝の光は、古びた商店街の外れにある安ホテルの窓から、斜めに差し込んでいた。
壁紙の剥がれかけた部屋で、篠森は簡素な机に腰をかけ、一枚の封筒を前にしていた。茶色いクラフト紙に、太いインクで記された宛名——警視庁組織犯罪対策部の北條宛だった。
北條は、篠森がまだ刑事だった頃からの旧い知り合いだ。十五年前——梓川栞が忽然と姿を消したあのとき、篠森が私的に進めていた調査にも、北條は黙って手を貸してくれた数少ない人物だった。北條の助力がなければ、当時の自分はもっと早く壁にぶつかっていただろう。
その北條に、今回は封をした資料を託す。差出人の名前は書かない。中には今回の動きに関する断片的な記録と、万一のときにだけ開封すべき合図文が入っている。篠森は一度、手紙を読み返すと、封筒を丁寧に閉じた。
フロントの女性に預けるとき、宛名を口にすることはない。ただ「これを、この住所に送ってほしい」とだけ告げる。彼女は眉をひそめもせず、無言で預かり札を差し出した。現金を添えると、札はすぐにポケットに消える。
この街では、余計な詮索は商売の邪魔になるらしい。
チェックアウトを済ませ、篠森はホテル前の舗道に出た。
まだ朝の八時過ぎだというのに、空気は湿り気を帯びて重く、シャツの背にじわりと汗が滲む。遠くでトラックのエンジン音が響き、古いパン屋の軒先から焼きたての匂いが漂ってくる。市場帰りの女が、大きな袋を抱えてゆっくりと通り過ぎた。
空港行きのシャトルバス乗り場までは、徒歩で十五分。歩きながら、篠森は肩越しに後方を確かめる。
気配を感じたわけではない。ただ、ここ数日の“冷たい視線”の記憶が、どうにも抜けない。何度か交差点の角で立ち止まり、周囲を見回す。商店街の人影はまばらで、追跡者らしい姿はなかった。
乗り場に着くと、すでに数人の乗客が集まっていた。スーツケースを抱えた観光客、出張らしい男、そして背中に大きなリュックを背負った若い女。誰もが談笑し、これから向かう空の旅に心を浮き立たせている。
その空気の軽さが、篠森にはむしろ落ち着かなかった。
彼にとって今日の移動は、逃避と潜入の入り混じったものだ。出発の瞬間まで、どこかで待ち伏せされる可能性を考えざるを得ない。
バスが到着し、ドアが開く。運転手が無造作に手を上げて乗客を促す。
篠森は最後尾に並び、一人ひとりの顔を視線の端で追った。相手の眼差し、足取り、荷物の持ち方——不自然さはない。
それでも座席に着くと、窓の外の反射ガラスに、車内全体を映し込む角度を探した。
シャトルバスは静かに走り出し、郊外の緩やかな坂道を登っていった。
車内はエアコンの低い唸りと、時折の車体の揺れに合わせて軋む音だけが響く。窓際の席では、若い観光客がガイドブックを広げ、隣の席の老人は新聞を膝に置いたままうつらうつらしている。笑い声もささやき声も、すべてが遠く、透明な膜を隔てた向こう側の出来事のように思えた。
やがてバスは、古い商店街を抜け、大通りへと出た。
街路樹の緑が、夏の日差しに透ける。遠くに見える高架道路の向こうは、もう市街の縁だ。窓ガラス越しに流れる景色の奥で、篠森は無意識に拳を握っていた。
ケープタウン行きの航空券は、すでにポケットの中にある。だが、本当の意味での出発はまだ先だ——空港を出るその瞬間まで、気を緩めることはできない。
篠森は背もたれに身を預けながらも、視線は絶えず車内を巡らせていた。窓ガラスに映る人影の輪郭を、何度も確認する。だが、異様な視線も、不自然な動きも見つからない。
それでも、胸の奥に巣食った重たい感覚は抜けなかった。何かがこちらを見ている——そう思わせる冷たさが、皮膚の裏側に貼りついている。
四十分ほどでバスは空港に到着した。エントランスの自動ドアが開くと、冷房の強い空気が顔に当たる。
チケットカウンターでパスポートと予約番号を提示し、搭乗券を受け取る。ドバイ経由ケープタウン行き。手荷物を預け、軽くなったキャリーの取っ手を握ると、ようやく旅立ちの実感がわずかに湧いた。
出発案内の大型掲示板は、青と白の光を交互に点滅させながら、無数の都市名を並べている。篠森は「Dubai」の文字を見つけ、搭乗口の番号を確かめていた——そのときだ。
背後に、ふと気配を感じた。
まさか、この人混みの中で?
首筋に冷たいものが走る。振り返るべきか、歩き出すべきか、一瞬の迷いが脳裏をよぎった——が、次の瞬間、その気配は声を伴った。
「……見送りくらいはさせてもらおうかと思いまして」
振り向けば、狭間が立っていた。昨日と同じ落ち着いた顔つきだが、今日は軽いジャケット姿で、空港の喧騒に紛れても違和感がない。
狭間は片手に小さな封筒を持っていた。それを差し出しながら、静かに告げる。
「現地での協力者の連絡先です。ザンビ・ムティ——彼を探してください」
篠森は受け取り、親指で紙の感触を確かめる。封はされていない。中には名刺と写真が一枚、達筆な手書きで番号と住所が書かれている。
「ザンビ?」
「ケープタウンにいる人間です。私とは管轄が違うので詳しいことは言えませんが、向こうでの案内役にはなるでしょう」
狭間の声は相変わらず柔らかく、しかし何かを伏せている響きがあった。
篠森は半歩下がり、狭間の目を探る。——俺は、あんたにケープタウンへ行くなんて一言も話していないはずだ。
言葉には出さないが、その疑念は視線に滲んだらしい。狭間は、薄く口角を上げて応えた。
「出国審査を通れば、もう私の目も届きません。だからこそ、頼れる相手をひとりは置いておくべきだと思いまして」
やや間を置き、篠森は短く息を吐いた。
つまり——俺の行き先は、筒抜けってことなんだな。
その事実を口にすれば、この空港のざわめきが一瞬にして冷え込むような気がして、あえて言わなかった。
狭間は手首の時計をちらりと見やり、「搭乗時間には余裕があります」とだけ告げる。周囲では、観光客たちが記念写真を撮り、子供の笑い声が響いている。だが篠森の耳には、その全てが遠い世界の雑音にしか聞こえなかった。
「それでは、お元気で」
狭間はそれ以上の言葉を残さず、軽く会釈すると人混みに紛れていった。
篠森は封筒をジャケットの内ポケットにしまい、搭乗券を握り直す。
保安検査場は、長蛇の列が折り重なるように続いていた。金属探知機をくぐるたびに小さな電子音が響き、係員の「ベルトを外してください」という声が規則的に繰り返される。
列の中で足を止めるたび、背後からの視線を探った。誰もこちらを見ていない——少なくとも、そう装っている。
荷物のトレーを受け取り、ポケットの小物や腕時計を放り込む。X線検査のベルトコンベアが荷物を飲み込み、冷たい金属ゲートが全身を透かす。係員が無言で頷くのを確認して通り抜け、受け取った荷物を肩に掛けた。
出国審査を抜けると、空気が変わった。免税店の強い香水の匂いと、フロアに反響するアナウンス。高い天井の下、出発を待つ人々が思い思いに時間を潰している。
搭乗口の前の長椅子に腰を下ろすと、全身から力が抜けた。
狭間の顔が頭に浮かぶ。あの男は、なぜ俺の行き先を知っていたのか。いや、知っているのは狭間だけじゃない。きっと、あいつら——ヘカトリカも。
胸の奥で、何かが鈍く鳴った。あの夜の冷たい口づけの感触が、うっすらと蘇る。
大きな窓の向こうには、滑走路が広がっていた。夏の陽射しに照らされたアスファルトは白く揺らぎ、遠くで機体の尾翼が並んでいる。
頭上を通る航空機の影が、床に黒く伸びては消えた。まるで、あの「黒き口づけ」が形を変えて追ってきたかのように。
周囲では、外国人観光客が荷物の詰め直しをし、家族連れが写真を撮っている。誰もが、自分の旅のことだけを考えている——そう見える。
だが篠森にとって、この搭乗口は出口であり、同時に狩人の待ち伏せ場にも思えた。
搭乗開始のアナウンスが流れる。係員が列を作るよう促す声に従い、篠森は立ち上がった。
列に並びながら、無意識に周囲の顔を確認する。年配の夫婦、ビジネスマン、学生風の青年。脅威には見えない——だが、その無害さこそが最も危うい。
搭乗券を差し出すと、バーコードが短く鳴った。ゲートを抜けると、ジェットブリッジの奥に機体の白い腹が見える。
歩を進めるごとに、心の奥で何かが硬く固まっていく。
——行くしかない。
座席に腰を下ろし、シートベルトを締める。窓の外では、誘導灯がゆっくりと後退していった。
機体が滑走路に向けて進む振動が、足元から伝わってくる。
その微かな揺れに身を委ねながら、篠森は静かに目を閉じた。
あの街の夜が、俺を待っている。
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